第2話part6『しなびたレタスを見るように』
牧野:レインバス本社ビル6階・通路
目が合った瞬間、私は凍りつきました。
通路からやってきたのは、長畑煉次朗という今の会社の先輩です。
やたらと濃い眉をしていて、やや褐色で、やたらと通る大きな声が特徴の、
いかにも男っていう感じの顔をしています。真顔だと少し怖い感じもします。
私はこの人が苦手です。
というか嫌いです。
なぜならこの人は、公衆の面前で、私の名前を二度も大声で間違えて呼んだからです。
あれは入社初日のことでした。
皆さんに挨拶を終えて、私は先輩の犬伏真希さんとお話をしていました。
犬伏さんはとても綺麗な人なのに気さくで、サバサバした感じの素敵なお姉さんです。でも私は人見知りだがら、犬伏さんが一生懸命話しかけてくれるのに中々上手く言葉を返せなくって困っていました。
新しい職場は寿司屋とは桁違いの大きさです。
6階だけでも他部署合わせて200人以上の社員さん達がいるそうです。
それぞれの部署はお洒落なパースで区切られていて、独立した感じになっています。
部署内はくねくねした観葉植物のインテリアとか、テーブルなんかも凝っていて雰囲気のよい職場です。
私の所属は業務アシスタントという区分けらしく、営業部の人達と協力して働きます。電話が鳴ることも多いです。今のところ電話は全部犬伏さんが取ってくれています。配属初日に電話口からクライアントさんの怒る声が漏れて聞こえてましたが、犬伏さんはとてもニコニコしていました。
でも電話が終わった後は鬼のような形相で営業部のところに走っていきました。
何があったのかは未だにわかりません。
初日は犬伏さんに教えてもらいながら顧客データの入力をしていたのですが、
緊張のせいか、頻繁に喉が渇いてしまって。
しゃべっているときもタンプラーが手放せなくって。
午後の2時を過ぎた頃には、朝、家で入れてきた紅茶が空になってました。
私は犬伏さんに一言断ってから、給湯室に向かいました。
整然と仕事に取り組んでいる他の部署の人たちを横目に歩いているときでした。
「まきたさーーん」
と、よく通る声がフロア中に響きました。
まきたさん?
誰のことだろうと思いながら、私はフロアの端を歩いていました。
「ねえ、待って、まきたさーん。ねえ、待って。
まるで歩いている人を呼び止める感じの言い方です。
・・・。
って、もしかして私のこと?
私はちょっとだけ振り返りました。
そこには思わず殴りたくなるぐらい爽やかな笑顔で
私を見つめる長畑煉次朗さんが立ってました。
「これ、カード忘れてるよ」
カード。入館証を兼ねた社員証です。
職場の入り口はセキュリティの関係で鍵がかかっています。
首にかける社員証を使って入退室する仕組みだそうです。
とてもハイテクですね。
私は、緊張のあまりカードを置いたまま立ち上がって、外に出ようとしていたようです。 瞬間、私は全身が真っ赤になって、熱が一気に頭から吹き出しました。そして直ぐに長畑さんが持ってきたカードを受け取りました。
「あうっ・・・すっすいません」
「別に謝ることないよ。これないと、まきたさん会社に入れなくなっちゃうからね」
ああ、私ってなんてドジなんだろう。
しかも他の部署の人たちが私達を見てクスクス笑ってる。
恥ずかしい。
長畑さんは全然気にしてないみたいだけど、私は周りの視線に敏感で、とても気になります。でもそのときは初日だし、こんなことでドジな人の印象が付いちゃったら
嫌だなあっていう気持ちの方が強くて、そのときは自分の名前を間違えられたことは、ちょっとイラッとした程度でした。
でも、間違いはこれだけで終わらなかったんです。
それから3日後、職場の雰囲気にも少しなれてきて、私の入力作業もスムーズになってました。営業事務は女性ばかりです。男の人はちょっと失礼な長畑さんを入れても5人だけなので少し気楽さも感じつつありました。
犬伏さんは本当に優しく笑顔で私に教えてくれるので助かります。
事件は営業事務フロア内で起こりました。
犬伏さんがプリントアウトした提案書を取りに、印刷機に向かった後のことです。
「まきたさん」
一瞬、ピクッと私の左の頬が上下に動きました。
キーボードに添えた両手も固まりました。
まきたさんって言われた・・・。
しかも、また。
「長畑君。牧野さんよ、牧野さん(´0ノ`*)」
━━!━━
上司の沖田さんや、他の人が・・・私達の方を見て
笑
っ
て
い
る
・・・!
