第308話 臨会の地
「アッキー!」
突然の過重で脱臼してしまった左肩を右手で押さえ、エシャーは顔を虹色の膜に押し付けるほど屈み込んで絶叫を上げた。
「アッキー! ピュート!」
穏やかな風と僅かな波音だけの静かな湖上に、エシャーの絶叫が響き渡る。
「エシャーッ!」
湖岸からバシャバシャと水を叩く音とスレヤーの叫び声が聞こえた。エシャーは声に反応し顔を上げ、スレヤーに向かい叫んだ。
「スレイ! 大変! アッキーとピュートが……アッキーたちが落ちちゃった!」
「オーケー! 大丈夫だ! 見てたよ!」
湖上に押し出した小舟に乗り込み、スレヤーは大声で応じる。
「すぐに行く! そのまま待ってろ!」
小舟に乗り込んだスレヤーは、オールで漕ぐために背を向けた。エシャーは脱臼している左肩を押さえ、不安そうにスレヤーの背を見つめる。
「痛ッ……」
激しく襲って来た肩の痛みに顔を歪めたエシャーは、気持ちを落ち着けるようにひと息を吐き、患部に当てた右手に治癒魔法の法力を注ぎ込む。
「向こうから見てた! いってぇ、何がどうなっちまったんだ!」
まるで駆け馬のような速さで進んで来る舟から、スレヤーの声が届いた。
「分かんない! でも『膜』から急に白い光が照ったと思ったら、ピュートとアッキーが落ちちゃって……私の手をアッキーが握ってて……でも、私……つかんでてあげられなかった……」
肩の痛みを覚えながらも、エシャーは「落ちた」篤樹の手をしっかり握っていたはずだった。しかし、自分の手を握り返していた篤樹の手から力が不意に抜け、あっという間に「指先の温もり」は消えてしまった……そのことが悔しくて、エシャーは涙を流す。
「よぉし、エシャー! こっちまで跳べるか?」
虹色の膜から2メートルほど離れた位置でスレヤーの舟は動きを止めている。
「『制限』に当たっちまってるみてぇでよ、舟はここが限界なんだわ!」
エシャーは左肩に添えていた右手をゆっくり外した。とりあえず肩の脱臼はつなげられたが、急激に伸びた筋などの痛みはまだ残っている。しかしその痛みを耐え、エシャーは数歩下がって膜の端にかかとを合わせた。
「行くよ!」
自身を奮い立たせるように合図の声を上げ、エシャーは大きく踏み出し、膜の弾力も利用して思い切り踏み跳んだ。スレヤーは舟上でバランスを取って立ち、エシャーの飛び込みに備える。
「おっ……とぉ!」
小舟の先まで落ちるくらいの勢いで跳び移って来たエシャーを、スレヤーは両腕でしっかりとつかみ抱き、上手く力を逃がし2人で舟内に倒れる。
「大丈夫か?」
引っくり返りそうなほどに揺れる小舟の中で、スレヤーはエシャーに問いかけた。肩の痛みで顔を歪めるエシャーは、すぐには返事も出来ない。
「……アッキーとピュートのヤツは……湖ん中……ってワケじゃ無ぇんだな?」
状況を正確に把握するため、スレヤーはエシャーが答えやすい質問を選ぶ。まだ声も出せないほどの痛みを感じているエシャーは、大きくうなずいて状況を伝えた。
「そっか……『あの組合せ』だけが、湖神様からのご招待を受けたってことかよ……」
揺れが収まるとスレヤーはエシャーを舟尾席に座らせ、自分は舟首席に座りオールを手に握る。
「何にせよ、まずは大将に報告しにゃなんねぇな……。エシャーちゃんはこん中で、ちと休んで治癒魔法に専念してなよ……」
スレヤーは額に浮かぶ汗をそのままにエシャーに優しい笑顔を見せ、オールを静かに動かし始めた。状況認識の整理を始めたエシャーの表情が、苦痛と不安と悲しみに歪んでいる。
まったく……すっかり酔いが振っ飛んじまったぜ……。にしても……アッキー……死ぬなよ……。エシャーにこんな表情を、いつまでもさせんじゃ無ぇぞ……
エシャーの傷を労わるかのように、はやる気持ちとは裏腹に2人を乗せた舟は湖岸に向けゆっくり進んでいった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
湖岸に引き上げた小舟の周りには、スレヤーからの知らせを受けたエルグレドとレイラ、そして、当然顔のウラージが集まっている。
「あなたが上手く誘い出さないから……」
レイラは小声でスレヤーを責め、背後から脇腹を強めに小突く。
