第5話 少年、束の間と惨劇
「似てたでしょ?」
全く似てなかったのに、あまりにも自信満々な態度に僕の笑いのツボはまた刺激された。お腹が捩れてしまうのでは、と思うほど僕は笑い、レイチェル嬢は愛らしい拗ねた顔をするだけ。そして彼女はあろうことかもう一度レイモンドさんの似ていないモノマネをしはじめる。
僕はとうとう噎せてしまうぐらい笑いのツボにはまってしまっていた。
そんな僕に、レイチェル嬢がキッチンから水を持ってきてくれる。
深呼吸をしたあとにゆっくり水を飲んで落ち着いた僕を彼女は安堵した笑みを浮かべた。
「良かった。あなたが笑っている顔を見たら、ホッとしたわ」
寮に入る前までしてくれた、頭を撫でる優しい手つき。
一人っ子である僕にとってレイチェル嬢は姉のような存在だ。多分この関係性はこれからも一生変わらないだろう。孤児になった僕に態度を変えない数少ない優しい人。
「さてと」
レイチェル嬢が僕の頭から手を離して立ち上がる。
もう少しだけ、撫でて欲しかった。名残惜しそうに手を見つめる心中など知らず、レイチェル嬢は冷蔵庫に残っている食材名を呟きながら、今晩の献立に思いを馳せ始めた。
レイチェル嬢は勉学ができるだけではなく、家事も得意だ。裁縫、料理、掃除。特に料理が彼女の得意分野だ。母が針子の仕事でいないとき、レイチェル嬢がよく作ってくれた。特にポテトを使用したパイは絶品で、テオよりも小食なはずの僕は三回もおかわりをしてしまったほど。
母と取り合いになったこともある。
懐かしい記憶に、目の前が霞んでしまうのを僕は必死に耐える。
ご馳走の前に辛気臭い顔でいたらせっかくのディナーが台無しになってしまう。
「今日は牛肉のローストにしましょう。サラダもたくさん食べてね」
素晴らしい献立に僕は心から笑顔になった。
「ビスマルク坊やはもっと食べなさいな」
ここのフラットの大家マーサ夫人が僕の皿に牛肉のローストを多めに入れる。
「ダメですよ、マーサ」レイチェル嬢が苦笑してマーサ夫人を止める。
「だってお肉を噛むと疲れちゃうんですもの」
「この前の健康診断で、タンパク質を摂るようにドイル先生が仰っていたでしょう? それにお肉は柔らかいものですから」
年下の同居人に、かかりつけの医師の言葉を使って説教されたマーサ夫人は渋々口にする。まるで年齢が逆転したかのような会話だ。
レイチェル嬢が母親で、マーサ夫人が好き嫌いの激しい子ども。
マーサ夫人がゆっくり咀嚼して目を丸くした。
「あら、本当だわ。坊や、返してちょうだいね」
手のひらを返したかのように、僕の皿に乗せたお肉をテキパキと取り返す。食べ物に関してマーサ夫人は容赦がない。聞いた話では私室にお菓子の入った壺ををこっそり隠しているとか、いないとか。
マーサ夫人はちゃっかり僕の分のお肉まで頂戴していた。僕は呆れて夫人を見るが、知らぬ存ぜぬを通される。その横でレイチェル嬢がおかわりのために残していた肉を僕の皿に入れてくれた。
「明日もこれがいいわ。一週間ずっとこれにしましょう、レイチェル」
「やりませんよ。健康に支障が出ます」
「ケチねぇ」
「明日はお魚にしますから」
今では理解できないと思うが、大英帝国の食材事情は劣悪だった。
まず水。テムズ川の水質はとてもじゃないが、飲めたものじゃなく、汚水と糞尿のゴミまみれで夏になると異臭がひどかったらしい。
そして次に作物。品質のいい果物や野菜が手に入るのが下級階級の人たちには難しく、市場で見かけても僕が食べてしまったら一口でアウト。何故ならその野菜は、見かけを良くするために偽造された最悪なものだ。牛乳や砂糖、バター。これもよく偽造されていたようだ。
これ以上言うとせっかくのお肉を吐いてしまうので割愛する。
五百年の間に食事事情は大きく変動した。というのも、ビフレフト鉱石という燃料を使い、作物が確実に獲れるというハードルは低くなり、新たな下水道や洗浄装置施設の設置で水質は向上した。
今ではテムズ川には魚が気持ちよさそうに泳いでおり、観光としてクルーズができる区間がある。
ビフレフト鉱石の恩恵は人類と自然の共存を大きく寄り添う形を実現した。
品質のいい肉、野菜、調味料、水、そして紅茶を飲めるのは全てあの鉱石のおかげだ。怖いくらいの恩恵を与えるだけはある。
「では、僕はそろそろ帰ります」
食後の紅茶を飲み終え、立ち上がる。
「それじゃあタクシーを呼びましょう。レイチェル」
「はい」
デザートをつまんでいたマーサ夫人がレイチェル嬢を見る。それに頷いて立ち上がったレイチェル嬢を僕は慌てて止めた。市電で帰れば寮の門限には間に合うのだ、市電よりも高く払わなければならないタクシーを利用するなどみなしごになった僕には大変な贅沢だ。
「大丈夫ですよ」
それでも心配そうにレイチェル嬢は僕を見る。もう十二歳だ。例え夜道でも眩しい街灯が照らしてくれている。それに巡回する警察たちがいるので大丈夫だ。
持ってきたランプ型の鉱石懐中灯を付けて僕はフラットをあとにした。
外は街灯がついたばかりとはいえ、夜という概念が霞むほど明るかった。市電の停留所に急ぎ足で向かう。
まだ市電は運転している時刻で、ちょうどやってきた緑色の車体に乗った。一番端に立ち、ぼんやりと眺める。
流れる街並みは明るいくせに嫌にピリピリしていた。緊張していると言ってもいい。それもそうなのかもしれない。
僕は起こっている出来事を思い出す。
それなりの身分を乗せた人たちが巻き込まれたドゥーバー海峡爆破事件。
そして現れはじめた切り裂き魔の模倣犯。
犯罪率の減ってきたとロンドンで、凶悪すぎる事件が二つ。これが起きて警戒しないという阿呆は流石にいないだろう。
しかし気が滅入るのも確かだ。
僕は空いた座席に座る気も起きなかった。
どこか他人事のように僕はドゥーバー海峡爆破事件を見ている節がある。両親の死体が出ていないのだから、現実味が湧いてこないのかもしれない。それともあまりにも身近すぎる人の死というショックが強いからかもしれない。
泣きそうになっても、完全に涙が出ることはなかった。
まるで。
物語の一部に触れて喜怒哀楽に振り回されているような感じ──。
「ん?」
市電が目的地より二つ前の停留所で停まった。そこで窓から見えた見覚えのある
「テオ?」
僕は慌てて市電から降りた。
路地裏へと入っていった人物は間違いない。学園の制服、ふっくらとした体型に、歩き方。間違いない、と自信があった。何故なら今日彼の後ろ姿を目にしていたからだ。
あとを追った。鉱石懐中灯を再び照らす。
奥まった路地に入ったところで僕はテオの後ろ姿を見つけた。
「テオ!」
名前を叫ぶ。確実に聞こえたはずなのに、テオは全く振り向きもしなかった。
音楽に精通する彼だ。難聴になったら大騒ぎするに違いないのに。
「テオ!」
僕はもう一度叫んだ。さっきよりも大きく。けれどもやっぱりテオは振り向かなかった。人違いかと不安だったが、同じ背格好で同じ歩き方をする人間など、一卵性の人間だけで十分だ。
歩いていくテオに早く近づかねば、と走る。
走る。
走る。
目の前を汚い霧が立ち込めて視界を邪魔した。
この霧は生きているのか?
僕の体にまとわりつき、まるで前へと行かせているのを邪魔するかのようだった。体は重く、自由に動けない。
しばらく霧と格闘していると嫌な臭いがすることに気づいた。
じめっとしたなかから、鉄錆の臭いがする。同時に甘い。前へ進むたびに臭いは濃くなった。鼻が曲がりそうで、容赦なく口のなかに臭いは入り込んで喉が噎せる。
「テオ!」
もう一度叫ぶ。
すると。
「……オスカー」
弱々しい声が近くでして立ち止まる。汚い霧はサッと消えて鉱物懐中灯が周りを照らす。
「て、お……」
僕は安堵したすぐあとに思考を停止させてしまった。
床を濡らす真っ赤な海。
その中心には女性が倒れていた。首から下腹部へぱっかりと裂かれた傷口から臓物を吐き出した、女の死体。
そして女性の遺体のすぐそばに立つテオ。真っ青な顔が僕を見る。
「オスカー、これってどういうこと……?」
テオの返答に僕は尻餅をついてありったけの叫びを上げた。
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