第4話 少年、親友と殺人鬼

 テオの言葉に僕は目を見開いた。そういえばここ最近はドゥーバー海峡爆破事件の記事しか目を通していなかった。


 切り裂きジャックだなんて、昔話としか思っていなかったのだ。

 ただ、英国人ならば誰もが知っている。僕より遥かに小さな子どもでも。今では子どもの躾のために使われる謳い文句だ。


「いい子にしないと切り裂きジャックに腹を切り裂かれるよ」


 英国人の子どもは耳が痛くなるほど聞いてきた。

 そして歴史の授業では大帝国の恥の一つとして学ぶ。今ではすんなりと年数も言える。


 一八八八年、ホワイトチャペルで一人の娼婦が殺された。首と腹を裂かれ、生き絶えた犠牲者はホワイトチャペルを中心に多く出没し、英国人たちを恐怖に貶めた。特に女性たちはさらに畏怖した。犠牲者は全員女性だったからだ。

 ラグナロク世界大戦後、女性の社会進出を謳う運動が始まり、女性の仕事も増えてきた矢先のこと。今では信じられないが、夕方になるまでにはロンドンの街並みを歩く女性たちは少なくなり、目を爛々と光らせる警察官たちばかりになったそうだ。


 新聞記者たちがこぞってセンセーショナルに記したことも関係あるのだろう。犯行の手際の良さ、そして遺体の臓器を二つを持ち去った痕をまるで怪奇小説のように認めては、また誰か死にやしないかと舌舐めずりをしていた──当時の記事を見ればそんな印象を僕は感じた。


 この事件の恐ろしいところは、未だ犯人が捕まっていないということ。


「数百年も前の殺人鬼の模倣犯が出たってこと?」


 そう、例え逮捕されなくても、数百年前の殺人鬼だ。今となっては土に還ってるだろう。いや、そうでないと非常に恐ろしい。


「模倣犯にしてはおかしいんだよ」


 どこから出したのか分からないクッキーを齧りながらテオは続ける。怖い話をしているというのに、美味しそうに目を細めて咀嚼するのでちぐはぐな雰囲気になってしまっている。

 欲しくなって僕は一枚頂戴した。


「どこが?」

「これだよ」


 セントラル・ニューズ社の新聞をこれまたどこにしまっていたのか、取り出して僕に見せた。


『切り裂きジャックの再来か?!』


 見出しにはそう記されていた。


『タイピストのジェシー・ニコルズ(二十四歳)が六月八日の夜一一時に、自宅で殺害されているのが発見された。現場は鮮血で荒らされてはいたが、部屋や遺体から抵抗した形跡はなかった。首にナイフで斬られた跡があり、それが致命傷であると担当した解剖医は確信している。

 また不思議なことに、被害者の体は胸から下腹部まで開かれており、二つ、臓器がなくなっていることが分かった。犯人による凶行であるとロンドン警視庁スコットランドヤードは考えており、見知らぬ人物であろうと知り合いであろうと簡単に部屋に招き入れず、厳重に施錠しておくよう注意を促している。

 犯行内容、犠牲者の特徴を鑑みるに、一八八八年に起きた切り裂きジャックと符合するので、警視庁は犯人逮捕を急ぐ動きを示唆した』


 若い女性。

 荒らされた形跡のない現場。

 首の致命傷。


 そして、無くなった臓器二つ。


 記事の内容を読んでいて頭がくらりと目眩を起こす。


「この事件、ジェシーさんで三人目なんだ、実は」

「三人も?!」


 これは初耳だ。


「実は秘密裏に捜査してたんだって。だから発表が遅れたのさ」

「……詳しいね、テオ。君って食べ物以外にも意識が向くことがあるんだ……」


 テオの情報量に僕は自然と感嘆した。寮生活で勉学一筋をスタンスにしていた僕にとって世の中の情勢を確認する暇なんてなかったのだ。いい成績を叩き出し、親を苦労させない仕事に就くことばかり考えていたせいであるのかも。今となっては虚しい努力だったと感じるしかないが。