「痛てっ!……すんません……気が
小舟の中に座したまま左腕と肩に治癒魔法を行うエシャーのそばで、エルグレドとウラージは事情を確認していた。
「ふん……これも貴様の計画の内か? 悪邪の子」
「……違いますよ」
ウラージからの問いに、エルグレドは苦笑しつつ答える。
「……ごめんなさい」
もう何度目かの謝罪を、エシャーは「大人たち」に告げていた。
「あなたのせいじゃなくてよ、エシャー……」
レイラは、これまた何度目かの慰めの声をかける。
「とにかく、悪いのはあのガキよ! まったく……調べものしたいなら1人でやれってのよ! 2人まで巻き込んで……帰って来たら、タダじゃおかないわ!」
心底腹立たし気に悪態をつくレイラを見ながら、エシャーはますます申し訳なさそうに身を縮めた。
「……帰って来る確率は……どんなもんですかねぇ、大将」
スレヤーが意を決した声で問題の核心に触れる。エルグレドは腕を組み、右手拳を口元に当てて黙り込む。
「チガセだけでなく、あの『ガザルの分け身』も一緒なのだろう? さして心配することもあるまい」
代わりに答えたのはウラージだった。
「元より、あの2人を送り込む策も組んでいたのだからな。違うか?」
応えを促すように問うウラージの声にエルグレドは反応し、組んでいた腕を解き口を開く。
「そうですね……確かにあの2人を送り出すことになるだろうと、予定はしていました」
語り始めたエルグレドの声に、エシャーとスレヤーが驚きの表情を見せる。
「えっ? 何すか、大将! アイツらが向こうに『招待』されるって、知ってたんすか?」
「どういうこと、エル! アッキーとピュートを『送り出す』つもりだったって……聞いてないよ!」
「ほらね……」
2人の驚きの声に続き、レイラが口を挟んだ。
「言ったでしょ? 情報だけでなく、計画だってキチンとお話ししておいて下さらないとチームの連携は崩れてしまいますのよ」
「え? 何? レイラも知ってたの?!」
エシャーの視線がレイラに向く。レイラはバツが悪そうに肩をすくめる。
「ゴメンなさいね……私もつい先ほど、エルからお話しをうかがったばかりだったの。果物をいただいた時にね。戻ってすぐに伝えておけば良かったわ……」
「大将……」
スレヤーは口元に笑みを浮かべてはいるが、挑むような視線をエルグレドに向けた。
「……説明して下さいよ。なんで『あの2人』なのかってことを」
「……すみません」
エルグレドは真剣な表情で、先ずは素直に謝罪を口にする。
「先ほど、レイラさんからもお叱りを受けました。私の弱さと愚かさです。お約束します。今後は『確定』する前から、皆さんに計画を共有します」
視線を真っ直ぐスレヤーに、そして、エシャーに移す。エルグレドの、嘘偽りない謝罪の思いを読み取った2人は表情を緩めてうなずいた。
「たのんますよぉ、大将!」
「エルの秘密主義って、嫌い! ちゃんと作戦は教えてよね!」
「ひとり遊びがお好きなのよ、隊長さんは」
最後にひとことを添えたレイラに、エルグレドの鋭い視線が向けられる。即座にレイラはそっぽを向いた。
「それで? なんで『あの2人』なんすか?」
「……はい。先ほど、レイラさんには説明しましたが……」
スレヤーから改めて問われた質問に、エルグレドはレイラにも説明した通りを伝える。
「……そっかぁ」
説明を聞き終わると、エシャーは納得したように応じた。
「本当なら、ガザルはまだ臨会の地に居なきゃいけない存在だし、アッキーは湖神様からの力を受けた渡橋の証しを持ってる。『招かれてる』のはガザルと同じ細胞を持つピュートで、入るための『カギ』を持ってるのがアッキーだった……その2人が一緒になったから……」
「一気に『落ちた』ってことですかい?」
エルグレドはうなずき、エシャーとスレヤーの理解に同意を示した。
「これまでのことから考えると、その可能性が一番高いだろうと考えていたんです。ですから明朝、ピュートくんも連れてあの『膜』まで行き、アツキくんと2人同時に『膜』に触れてもらおうと考えていました。2人が一緒なら、あの『膜』の中にも手を『入れられる』だろうと……そのことを確認した後で皆さんと計画を練り、必要な準備を整え送り出す……そういう心積もりだったんです」
「まあ、あの2人なら大丈夫でしょう」
深刻な表情でうつむくエルグレドを慰めるように、レイラが口を開く。
「アッキーは『どこに行って何をすれば良いのか』を知ってるんだし、悔しいけど、あのクソガキが最強クラスの法術士ってのは事実よ」
「そうっすよ! ちと、準備不足なのは仕方無ぇとしても、アイツらなら全然問題無いでしょうや! だからよ、安心して待ってなよ、エシャーちゃん」
スレヤーも努めて明るい調子でエシャーに声をかけた。
「うん……」
舟の中に座るエシャーは力無くうなずいたが、未だに深刻な表情のエルグレドが気になり視線を向ける。
「何か不安材料があるのか?」
その様子に気付いたウラージが、エルグレドに問い質す。一瞬、作り笑いで場をやり過ごそうとしたエルグレドだったが、思い直し、真剣な面持ちで口を開いた。
「……心配なことが……3つあります」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
時間にして2秒も無い「落下」の間に、篤樹はこれまでの日々の様々な場面を思い出していた。一番印象に残っていたのは、祖母の家で大人たちが話しているのを聞く自分の姿―――人は死の間際に、人生を走馬灯のように思い出す、という会話……
今が……死の間際ってことなのかなぁ?……すごく色んな事を思い出す時間があるんだな……。それにしても……「走馬灯」って……結局、何のことだったんだろう……
篤樹が落下の「最後」に思い浮かべたのは、見たことも無い「走馬灯」とやらを見てみたいという願いだった。
バシャーン!
直後、全身を激しく打ちつける痛みと聞き覚えのある「破壊音」に意識が向く。
痛ッ! え? 何……どうしたんだ、俺……
自分の状態が分からない。篤樹は急激に覚醒した意識の中、激しいパニックに襲われる。身体が自由に動かない! いや……イメージする動きよりも、かなりぎこちなくしか手足が動かせない。そして、呼吸と共に口鼻に吸い込んだのは「空気」では無く「液体」だと気付き、恐怖を覚えた。
次の瞬間、誰かが背後から自分の身体を「持ち上げる力」を感じる。
「カガワ! おい! 暴れるな! 大丈夫か?! 落ち着け、カガワ!」
耳元で叫ぶ誰かの声に篤樹の意識が反応した。同時に今、自分が「空気を吸える状態」になったことに気付き、先ほど飲み込んだ「液体」を必死に気道から押し出すようにむせ込む。
「これにつかまれ!」
声の主―――ピュートの指示に無我夢中で従い、言われるがまま「柱」にしがみつくと、篤樹はさらにゲホゲホとむせ返る。
「水を飲んだのか? 息を止めないからだ」
ワケも分からず、声を頼りに周囲を見回す。すぐ後ろにある別の「柱」にピュートが手をかけている姿を見つけると、段々、状況を把握出来るようになってきた。
たす……かった……のか? 落ちたあと……ここは? 湖?
「大丈夫か?」
先ほどよりも落ち着いた口調で、ピュートが改めて篤樹に尋ねる。
「こ……こ……は?」
「知らない。あの『膜』の中に『落ちて』来た。島の湖とは違うな……」
ピュートは篤樹が無事なのを確認すると、水中から突き出している『柱』を支えにし周囲の様子を調べ始めた。
「『膜』の中……」
篤樹も回復した判断力で、周囲を改めて確認する。ピュートと共に、足が底に着かない水中から顔を水面に出し「柱」にしがみついている自分……その水面は、遠くどこまでも広がっている。
顔を「上」に向けると、赤と黒と紫の絵の具を水に溶かしたようなグラデーションの空が広がり、水面から10メートルほど上に「虹色の光」を放つ直径2メートルほどの円形の膜が浮かんでいるのを見つけた。
あの「膜」から……落ちたのか? この柱は……
篤樹は自分が支えにつかんでいる「柱」に目を移す。それが、どこまでも続いている木製の桟橋を支える柱だと気付くのに、時間はかからなかった。
そっか……来ちゃったんだ……
「カガワ……ここは……」
ピュートから改めて投げかけられた問いに、今度は確信をもって篤樹は答える。
「湖神様の……臨会の地だよ」
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