第7話 少年、疑惑と魔法

 警視庁に保護されたあと、僕は気絶してそのまま一夜を過ごしたらしい。起きてすぐに巡査の階級の警察官に呼ばれ、とある一室に案内された。


 目の前の刑事が苛立たしげに鉛筆の頭を机に突かせている。片方の手でうっすらと頭皮の見える黒髪を掻き、僕を苛立たしげに見つめた。


「もう一度聞こう、ビスマルクくん」


 ドイツ系統のファミリーネームを冷たい声音で呟くだけで、目の前の刑事が反プロイセン派──今は友好条約で和解したはずだけどなあ──というのは分かった。残念ながらドイツの血が混ざったことはなく、父方の曽祖父がドイツ人の夫婦の養子になったので結局は血筋的に英国人なのだ。


 説明するのも面倒だし、多分この刑事は聞かないだろう。見るからに気難しい頑固な気質というか、オーラというか、そういうものが、彼から滲み出ている。


「お友達が見えて追った君は、彼が女性を殺しているのを見たんだね」

「──いいえ、僕が見たのは霧が」

「汚い霧だって?」


 途中で刑事は馬鹿にして鼻で笑う。正直に答えているというのに。それにもう一度話せと言ったのは間違いなく、あなただ。

 真っ直ぐに口を閉ざし、僕は刑事と対峙する。そろそろ解放してほしいので僕は頷く。

 この刑事、香水くさい──以下、彼を香水刑事と呼ぶことにする。


「そうです。それで見えませんでしたし、犯行現場など見ていません。テオはただ立っていただけ。以上です」


 五回も、いやそれ以上も繰り返して話した内容を、僕は簡潔に述べた。


「──あっは。あははははははっ」


 香水刑事は天井を見上げて高く笑った。と思ったら、僕を睨みつけて机を拳で叩く。鋭い音なので驚いて飛び上がる。


「いい加減にしろ、クソガキッ!!」


 怒声までセットになって僕を罵倒する。ボサボサの髪と目の下のクマ。切り裂きジャック事件のせいでろくに一睡もしていないのがよくわかった。そしてあまりの疲れで香水刑事たちは一刻も早く幕引きを図りたいのだろう。何せ犠牲者が増えるということは、市民の信頼が減っていくということになるのだ。

 無能な警察、などと叩いて市民を煽る記事もそろそろ出てくるかもしれない。


「聞いているのか?!」

「聞いています」


 大の大人がとてもキレ散らかしているのに、相反して僕の心は何故か冷静だ。香水刑事のクマさえ観察してしまうほど余裕が何故かあった。

 全てを他人事のように見ている、という感覚がまだ残っているらしい。

 僕は欠伸を噛み殺して眉間を揉む。そろそろ台座のせいでお尻が痛くなってきた。


汚い霧スモッグなんて出てない! 時代を間違えているのか、SF小説の読みすぎだな!」

「テオを犯人にしたいのなら明確な証拠と動機を調べないといけないのでは?」


 しまったな。

 僕は言葉にしたことに後悔した。

 冷静すぎた子どもの言葉に、香水刑事の頰が朱色になり、顔全体に怒りの赤へと広まっていく。聞き取りの内容を記帳していた部下らしき刑事が笑いを噛み殺している。慕われているわけではないようだ。


 立ち上がった香水刑事は苛立って立ち上がり、僕の側に寄ると唾を飛ばしながらまくし立てる。


「庇っても無駄だ! 遺体のすぐそばにいて、立っていた! それ以上の証拠があるか?! いや、ない!」


 芝居掛かった風に喋る香水刑事のある種のナルシストぶりに僕は辟易した。まだシェイクスピアの戯曲を読んでいる方がマシ。

 シャーロック・ホームズもあまりの馬鹿馬鹿しさに驚嘆するだろう。香水刑事の推理力と理解力のない演説は、別の巡査が入ってくるまで続いた。

 ノックがして開かれ、レイモンドさんが顔を見せる。


「失礼します。アーノルド警部、身元引き受け人がいらっしゃいました」

「ビスマルクの?」

「はい、そうです」


 アーノルド警部の舌打ちが響く。頭を乱暴に搔きむしり、僕に出て行け、と促した。

 部下らしき刑事はやっとか、と安堵しているように肩をすくめて胃の辺りをさする。レイモンドさんもホッとしていた。

 ようやく解放された僕はレイモンドさんに連れられて狭い個室からロビーへと移動した。


「災難だったね、何もされてないかい?」レイモンドさんが気遣って問う。

「あの人は強引だから……ちょっとみんな困っているんだ」

「大丈夫です。あの……」


 僕は立ち止まる。はるかに大人の体躯が一歩前で立ち止まって僕を振り向いた。意を決して僕は問う。


「テオには犯人容疑がかかっているんですか?」

「……」


 無言と一瞬の憐憫の表情は肯定を表していた。真っ直ぐに見つめる僕の視線を振り払ってレイモンドさんは僕の肩を優しく抱いて、歩くように促した。


「君の友人は数日身柄を保護することになっている」

「何故、ですか。凶器なんて持ってなかったですし、テオはあんな大それたことをする動機も邪な思いなんか持ってません」

「オスカーくん」


 眉尻を下げてレイモンドさんは告げる。


「大人には大人の事情があるんだ」


 全く答えになっていない苦し紛れの言葉だった。

 ロビーにはエヴァン氏がいた。退屈そうにロビーの壁に寄りかかり、手には聖書を。全くつまらなそうに頁を捲っては首をかしげている。


「彼が君の引き受け人だ」


 レイチェル嬢かマーサ夫人が来るとは思っていたが、まさか。僕は驚いて静かにエヴァン氏に近づいた。気づくと聖書を無造作に閉じて僕の前に立った。


「おはよう、ビスマルクくん」


 香水刑事とは違った人を馬鹿にしたようなイントネーションのバリトンボイスが響く。あまりにも底冷えのする声音に周囲は眉を潜めたがすぐに関心を無くしてしまったのか、そっぽを向く。レイモンドさんも少しばかり眉を寄せていたが、にこやかな表情でエヴァン氏に話しかける。僕としては心臓を鷲掴みにされたぐらいの衝撃を感じる。息が詰まりそうだ。


