第9話 少年、逃走と茶会

 エヴァン師の声で我に返る。相変わらず前に立ち、大鎌を持って共鳴する空気を動じずに浴びている。呼吸することも難しくなってきた僕の手を取り、エヴァン師は部屋の扉を蹴破って出た。


「ひっ、う……え、えゔぁ、ん、さんっ……!」


 苦しかった肺に空気が突然入ってくる。ちょっとだけ腐敗の匂いも口から入って噎せてしまう。今からでも吐き出したい気持ちでいたが、エヴァン師は止まることなく走る。運動のできない文芸一筋の僕にとって走るという行為はまさしく拷問である。

 もつれそうになる僕を誘導しながらエヴァン師は走り続けた。風のように路地を蹴り、歩く人々の合間を縫う。

 大鎌を持った青年と学園の制服を着た僕たちを、人々はただの風が通り過ぎたかのように一瞥するだけだ。大鎌に関しては全く誰も声をあげない。

 見えていないのだろうか。

 見えないのか。

 それとも見ないように術でも施してあるのだろうか。

 ホワイトチャペルを抜けて学園側の街へと出た僕たちは喫茶店へと駆け込んだ。


「やあ、ベンジャミン」

「いらっしゃい、エヴァン」


 なかはシックでココアブラウンを主体にした色合いだった。僕たちを快く出迎えた男は、黒の革エプロンを身につけて誰もいない店内を優雅に満喫していた。白磁に金の縁取りのカップを片手に、その男はエヴァン師を見る。

 ローマ彫刻の美しい彫りの深い顔だ。眉は男らしく綺麗に整い、輝く金髪を後頭部へと流すように固めている。グレーの瞳はミステリアスに輝いた。まるで一枚の絵画から動き出したかのような美しさに僕はただ見惚れた。きっとご婦人たちは彼を見ただけでこの世の美を識るように酔いしれてしまうだろう。不健康という言葉を体現しているエヴァン師とは正反対だ。


「オスカー。君、私を貶さなかったか?」眉を寄せた師が僕を睨む。

「……何も」


 ベンジャミン氏が僕を見て目を丸めた。


「人間のお客さんを君が連れてくるなんてね。いや、それよりも君が、ヴィクトリア大帝国に入国していたことが一番の驚きだ」


 ベンジャミン氏はカップを置いて立ち上がった。そして僕の前に来ると優雅にお辞儀をする。


「はじめまして。私はベンジャミン・マイブリッジ。この喫茶店のオーナーをしている」

「は、はじめまして」僕は緊張気味に自己紹介をはじめた。ベンジャミン氏は鼻先がつきそうなぐらいに僕の顔に近づいた。顔面凶器に等しい美貌が興味津々に輝いている。

「オスカー・ビスマルクです」

「オスカー・ビスマルクくんね! お腹が空いただろう? 好きなところに座るといい!」


 クイックターン。

 踊るようにベンジャミン氏は僕の背後に回ると肩を掴んでエスコートをはじめた。全く誰もいない店内の奥、三脚台が支柱を務めるテーブル席に座らされる。

 エヴァン師が向かいに座る。漆黒の大鎌はいつの間にかヴァイオリンの形に戻っていた。


「やはり英国人はスコーンがよろしいかな? ちなみに私の得意料理はピッツァだがね!!」

「……キューカンバーサンドイッチとスコーンにしてくれ。あとジャムは苦めのマーマレード」

「君には聞いてなかったんだがね。それにキューカンバーサンドイッチは古いよ、もう」


 そうだろう、オスカーくん?

 ベンジャミン氏が僕に同意を求める。適当にうなずいておくだけにした。

 キューカンバーサンドイッチとは、きゅうりのサンドイッチのこと。ワインビネガーを使用し、新鮮なきゅうりを挟んだそれは、昔では最高のもてなしの一品だった。技術が進んで新鮮なきゅうりが手に入る現代において、キューカンバーサンドイッチの高級さは低い。今ではハムやベーコンを挟むものが人気だ。そっちのほうがきゅうりよりもお腹が満たされるというのもある。