 僕の言葉にテオの頰が紅潮した。


「そ、そうかなあ。……変かな、こういうの調べてるの」

 しどろもどろにテオが聞く。


「そんなことはないけれど。ちょっと意外だなって思っただけだよ。それで、アントニオ先生がその殺人鬼に襲われたっていうのは本当なの?」

「本当だよ。それで一緒にいた女性数人を守ろうとして大怪我したんだ……」


 なんということか。


 僕はアントニオ氏の身に起きたことを聞いて身震いした。


 アントニオ氏は六月にある音楽のイベントについて、関係者たちと打ち合わせをしていたという。その帰り道に殺人鬼に遭遇したというのだ。アントニオ氏が体を張ったことで女性たちはことなきを得たようだが、精神的ショックはあったことだろう。目の前で知人が、斬りつけられる光景を目にしたのだから。


「僕、僕さ──許せないんだ、犯人が」


 テオは空になったクッキーの袋を持参したゴミ袋に収納する。


「だから、僕ね、犯人を見つけようと思うんだ」


 はっきりと明確な意志のある声で告げる。恩師であるアントニオ氏を傷つけられた弟子としての怒りに燃えている。

 僕はそんな彼が心配になった。


「よしなよ、テオ。もしもだよ? 犯人に会ってしまったら、どうするのさ。危ないし、何もできないだろう?」


 運動に疎い彼が果たして犯人を見つけたところでどうなるか。想像力豊かな僕は死んでしまったテオを想像してしまい、首を横に振って妄想を揉み消した。


「それにコンサートが近いんじゃないのかい?」


 アントニオ氏が打ち合わせをしていたとなるならば、それはこの学園が誇るオーケストラ団のコンサートに他ならない。

 テオはあからさまに顔を顰めて現実を思い出す。


「六月の勝戦祝賀記念式典で水晶宮クリスタル・パレスの庭園で演奏することになってる……」


 勝戦祝賀記念式典とは、まさしくラグナロク世界大戦に勝利してちょうど、を祝う式典のこと。式典は五年周期に行われるので、今年で百回目となる。


 水晶宮は万国博覧会の会場となった歴史的建造物であるが、現在は女帝陛下の居城だ。改築増築を受けた水晶宮はその名にふさわしい容貌になっていると聞く。朝夕、濃さの違う太陽の光に当てられた硝子の宮殿は神秘的であり、女帝陛下の居城にふさわしいほど美しい、と聞く。一部分が一般公開されているが、入場料は高く、学生である身では簡単に行くことが叶わない。


 だが、勝戦祝賀記念式典となると別である。入場料はいつもより安くなり、解放された式典会場にて女帝陛下とともにクラシックにオペラなどを楽しむことが許される。


 女帝陛下を一目見ることができ、なおかつ演奏をするという名誉をテオが所属するオーケストラ団は賜ったのだ。


「なら、なおさらダメじゃないか、テオ。君にもしもの時があったらどうするんだい?」


 アントニオ氏が知ってしまったら。

 心苦しい言い訳でテオを落ち着かせる。アントニオ氏の名前を使う卑怯な説得を、テオは静かに聞き入れた。


「でも僕は……やっぱりアントニオ先生を傷つけた犯人が許せないよ」


 そう怒ってる顔は全くテオに似合わないほど、悲しいものに見えた。

 復讐を不完全燃焼のまま抱えてテオは裏庭を後にする。大きな体が音楽教室のある別棟へ消えた。


 しまった。


 テオを静かに見送って我に帰る。

 次は移動授業だ。急いで行かなくてはいけない!

 インドア派の僕は過去の僕が驚いてしまうほど走った。



 結果、僕は授業に遅刻することはなかった。ただ汗だくになってしまった僕は学生たちの笑い者になった。彼らの様子がどうだったかは割愛しよう。息切れを起こしていたのでなおさら覚えていなかったし、思い出したくもないので。


 憂鬱な授業を受けたあと、僕は学園の敷地外に出た。行く場所は両親の住んでいたフラットだ。学園近くの市電トラムに乗って十五分。

 赤煉瓦一九世紀のデザインのフラットの三階。そこが両親の部屋だった。ココアブラウンの扉を開け、階段を上がる。合鍵で扉を開けてなかへ。

 僕にとって使い所のない食器や装飾品類はフラットの大家さんからの好意で紹介してくれた買取屋に売った。それでもまだ売り切っていない家具などはとりあえずリビングにひとまとめにしてある。


 僕はそれを呆然と見つめたあと、寝室に入った。両親が使っていたベッドはまだ売れないでいる。それから母が使っていた鏡台、父が向かっていた書斎机。それぞれの引き出しを開ければ、仕事の書類に──そろそろ父の同僚が受け取りに来てくれるはずだ──小さな宝石箱。


 宝石箱の蓋を開けると安物の指輪が二つ。学生時代に恋人になったばかりの父母が交わした指輪らしい。これは流石に売ることが出来ず、墓にも入れることが出来なかった。父のもう一つの旅行鞄も、母が気に入っていたティーカップも。父母が交わした恋文たちも。まだ残っている。


 書斎机のなかの書類を空いている箱に押し込め、乾いた雑巾で手入れする。この机もいずれ売らなくてはいけない。あったとしても、哀しくなるだけだ。


「来ていたのね、オスカー」


 部屋の入り口に赤毛の若い女性が立っていた。僕の七歳年上の彼女はフラットの大家である夫人と暮らしている。


「レイチェルさん」


 レイチェル嬢は悲しげに微笑んだあと、なかに入って僕の隣に座った。バッスルスタイルを模したワンピースドレスの裾が柔らかく揺れるたびに、レイチェル嬢の愛用している香水がふんわりと揺蕩った。


「手伝うわ、一人じゃ大変でしょう?」

「いつもありがとうございます」

「気にしないで。あなたは私にとって可愛い弟のようなものだから」


 はじめて会った時からレイチェル嬢は優しく接してくれている。寮に入るまで僕の家庭教師を務めてくれたのも彼女だ。格安だったのに、フランス語や数学など、そして寮に入ったあとで困らないために英語の発音まで正してくれた。教材だって揃えてくれたこともあった。


 そこまでしてくれたのに、僕は……。

 悔しいことに子どもだと何もできない。学費無償の成績を納めて入学しておけばこうまでならなかったのに。


 うら若き美しいレイチェル嬢に恩返しもしてあわよくば、という下心もあったが。

 今はドキドキする暇もない。


「ご飯は食べて帰るでしょう?」


 黙々と作業をしていた手を止めて、レイチェル嬢が僕を見る。ピーコックグリーンの瞳が心配そうに揺れていた。


「少し痩せてきているわ」


 もっと食べなくちゃダメよ、とレイチェル嬢は続ける。


「顔色も悪いもの……。向こうで食べてる?」

「……これは、お昼に、嫌なニュースを聞いたので」


 僕は素直に切り裂きジャックのことを話した。女性がターゲットにされているならば、レイチェル嬢も大変危険だ。忠告の意味合いも込めてレイチェル嬢を伺う。


「オスカーも聞いたのね、その話」


 うんざりしたようにレイチェル嬢は顔をしかめた。


「二階のレイモンドさんからも散々言われたのよ」


 レイモンドさんは二階の部屋を娘さんと借りている。そしてなんと職場はロンドン警視庁だ。娘もいるのでなおさらしつこくレイチェル嬢に言ったのだろう。レイチェル嬢は眉をこれでもか、と寄せた。


「レイチェルさん、最近は物騒ですから、いいですか。ちゃんと鍵をしめて寝るんですよ、寝る前に確認も十回はしてください」


 声を低くして似ていないレイモンドさんのモノマネをする。あまりにも似ていないので僕は思わず噴き出した。

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