「先生、お連れしました」

「どうも」


 ろくな挨拶もせずにエヴァン氏は困惑する僕の肩を抱き、警視庁から出た。朝日が目の奥を焼いて制服の帽子を深くかぶり直した。ほとんどの荷物をエヴァン氏が持っている。

 おかしなことに近くの市電に乗ることもせず、バス停にも足を止めず、僕とエヴァン氏はロンドンの街をただ闊歩する。学園に行くかと思いきや、反対方向に曲がったりしてなかなか目的地が見出せない。


「どこに行くつもりですか?」


 堪り兼ねて問うとエヴァン氏は唇に人差し指をあてる。そしてその指が一点を差した。その視線の先には見覚えのある男が物陰から僕たちの様子を伺っていた。取り調べを受けていたとき、記帳していたアーノルド警部の部下らしき刑事だ。


「警視庁を出たときから尾行していたようだ。ちょっと面白くて遊んでたんだがな」

「面白い?」

「面白いだろう。見たまえ。困惑している顔だ、実に愉快だ」


 不愉快の間違いじゃないだろうか。僕的には疑惑がこっちにも向いていると気付いて苛立ちが頂点に達しそうだ。今すぐにでも詰め寄って正々堂々と僕ではないと宣言してやろうか、と思っていた矢先。エヴァン氏が僕の手を取った。義手の右手で。

 無機質な音がする。


「走ろう」


 突然の提案に僕は困惑して返事をどうするべきか迷った。はじめから聞くつもりはなかったのか、エヴァン氏は意地悪な笑みを浮かべて走り出す。僕の腕を掴んでいるので、半ば引きずられるような形で走らなくてはいけなくなった。そうでもしないと腕が千切れる。


「オスカー・ビスマルク!」


 エヴァン氏が振り向きもせずに僕を呼ぶ。


「君を死の魔法へと誘おう!」


 告げられた言葉に、僕はエヴァン氏がアヘンでも吸っているのかと思った。死の魔法、という単語を使うなど──ましてやそれに誘おうなどと。常識のある人間なら全くトチ狂った台詞だと思う。


 立ち止まり、エヴァン氏はマッチを取り出して擦る。

 シュボッ。

 マッチの先端に火が灯り、それを薄い唇へと近づける。そのまま振り返り、豆粒大の大きさになっていた尾行刑事がこちらへと近づいてくる。


「飛翔せよ!」


 エヴァン氏が息を吹いた。灯る火に向けて。

 小さな息吹によって火は揺れたかと思うとスパークした。そしてワルツを踊るように火はくねり、そしてまたスパーク。火は形を変えて蝶となる。珊瑚色の艶やかで妖しい羽根を纏った蝶の大群がたったマッチ一本の火で精製された。

 蝶の大群は追ってきた刑事たちへと向かっていく。


「な、なんだ?!」


 突然の蝶たちの襲撃に、若い刑事は怯んで立ち止まる。


「さあ、今だ。急ごう」


 エヴァン氏は再び僕の手を握って走った。途中でマッチの火を消して上着のポケットにねじ込んだ。あり得ない光景と言動に僕は身震いすると同時に興奮していた。


 目の前の男とともに行動すればもしかしたら──。


 奇妙な高揚感に酔っていると頭上から烏の大群が押し寄せた。


「?!」


 真っ直ぐに僕たちに向けて迫る黒い大群はあっという間に僕たちの行く手を阻んだ。


「崩れよ!」


 エヴァン氏は怯むことなどせずにもう一度マッチを擦る。迷わず吐息をかけた。

 スパークとともに炎は大きな猫となり眼前の烏の壁を引っ掻き崩した。


「なーん!」


 大きな猫は烏を全て飲み込んで燃やした。その瞬間、僕の鼻孔を油彩の匂いが霞む。

 そしてまた走る。

 僕たちは見知らぬ街に入り込んだ。一度も行ったことのない、少しだけ鬱屈とした雰囲気を漂わせる場所。街の住人たちであろう人々の服装は見窄らしく、まともに洗濯もできていないのかあちこち泥やシミがすごい。


「ここはホワイトチャペルだ」

「ホワイトチャペルですって?」


 エヴァン氏の言葉に納得する。浮浪児たちが僕たちを品定めして、いつ掏摸を働こうかと目を光らせている。


「何故、ここを」

「とりあえず来たまえ」


 ホワイトチャペルの薄暗い路地に入り、僕たちはボロボロのフラットのなかに入った。壁紙は剥がれ、歩くたびに軋む床に心臓が飛び跳ねる。


「さて」


 案内されたのは二階の一室。狭くて暗い一室にはボロボロという言葉からかけ離れたアンティーク家具がぽつんと置かれている。猫足で真紅のクッションの椅子が二つ、向かい合うように配置されている。中央には丸テーブルがあり、レースのような透し彫りがされていた。

 エヴァン氏は手前の椅子に座り、僕を奥の椅子へ座るように促した。すらりとした長い足を組み、僕と向かい合う。

 異質な空間に僕の体は緊張で固まった。


「あの」


 何か言わなくてはと思って口を開くもエヴァン氏が手のひらで制した。


「言わなくて結構。そして安全だ」

「安全?」

「先ほどの烏だよ」

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