 おこがましいことではあるが、若者代表と言わせておくと、古臭い。いや、美味しいけれど。

 ベンジャミン氏は喫茶店のカウンター席の向かいに入った。キッチンがあり、テキパキと作業をはじめる。流れてくる鼻歌はスコットランド民謡だ。


「……そういえば朝から何も食べてなかった」


 独り言がポツリと溢れた。朝から突然、強引な取り調べが起きてすぐにはじまったのだ。食べる暇なんて全くなかった。

 昨夜から続く劇的な事象ばかりで食事のことなど一切気づかなかった。僕自身の体のことなのに。

 ご飯のことに気づくと体は空腹を自覚した。盛大にお腹が鳴って空腹を訴える。

 キッチンから流れてくる香ばしい匂いが僕の口のなかを刺激した。涎が乾いた口を潤す。


「君は色々な事象がありすぎて哀しむというものが欠如しているようだ」


 食前に出された水を飲みながら──綺麗な水道水だ──エヴァン師は僕を観察した。視線を受け止めることのできなかった僕はテーブルを見つめるだけ。


「……実感が湧かないんです」

「ご両親の死に?」

「ええ、まあ、そうですね……」


 生存者ゼロのあの状況でも僕は両親の死に対して実感がなかった。一昨日まで遺品整理後に遠回りしたりして両親の面影を捜しては、見知らぬ男女に声をかけてしまう時もあった。

 今だって誰かが喜色を浮かべた顔をして僕の名前を呼びながら、両親の無事を伝えてくれるかもしれないという期待がある。


「君の両親は死んだよ、確実に」


 師は周囲の人間たちと違って容赦がなかった。真正面から僕の聞きたくない死を説く。


「ビクトリア号の爆破の衝撃でね。爆発物の近くにいたんだ。即死だな、あれは」

「やめてください」胸の奥がざわついてうるさい。

「そして君のご両親の遺体は損傷が激しいまま海中へと落ちた」

「やめてくださいっ!!」


 僕は立ち上がってエヴァン師を睨んだ。激昂しているのに彼は無表情でいるだけだ。

 悔しいことに。

 こんなにも屈辱的なことに、僕はこれでも涙を流せなかった。

 呼吸が荒くなる。もっと言ってやりたいけど、上手く言葉が出なかった。

 悔しくて仕方ない。

 目眩が起きそうなくらい混乱している僕の前を、ベンジャミン氏が笑顔を向けた。コトンと硬い音がしてテーブルにスコーンとキューカンバーサンドイッチ、そして紅茶が置かれる。


「さ、食べるといい!!」


 突拍子もない凶器の笑顔に毒気が抜かれる。何も言えなくなって過呼吸手前の呼吸は途端に落ち着いた。いったい何の魔法を使ったのか、不思議に思うことばかり。

 素直に僕は座り、スコーンを手に取った。円柱のスコーンを横に裂き、一緒に出されたマーマレードジャムをたっぷり乗せて齧る。


「っ……にが、いっ!」


 一口入れたマーマレードジャムは思いのほか苦味が強かった。慌ててもう一つあったクロテッドクリームを上乗せして食べる。

 隣に座ったベンジャミン氏が苦笑いした。


「エヴァン好みの甘さ控えめに作っているから、甘いものが好きな英国人には苦すぎるかもね。……まあ、エヴァンも英国人なんだけど」

「私は甘いものは嫌いだ、滅べばいいのに」

「そうはいってもねえ、難しいと思うよ」

「ふん」エヴァン師は拗ねたようにスコーンを齧る。甘いクリームに見向きもしない。

「え?」僕は目を見開いた。


 死神にも国籍があるのだろうか。いや、それよりも僕はベンジャミン氏に疑問をぶつける。


「マイブリッジさんも、死神……なんですか?」

「ははっ。ベンジャミンで構わないよ。って、エヴァン。お前、知らない子をここに連れてきたのかい?」

「急いでいてね。さっきまで魔術師を撒いたところなんだ」

「……魔術師、か」


 ベンジャミン氏が顔をしかめる。


「お前がここに来たと聞いたのは驚いたよ。当分この国には派遣されないと思っていた」

「……逃げてばかりではいられない」


 エヴァン師は目を伏せて義手を見つめた。とても哀しげに見えた。


「ドゥーバー海峡のこと、聞いたよ。我々の仲間も一緒に数名、やられたそうだね」

「ああ。私が派遣されたのはそのためだ。魔術師たちが我々の仲間を──屈辱だ」


 二人の声には怒りが満ちていた。そして明確な殺意。


「仲間、というのは、死神は多いんですか?」

「如何にも。数万、数億の魂を導かなくてはいけないのだから、当然だろう」

「導く……」そういえば死神のすることとは一体なんなのか、僕は知らないままだ。


「あの、死神って何をするんですか?」

「ふむ。至極まともな質問だ。先の魔術師かどうかの質問の減点はなしにしてやろう」

「は、はあ……?」

「我々は生と死の均衡を保つことだ」

「保つ……どうやって、ですか?」


 エヴァン師は空になった食器──いつの間に平らげている──をベンジャミン氏に片付けさせる。そして僕に向き直ると食後の紅茶を優雅に口にしながら講義の続きだ、と言葉を続けた。


「基本的には死んだ人間の魂を保護し、行くべき場所へと導く。天国か地獄か、はたまた転生か……それを我々が天秤にかけながら審議する」


 僕にとっては未知の世界、未知の常識だ。理解が追いつかない。それが分かったのか、エヴァン師は咳払いをして次の講義に回すことにした。


「死神見習いのオスカーには難しい議題だ。だからまずは身近な議題に行こう」

「議題……」

「あれ、そういえば二人とも学校大丈夫かい?」


 ベンジャミン氏が清国──アジア最大の王国で香港と台湾をヴィクトリア大帝国は植民地に定めている──の茶器で新しいお茶を入れている。匂いからして烏龍茶だ。


「問題ない」

「えっ」

「朝からオスカーとテオの分とともに休日の申請を出してある」

「いくらなんでも……よく出せましたね」僕は休日をあの厳しい学園から奪い取ったことに驚いた。初等部では未だに古い考えの教員が多く、ちょっとしたミスでも鞭打ちが行われている学園でもあるのだ。

「少し暗示を使ったからな」

「暗示?」


 正規ルートから奪ったものではないようだ。少し感心した自分を呪う。


「それについては別の機会に──身近な議題だったな。うん。それなら、魔術師というものを議題にするべきだな」


 魔術師とは。エヴァン師の瞳が真剣味を帯びた。魂ごと射抜いてしまうかのような鋭い視線に、僕は姿勢を正した。


「先生が言うのが正しければ、僕の両親の魂を奪った人も、魔術師なんですよね」

「そうだ」


 師は窓辺に装飾品として置かれたランタンを手に取り、テーブルの上に置いた。マッチを取り出し、火をつけてランタンの蝋燭に火をつける。赤い息吹がなかで鉱石などの力を借りずに燃えている。


「飛翔せよ!」


 エヴァン師が火に息を吹きかける。

 スパーク。

 そして赤からオレンジへと変わり、火は膨張して形を変えた。店内を鳥の甲高い鳴き声が支配する。長い尾を持つ美しい鳥は店内を飛び回った。その姿を見て僕は驚嘆する。


「不死鳥……!」


 半分正解だ、と師が頷いた気配がした。


「魔術師の目的は不老不死を手に入れることだ。これは古来から変わっていない」


 炎から生まれた不死鳥はベンジャミン氏の肩に止まって翼を休める。


「いわゆる死の克服と呼ばれるものだ。我々にとっては拒絶だがね」

「確かにアジア史でとある皇帝が不死を求めたという逸話も多くありますね」僕は頷いて師の講義に耳を傾ける。

「彼らは不老不死を求めるがあまりに多くを犠牲にしてきた。様々なアプローチから、魂を弄んだのだよ」

「……例えば、どのようにですか」


 ちょっとした好奇心が疼いてしまった。


「多くの例から一つを挙げるとするならば、人体実験だ。これは昔も今も盛んに行われている。医学のためと嘯いて胸を切開して心臓を取り出すのだよ」

「うっ……なんで心臓を」

「心臓と魂は臓器のなかで一番繋がりが深いからだ。そして時には女の持つ子宮もともに取り出された。二つの臓器がね。さて、君はここまで聞いてどこか聞いたようなものだと思わなかったかな?」

「どこかで……」


 心臓は魂と繋がりが深いから、魔術師は実験で心臓を取り出した。


「心臓……子宮、臓器……あれ、僕どこかで聞いた気がする」


 どこで……生物学か、いや違う。最近耳にした。


「あ──」


 僕は分かった。合点がいった。確実に昨日、二つの臓器というフレーズを聞いたことがある!


切り裂き魔ジャック・ザ・リッパー!」


 そう、世間を騒がせている殺人鬼。彼、もしくは彼女は、被害者から臓器を二つ奪っている。

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