第一講義、切り裂き魔と色彩の魔術師

第3話 少年、死神と邂逅

 僕がエヴァン師に会う三日前。


 ドゥーバー大海橋第一線路が何者かの手によって爆破された。ユーラシア大陸と我が国を繋ぐ、観光と貿易二つを担っていた橋の一つが崩壊したことにより、大帝国及びフランスなどの諸国は大打撃を受けた。

 しかし、打撃は経済だけにとどまることはなかった。


 爆破された時、ドゥーバー大海橋第一線路には、大陸を横断する大型蒸気機関車ビクトリア号が通過していたのである。


 国籍、年齢、性別、立場など関係なく、乗客乗務員合わせて八十人が爆破された橋と大型蒸気機関車とともにドゥーバー海峡へと落ちてしまった。あまりの事態に救助は遅れ、生存者はおらず、遺体の一部は一人も見つかっていない。


 乗客のなかには、諸国の貴族や政治家が数人いた。彼らがビクトリア号に乗っていたのは、大戦勝利してちょうど五百年になる祝賀祭が六月に行われるから──そしてヴィクトリア女帝陛下となってからちょうど五百年の祭典もあって、


 大帝国中が我が国に対する大いなる侮辱であると憤るなか、僕は呆然と絶望していた。犯人探しに熱狂する周りを他人事のように新聞と睨めっこしては、泣くことと途方にくれることを同時にしなくてはいけなかった。


 僕の両親がドゥーバー海峡に葬られたビクトリア号に乗車していたからだ。もちろん先述の通り、遺体も遺品も今も見つかっていない。


「行方不明者、生存の可能性ゼロ」


 何度見ても新聞には遺体が見つからず、と遺族たちの希望をいっきにしぼめさせた。

 遺体のない、遺品のない葬儀をするしかなく、僕はみなしごになった。無感動の葬式だったことは覚えているが、牧師や隣人たちの慰みの言葉の内容は覚えていない。月並みだった気がする。


 ただ悲しむ暇は僕には与えられることはなく、現実が襲ってきた。

 特に問題になったのは学費だ。

 両親の遺産が卒業するまで必要な費用に満たなかった。もちろん生活費のために泣く泣く、両親の使っていた服や家具、装飾品も売り払ったが、それでも満たない。


 結局、僕は六月上旬で通ってき学園カレッジの退学を受け入れるしかなかった。




「本当に、力になれなくて申し訳ない、オスカーくん」

「いえ、問題ありません。シッカート先生。むしろ、学科の違う僕に気遣って頂いだだけでも」


 美術科のウォルター・リチャード・シッカート氏の気遣いは、逆に僕を傷つけた。誰が好き好んで学科の違うなんの接点もない生徒に、自主退学の説得をしたがるのだろうか。きっと上辺だけの気遣いだ。


「君と年齢が近い娘がいるから──心苦しいよ」


──そう思うなら、放っておいてくれ。


 ひねくれた感想しか、思いつかなかった。




 六月十日。ドゥーバー海峡鉄道爆破事件から三日目のこと。


「みなしごになったって……」

「一文無しってことかよ」


 学校の僕の立場は弱者で邪魔者になりかけていた。僕が挨拶をしてもクラスメイトの殆どが無視をし、いない者として扱う。

 事故が起こる前まで一緒に下手なクリケットをしていたジョナサンでさえも、僕と目を合わせることを嫌がった。


 父の頑張りがあって全寮制の学校に通えていたのだ。もちろん僕の実力もあった。成績だって良かった。けれど、後見人のいない子ども、となってしまった僕はお荷物でしかないし、得もない。

 別に僕だけの話ではない。

 どんなに性格がよくても、見目が麗しくても、努力をしたとしても、入学試験に落ちてしまえば見捨てらる学生もいる。


 貴族の通う学園はもっと大変だと聞く。家柄で人間関係を決めるのだ。

 だから僕の立場の悪さは若干マシな方かもしれない。


 憂鬱な昼食時間、僕は教室から逃げるように学園の裏庭に身を寄せた。ここなら誰の視線など気にせずに昼食をとることができる。

 肩身の狭い僕を憂慮してくれた寮母が作ってくれたベーコンとレタスのサンドイッチを食べる。もう一つ持たせてくれた水筒を飲んでいるとヴァイオリンの音色が聞こえた。


「アントニオ先生かな?」


 美しい音色に僕は音楽講師のイタリア出身のアントニオ・クレセント氏を思い浮かぶ。

 実は僕には全くもって音楽の才能がない。ない以前に、楽譜が読めず──読もうともしないのだけれど。こんなやる気のない僕に音楽の素晴らしさを教えてくれたのは、アントニオ氏だった。


 といっても、未だに楽譜は読めないままなのは、僕に才能が全くないということで。

 両親の死のあと教師たちは形だけの悼辞を言ってくれたが、アントニオ氏からはまだだった。別に同情が欲しいというわけではなく、純粋に疑問だったのだ。

 と、いうのも、アントニオ氏はとても面倒見のよく、礼節のある講師だったからだ。少し前に熱を出してしまった時は手紙をもらったくらいだ。それなのに、あんなに大々的に新聞で騒がれているのに、来ないとは不思議でしかない。


 もしや近いうちにコンサートでもあるのだろうか。

 学園のオーケストラの団長でもあるのだから、もしそうなら仕方のない。


 ことなのだが……やっぱり寂しい。


 人間関係の希薄さにショックを受け、最後のサンドイッチの一切れを紅茶とともに飲み込む。


「ん?」


 思わず紅茶を噴き出しそうになって口を手で押さえ、喉の奥に押しやった。

 目の前を、蝶が飛んでいる。ただの蝶なら気にも留めなかった。


 しかし、だ。


 琥珀色に輝く羽根を持つ、手のひらサイズの蝶が飛んでいるなんて、普通あり得ないだろう。透けている艶かしい羽根は確かに石の琥珀のように硬質だ。

 触りたい。けれどもあまりにも大きすぎる虫。

 見たことのない蝶は僕の好奇心をよそに周りを優雅に回る。手を伸ばしては引っ込めてを繰り返す。蝶の鱗粉が、この硬質な羽根にもあるとするならば、ジョナサンのようにかぶれてしまうのではないだろうか。


「触らないのか」


 背後から底冷えのするバリトンボイスに硬直する。一度聞いたら忘れない声だと思ったのと同時に、僕は振り向くのが怖かった。


 怪奇咄が好きだと思われている英国人。

 クリスマスには怪談で盛り上がる英国人。


 なんてことをドイツ人国賓留学生が食堂で言っていたけれど、僕はオカルトは苦手だ。物理が効かない代物など不気味じゃあないか。

 べ、別に?

 怖がりってわけじゃないんだからな?


 足が震えているのはそう、武者震いっていうものだ。


「なんだ触らないのか」


 声が固まる僕の横を通り過ぎて蝶に近づいた。

 長身痩躯をしわくちゃの服に身を包んだ青年だった。

 漆黒の手袋をつけた右手が蝶を無遠慮に掴み、僕に振り返る。青白くて目の下にはクマができて、とても健康そうには見えない。真っ黒な髪はひどい癖っ毛なのかボサボサだ。


 それよりも。


 彼の目に、僕は見惚れてしまった。

 右目はルビー色、左目はアメジスト色。

 美しい宝石の色だと感嘆していると、彼は思い切り蝶を握り潰した。


「あ……」


 琥珀の羽根が簡単に砕けて地面へと降下し、芝生に到達する前に霧散する。

 突然の蛮行に僕は驚いて青年を見た。彼は平然として淡々とこちらを見るだけで、蝶を潰して殺してしまった罪悪感など全く感じていなかった。


「なんてことを!」蝶を見殺してしまった僕は後悔して青年を詰る。

「なんてこと?」


 首をかしげる顔は不可解極まりないと言わんばかりだ。陰口を叩くクラスメイトよりも質が悪いのではないだろうか。

 詰め寄って詰る。

 理不尽に潰された蝶があまりにも両親に被って見えてしまって。


「生き物になんてことをするんですか!」

「……は?」

「小さな命を握り潰して殺すだなんて!」

「んん?」


 話が噛み合わない。

 倫理観がないのか、この人は。

 怒りに燃える僕をよそに、青年は指を頰に添えて思案して僕を見た。見下ろされる宝石の色が、全てを見透かしているかのような気がして言葉が詰まる。


「君はさっきの蝶を生き物と言ったのか?」

「い、言いました! 楽しそうに飛んでたんですよ!」


 生き物だ。


「──く……くははははははははははっ!!」


 何が面白いというのか。青年は突然笑い出した。肩にかけていたフロックコートが、震えで落ちそうになるのを、これまた震える手で落ちないように握っている。


「な、なん、ですか」


 アヘンでも吸っているのか、この男は?


 訝しげに見る僕の肩を青年は笑いながら叩いた。痛い。


「あははっ……あー、あー、すまない、少年。いや、久しぶりに笑ったよ、ありがとう」

「はい?」

「礼の代わりに教えてやろう、少年。さっきの蝶はなんの魂のないものだ。つまり、生き物じゃない。作り物だ。だから殺しは成立していない」


 分かったかな、少年?


 にわかには信じられない教えだ。

 あれが作り物だって?

 硬質な羽根なのに透けて柔な輪郭をしながら飛んでいた蝶が?

 本当ならば信じられない。神の御業とも言えるほど、さっきの蝶は美しく、生命力に溢れていた。


「うそだ!」

「嘘ではない。私は嘘をつけない」

「……う」


 嘘だ、それも、と紡ごうとした唇を引き締める。初対面の人間相手に言えることではない。

 ただ思うのは、彼が不気味であるということ。


 僕は睨むようにこの青年を観察した。先程から思っている通り、服に対する執着はないのだろう。彼のシャツ、チョッキ、ズボン、これらはシワが寄っていてスチームアイロンをかけた様子は少しもない。

 襟元を飾るアメジストのループタイは、宝石も周りの金具たちも傷だらけだ。手入れなどしていないだろう。


「そう私に見惚れても何もないぞ」


 彼の言葉にカッと顔が熱くなる。


 気まずい空気に救世主が現れた。同じ寮にいるテオが裏庭にやってきた。ふっくらとしたお腹が走るたびにぷるん、と震えて子熊みたいな愛らしい顔で僕たちに近づいた。


「あ、オスカー!」


 みなしごの僕を見て屈託無く笑ってくれるのは、この食欲の貴公子──何せ彼は美味しそうに食べるのでダイエット中の人間を何人も惑わしている──テオしかない。


「オスカー、ここにいたんだね。心配してたんだ。君、食堂にいなかったでしょ?」

「……ごめん」

「謝んなくていいよ! まだご両親のことで大変なんだろう、仕方ないよ」

「うん。来週には寮を出ないといけなくて──」

「突然すぎるね!」


 テオは目を見開いて、あまりにも理不尽であるとプリプリ顔を真っ赤にさせて学園側に怒り出した。


「家はあてはあるのか?」


 この質問をしてきたのはテオではなく、青年だった。まだいたのか、と思って見ると、真面目な表情で僕を見ていた。


「両親が使ってたフラットがロンドン内にあります……」


 あまりにも真面目な顔だったので僕は素直に答えた。


「そうか……」

「エヴァン先生はオスカーとお知り合いで?」


 キョトンとした顔でテオが僕と青年──エヴァンというらしい──を交互に見た。

 先生?

 テオは間違いなく彼を先生と言った。このだらしのなさそうな不審者然とした男をだ。僕もテオと同じように疑問符を浮かべていると、テオはなんだ会ったばかりだね、と笑ってエヴァンの隣に立つ。


「オスカーは最近忙しかったからしょうがないか。アントニオ先生の代わりに短期間講師を勤めてくれる、エヴァン・ブライアン先生だよ」


 よろしく、とエヴァン氏が右手を差し出す。僕はおずおずとその手を握り返した。

 硬い、感触の右手だった。金属のぶつかる音が聞こえた気がして、目を丸くする。漆黒の革手袋の下にあるのは、果たして──。

 疑問はすぐに解消された。

 手を離し、エヴァン氏が革手袋を外す。現れたそれに、僕は息を飲んだ。


 白金に輝く硬質の金属。そして自然な動きを可能とする、沢山の球体関節。

 美しいフォルム。

 滑らかな動作。

 人間の柔らかな肌は一切ない。


 美しい義手だ。


「昔ちょっとやらかしてね」


 無表情でエヴァン氏が答える。その横でテオは興奮気味に僕に語る。


「エヴァン先生はすごいんだよ、オスカー!」


 そういえば彼は学園のオーケストラ団に所属して、大学は音楽関係だと言っていた。音楽に対する僕との熱量の差は一目瞭然だ。


「義手でヴァイオリンを弾くって難しいと言われているんだ。でもね、先生は超絶技巧を簡単にやってしまうんだよ!」

「そうなんだ?」


 ヴァイオリンなんて弾いたことのない自分にはちんぷんかんぷんだ。とにかく相槌を打つことにする。


「他にもピアノもできて……この前のシューベルトの魔王も見事に弾いてて、みんな驚いてた! 障害者でも才能があればできるって証明してくれたんだ! 大帝国の音楽界はいっきに前進するだろう!」

「そ、それは喜ばしいね」

「目指すは打倒オーストリア帝国!」


 未だ音楽の最高峰と呼ばれるオーストリア帝国に対してテオは目に炎を燃やしながら拳を握る。ラグナロク世界大戦でオーストリア帝国は大英帝国と終戦最後まで敵対関係になっていた。そのオーストリア帝国側にプロイセン王国も加わり、終戦してからも英国人はどことなくその二国をライバル視している。

 プロイセン王国は一度皇太子バーティ殿下の妃の実家であるデンマークを攻撃した歴史もあり、なおさらライバル視が強い傾向にある。


 なのでテオのライバル視も、わからないでもない。

 あまりにも長くなりそうなテオの会話を中断させたのはエヴァン氏だった。


「すまないがそろそろ私は行く。二人とも、仲良くしたまえ」


 それだけ告げて振り返ることもなく、颯爽とエヴァン氏は裏庭を去って行った。

 残された僕はともに残されたテオに一つの疑問をする。


「テオ。アントニオ先生は、体調を崩してしまったの? 代理が来るなんて、よっぽどなことがあったってことだよね」


 聞くとさっきまでの勢いはどこへやら。テオは悲しく眉尻を下げて小さな声でアントニオ氏について話す。


「先生、襲われたんだよ」

「襲われた?! 誰に?」

「しっ……。あ、そうか、オスカーは知らないよね……それもそうか、ドゥーバー海峡のことが大々的に報じられてるし……見つけたとしても名前は伏せてあるもんな」


 顔色が悪くなるテオは僕の耳に唇を寄せた。


「出たんだよ、アイツが、先生たちを襲ったんだ」テオが憎々しげに呟く。

「何が?」



切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーさ」

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