第341話 強者の暴走

「篤樹ーッ!」


「おにいちゃーん!」


 母と妹の絶叫に、篤樹はベッドから飛び起きた。


「どうしたの?!」


 自室の扉を開き、廊下に顔を出す。リビングで騒いでいる母と妹の声を確認し、急いで廊下を移動する。


「おにいちゃん! 出た!」


「篤樹! そこ! ほら! テーブルの下!」


 2人はリビングのソファー上で抱き合い立っていた。


 この状況は……


 年に数回起こる非常事態―――篤樹は溜息混じりに短く息を吐き、2人が指さすテーブルの下に視線を落とす。

 真っ黒と言うよりは、オレンジを極限まで濃くしたような体色の虫……辺りの様子を確認するように、長い2本の触角を せわしなく動かし立ち止まっている「ゴキブリ」を確認すると、篤樹はゆっくり屈みこんだ。右足のスリッパを脱ぎ、その後部を掴んで攻撃姿勢を整える。

 ソファーの2人は強く抱き合ったまま、息を殺して篤樹とゴキブリの戦いを見守っていた。


 ……ったく……何匹棲んでんだよ……お前ら……は!


 目測通り、篤樹はゴキブリ目がけ手にしたスリッパを振り降ろし、床に叩きつけた。だが……


「あっ!」


 寸でのところで難を逃れたゴキブリは、まるで反撃するかのように篤樹へ向かい駆け出して来る。


「ウワッ!」


 こうなると、体勢が悪い篤樹も咄嗟には再攻撃へ転じられない。慌てて身を避けようとした結果、頭部をテーブルに打ちつけてしまう。


「痛ッ……って、ウワ……うわっ!」


 尻もちをついたまま、迫って来るゴキブリに向かいスリッパを振り下ろし続け 後退あとずさるしか無い。その様子に、母と妹は狂気の絶叫をあげ続けている。


「くっそ!」


 思い切り叩きつけたスリッパを見事に避けた「敵」は、その風圧に押されたのか、向きを変えてリビングのソファーへ走り出した。


「イヤー! いやー!」


 恐怖に目を見開き、絶叫しながら様子を見ていた母と妹の声量がさらに増す。ソファーが壊れそうなくらいに座面を足で踏み鳴らしゴキブリの接近を拒むが、相手はお構いなく真っ直ぐソファーの下に潜り込んだ。


「どこ? どこーッ!?」


 妹の文香は、血の気を失った真っ青な表情のまま固まり、母にしがみついている。


「ソファーの下に入った!」


 篤樹は体勢を立て直すと、這うようにリビングへ移動した。


「早く! 早く!」


 母の怒声とも言える懇願に篤樹も早く応えてやりたいが、ともかくソファーの下の「敵」を倒す術が無い。


「降りて! 2人とも! 早く!」


 篤樹の指示に、母は妹を抱きしめたままソファーから飛び降りた。着地の勢いもあり、2人は崩れるようにヘナヘナと床に座り込む。篤樹はソファーの背を前に押し、底面を浮かせて「敵」の居場所を確認しようとした。

 しかしタイミング悪く、ゴキブリは隙間から駆け出して行く―――母と文香が座り込んでいる方向へ。


 抵抗する事も出来ず、膝からスカートへと「敵」の登坂を許してしまった文香は、声も無く涙を流していた。妹の服を駆け抜けた「敵」は、そのまま母の腕に―――


「あ゛……あ゛ァァーッ!」


 母は文香を押し倒して立ち上がり、同時に、腕を振り払う。


「ヴァ、ハ、ヤー!」


 聞いた事も無い発音の絶叫でリビングを駆ける母の姿に、篤樹はその時トラウマ級の恐怖を感じた。振り落とされたゴキブリが体勢を整える間も無く、母はリビングのガラステーブル上に置かれていた雑誌や新聞紙を掴み、次々と「敵」に叩きつけて行く。

 この時、運よく最初の雑誌攻撃で「敵」は仕留められていたようだが、母の暴走によって吹き飛ばされたテレビのリモコンが、サイドボードのガラス扉を砕くという甚大な被害を引き起こしてしまった。


 帰宅した父と姉から呆れ声で抗議を受けた母は、顔をしかめて言い放った。


「だって、本当に嫌いだし、怖いんだもん! 仕方無いでしょ!『G』だけはホント無理! ねぇ? 文香」



◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 ゴキブリが苦手な人って、本当にパニックになるんだなぁ……


 篤樹は、突如目の前で起きた出来事に「冷静」とは違う、どこか呆然とした意識の中、いつかの母と妹の姿を重ね見ていた。

 ミスラの説明によるなら、座り込んでいた兵士の体内から飛び出して来た「モノ」は、蟲使いらによって法力強化された「黒弾虫」らしい。しかし、その姿形は、篤樹も「元の世界」で何度も目にしたゴキブリそのものだ。ただ……


「うわぁ!」


「くそっ……」


 周囲で兵士たちの叫び声が聞こえる。篤樹は視界の端で、突然起こった惨事を捉えていた。

 数百匹は居るであろう黒弾虫は法力強化を受けているためか、その名の通り「黒い弾丸」となり散弾状に飛び出して来る。防御魔法壁の発現が間に合わなかったり不十分だった兵士たちの身体に、その「黒い弾丸」は突き刺さって行く。


「伏せて!」


 篤樹はエシャーに腕を引き下げられ、慌てて身を屈めた。ミスラと共に防御魔法壁を発現させている法術兵も、腰を下げて低い態勢を取る。篤樹を含む4人は、直径2メートル弱の半球体防御魔法壁に身を収め状況を確認する。


「う……ヴ……助け……デェ!」


 黒弾虫が体内に突き刺さった近くの兵士の身体が、先の兵士と同じように膨張破裂した。そして、新たな黒弾虫の散弾が放たれる。


「何?! これが蟲使いの攻撃なの?!」


 エシャーが最大強度の「壁」を作りながら尋ねた。


『法力強化した「虫」を遠隔操作して獲物を狩るんだよ!』


 質問を通訳した篤樹に顔を向け、ミスラが答える。篤樹は視線を前方に向けた。


 エルグレドさん……


 助けを乞うように、篤樹はエルグレドの姿を探す。10メートルほど前方に、防御魔法壁で全身を包んでいるエルグレドと、数メートル離れて黒弾虫の「駆除」に法撃を放ち出しているウラージとピュートの姿を確認する。


『気を付けろ! 喰い破って体内に入られたら、また散弾攻撃が始まるぞ!』


 数名の兵士が「膨張破裂」を起こし終わると、すぐにミスラが警戒を発した。篤樹はすぐに大声でその指示を通訳する。数千匹に増えた黒弾虫のほとんどは地に落ちた後、地面を走り回りながら「次の獲物」を探している。膨張破裂時に起こる射出速度では無いが、数十匹は羽を広げて周囲を飛び交っていた。


「最大防御!」


「エシャーっ! カガワを守れ!」


 ウラージとピュートの叫び声が唐突に響く。篤樹は声の主たちに視線を向けた。同時に、周囲を守っている防御魔法壁の法力光が強くなる。


「あ゛……ヴぁーーー!」


 「壁」の向こうに、エルグレドが両手を開き叫ぶ姿が見えた。次の瞬間、篤樹たちを包む防御魔法は、エルグレドから発せられた真っ白な光に襲われる。


「うわっ!」


「キャッ……」


『なん……』


 地面に突っ伏すほどに身を屈めた篤樹たち4人は、突如襲って来たエルグレドからの攻撃魔法の衝撃を感じとり口々に声を漏らす。篤樹は閃光から目を守るために両腕を重ね、その隙間から何が起きているのかを確認した。エルグレドの両手から、全周囲に向かって何色もの攻撃魔法光が放たれている。


「うわ゛ぁ、あ゛あ゛―!」


 錯乱状態で叫びながら、ところ構わずに攻撃魔法を放射し続けるエルグレドの姿を、篤樹は腕の隙間から呆然と眺めた。


『何をやってんだよ、あの男は! こっちまで殺るつもりかよ!』


「エルーッ! やめてー!」


 ミスラとエシャーもエルグレドの異常な法撃に気付き、大声で叫ぶ。唐突に、エルグレドが放っていた波状攻撃の光が消えた。


「愚か者が……」


 両手を突き出し、目から涙を流し恐怖に歪んだ表情のまま固まっているエルグレド―――その背後から、ウラージが顔を覗かせた。


「まさか、ここまでの錯乱に陥るとは……コヤツは阿呆か!」


 ウラージがエルグレドの頭部を思い切り平手で叩きつけると、まるで立像が倒れるようにエルグレドは真っ直ぐ前方へ倒れる。


「法力が残ってる虫を徹底的に潰せ! 法力を辿れば1匹残らず潰せる! 急げ!」


 エルグレドの波状法撃により、周囲数十メートルは焼け野原のようになっていた。ウラージからの指示を受け、生き残っていた兵士10人ほどが、それぞれ広範囲索敵の法術を発しながら周囲に散っている虫の駆除を始める。


「居た……」


 周囲を見回しつつ、ヨロヨロ立ち上がった篤樹の耳にピュートの声が聞こえ振り返る。ピュートの右手から放たれた攻撃魔法の青い光が、20メートルほど離れた森の木々の間へ吸い込まれた。


「チッ……」


 舌打ちと共に、ピュートは即座に駆け出して行く。


「え? あ……おい! ピュート!」


「貴様も行けチガセ! 蟲使い共を潰して来い!」


 ピュートの背に声をかける篤樹に向かい、ウラージが怒鳴り付けた。思わず視線をウラージへ向ける。全身を硬直させたまま倒れているエルグレドの横に、ウラージは屈みこんだ姿勢で篤樹を睨みつける。


「この阿呆は拘束した。このまま放っておくワケにもいかん! あのガキと貴様で、蟲使いの小人どもを潰して来い!」


「あの……でも……」


 苛立ち怒鳴り付けるウラージの指示に、篤樹は口籠りながら応じた。


「僕……蟲使いの法力には……」


「私も一緒に行く!」


 2人のやり取りを聞いていたエシャーが、すぐに応じて篤樹の右腕を掴む。そのまま駆け出そうとするエシャーに引きずられ、篤樹も数歩進んだところでウラージが背後から声をかけた。


「貴様の得物はその剣だろうが! 法力を増幅させて行け!」


 その声に、進み始めた篤樹は足を止める。


 あ…… 成者しげるものつるぎ……


 背中に斜めに下げている帯剣鞘から、篤樹は成者の剣を引き抜いた。剣を握る篤樹の右手をエシャーが自分の両手で包み込む。エシャーの手に灯った法力光が篤樹の右手に、そして、成者の剣へと移って行く。


「行こッ! アッキー」


 準備が整ったのを確認し、エシャーが声をかける。篤樹は背後をふり返り、ウラージを見た。


「さっさと行って片づけて来い!」


 生き残っている黒弾虫に向かい次々に法撃を放ちながら、ウラージが指示を出す。篤樹はうなずき了解を示すと、エシャーと手を繋ぎ、ピュートの姿が消えた森に向かって駆け出した。

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