酷い。
恥ずかしい。
死にたい。
あんなデカイ声で、二回も名前を間違えられて。
しかも同じ職場の人たちの目の前で。
そういえばこの人引越しのときも私の名前間違えてた。
ううこんな屈辱、耐えられない。
しかもこの長畑って人、ヘラヘラ笑ってる・・・・。
今、ものすごく失礼なことをしたのに・・・
全然反省の色ひとつ浮かべず、むしろオイシイ、みたいな空気作ってる。
・・・最低
この人、最低!!
「ねえ、ところで牧野さんの名前って、たまみって読むの」
その瞬間、私の中の『何か』が決壊しました。
手にしていた扇子は床に落ち、勢い任せて振り返った先に飾られた刀を掴み、正面向いて奇声を上げながら、ためらいも無く鞘を放り捨てて不届き者に切りかかる、顔にドーランを塗ったちょんまげで、何故か殿様姿の私・・・
思わず脳内で長畑煉次朗という人を切り捨ててしまうほど、その瞬間は頭にきました。
私は、自分の名前が大好きです。
音楽と魚が好きなお父さんが一生懸命つけてくれた名前。
兄とのバンド時代も通り名に入れていたほど気に入っていた名前。
お父さんの経営する寿司屋の店名にもなっている名前。
そんな自分の名前を、
しかもそんなに読みづらくもないのに!!
苗字も名前も一緒に間違えられてるなんて!!
・・・こんなの、初めて。
初めてですよ、こんなこと!!
それから後のことは暫く記憶にないです。
多分ちょっと怒ったと思いますけど。
人の名前を間違えるなんて、はっきり言って最低です。
一回ならまだしも、二回も!
しかもどちらも公衆の面前で間違えられて、二回目は上司の沖田さんにも笑われて、凄く、本当に凄く腹が立ちました。
ただでさえ詩が思い浮かばなくて憂鬱なのに、止めを刺されました。
私は、最近自分でも気が付いたんですけど、
根に持つタイプの人間だと思います(^-^)
こういう自分の悪いところを直したいとは考えているんですけど、
でも、さすがにこの件に関しては、根に持ってもいいですよね。
大体、この長畑って人なんて、
下の名前は煉次朗ですよ。れんじろう。
名前は普通だけど「れん」の字が「煉」だなんて、
変なのって感じじゃないですか。
この人だって、沢山の人に読めない、とか
色々言われていると思うのに、
なんてデリカシーのない人なんだろう。
分からないなら、せめて「なんて読むの」って聞いてほしい。
そんなの常識じゃないですか!
この名前、覚えておきます。
特に「煉」の部分。
こんな失礼な人の名前は、一生覚えておくことにします・・・。
さて、そんな失礼な人が、
今、私の目の前に現れたから大変です。
「やあ、おはよう」
長畑さんの方から挨拶をしてくれました。相変わらずよく通る声です。朝から耳がキンとしました。
「・・・・っす」
どうしたことか、声が出てきませんでした。悪い意味で、長畑さんを意識しすぎていたせいだと思います。とりあえず、私は逃げるようにその場を去りました。
すこし後悔の念を感じたんです。
本当に失礼な人! っていう怒りもありますが、
それでも一応同じ職場で働く人なので
これから上手く付き合っていかなければいけないことはわかっています。
新しい職場に来て、早くも悩みができました。
職場で悩み事ができたのはこれが初めてです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます