第2話part5『牧野玉藻、スランプ』
牧野:営業部オフィスルーム内 (朝)
東 京に上京してから、詩を書くことができません。
とても近代的で、映像でしか観たこともないような お洒落な風景に毎日のように出会いますが、私には別世界のように思えます。
東京は年中暖かくて秋田のように雪も降らないのに、私の心は毎日のように白い雪が積もっています。 全然溶けなくて、最近はなんだがちょっと憂鬱な毎日です。
私の夢はメッセージ性の強い歌を歌える人になることです。
音楽好きの父の影響で、3歳の頃からずっとギターとベースをやっていました。
中学・高校の六年間は、兄と一緒にバンドのギター兼ベース兼ボーカル&コーラスとして活動していました。
兄がギターだったので私はベースを弾くことが多かったのですが、 兄がボーカルだけの時は私がギターを弾いたり、私が歌う曲のときは兄がベースを弾いてくれていたりしました。
曲によっては私がボーカル・べースを担当することもありました。
兄のバンドでの活動は区切りをつけて活動休止にしました。
お兄ちゃんは父の寿司屋の手伝いで忙しくてバンド活動ができず、私は私で思い悩むことや辛いことがあり、高校の一時期音楽活動から少し離れがちになって、心が空白になりました。
そして、初めて色々考えました。色んなことを思い出しました。
お母さんが死んだときに感じた悲しみとか。とても陽気で楽しかったお父さんが、お母さんが死んでから、人が変わったように真面目になって私と兄を育ててくれたこととか。そんな父の姿が、私には、何だかとても可愛そうに見えたことか。
高校の入学直後、バンド活動のイメージ作りのために髪を赤く染めていた私は変わり者と皆に馬鹿にされて、友達もまともにできなかったこととか。
本当に毎日いろんなことを思い出してました。
高校入学してからほどなく、私は学校の先生に目を付けられました。そんな私が髪を黒くしないことに対して、父と兄が必死になって、私という人間のことを先生に説明してくれました。
あの日のことは今でも忘れることができません。その日以来、私は髪の毛を黒くして、ライブの時だけ赤毛のカツラを被るようにしました。
他にも、私がライブ後に怖い人たちに襲われそうになったとき、お兄ちゃんが命がけで私を守ってくれた日のこととか。初めて秋田音楽フェスに参加したときのブーイングと その後に出会った、私にとって大切な人、森羅さんのこととか。
他にも一杯、毎日父の寿司屋の手伝いとか、学校の帰り道にも色んな事を思い出して、そして様々な事を考えて。物思いにふけったりもしました。
沢山の想いをたどった後で、やっぱり私は自分という人間の心の中を表現したいんだ!
ミュージシャンになりたいんだ!
そう強く思うようになっていました。本物のミュージャンになりたい!
お兄ちゃんの音楽もいいけれど、もっと自分がこれまで感じてきた沢山のことを、人の心に、直に気持ちを伝えられる!
そんなシンガーソングライターになりたい。秋田じゃなくって、東京で。
東京に行って、私という人間のことを知ってもらいたい。
そう思い立ったら、いてもたってもいられなくって、勇気を出して
美咲ちゃんにお手紙を出したんです。
東京に行くからバンドを本格的に脱退する!!
と兄に告げたときには
「お前がいなきゃCDを無料配布しなくちゃいけなくなる!
ジャケットの写真はどうするんだ!! というか詞は誰が書くんだ!!
会場にも野郎が来なくなるだろう!!お前の写真をポスターに載せるだけで、野郎共が群がってくるんだ!! お前見たさに俺達に興味のない奴らまでもが群がってくるんだ! 正直とても悔しいが、お前がいなきゃこのバンドはおしまいなんだ!
というかこのバンドはお前で持ってるんだぞ!!頼むから考え直せ!俺の人生のために、考え直せ!」
等と6時間ほど嘆かれましたが、最後は快く受け入れてくれました。
そして私が東京へいくための路銀までくれました。
本当に、涙が出ました。
私はそんなお兄ちゃんが大好きです。
お兄ちゃん達4人のビジュアル系メタルロックバンドが、なんとインディーズデビューするらしいです。
デビュー曲は
『死刑囚淫夢地獄』
カップリング曲『悪魔弄りは地獄行き』
THEスペルマス・サスペンションズというバンドです。
兄曰く、自信作だそうです。デスメタル好きの兄らしい素敵な歌詞で、凄く刺激を受けました。さっそく今日の朝の通勤時もずっと聴いていました。本当に、とても良い曲です。世間が兄の存在を認めてくれる。そんな日は、もうすぐです。
ただ、バンド名の由来だけは未だにわかりません。13歳のときに兄にたずねましたが、未だに教えてくれません。
東京は物価が高いし、魚は不味いし、ババヘラだって売ってない。ひどい街です。
本当は音楽だけに集中したいのですが、私も働かなければ生きていけません。
今はお金があまりないので、来月の初給料までは節約しないといけません。でもここで働きながらなら、音楽活動やって行けそうです。
詞が思い浮かばなくって憂鬱な気持ちになることは正直あります。友達ができなくって寂しいっていう気持ちもあります。
でも、焦る必要はないと思います。きっと今は東京に来てちょっとスランプなだけ。
今はここでゆっくりと、自分の夢をつかんでいこうと思ってます。今の私には友達よりも恋よりも何よりも、
夢を叶えること!
これが一番大切なんだ!! だから頑張れ、玉藻!
自分で自分を励ましてみました。
とりあえず、今日も一日が無事に終わりますように。
そんなことを思いながら、朝、私は給湯室で職場の皆さんのマグカップを洗っていました。
一通り洗い物が終わった後、私は職場に戻ろうと給湯室を後にしました。通路の右側から足音がしました。なんだか急いでいる感じです。それにしても通路を走るなんて常識のない大人の人ですね。私は、反射的にゆっくりと足音を出している人物の方を向きました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます