第307話 落下
「王室主催なんて『しゃっちょこばった席』は、どうにも好きになれ無ぇなぁ……」
スレヤーは湖岸の丘に座し、酒樽から直接、酒を喉に流し込む。対岸には王家の森が黒い輪郭を浮かべ、その上に星空が広がっていた。森の左側に見える破壊された街区にも、今は所々に灯りが見える。サーガ大群行とガザル・黒魔龍による「襲撃」から一週間を迎え、今夜は王都長城壁内外各所でも民衆らによる「哀惜の宴」が行われていた。
「……王政革命だなんだと息巻いてたけどよ……サーガ共にとっちゃ、人間同士の争いなんか御構い無しってこったな……」
対岸の湖面に数百もの灯篭が浮かんでいる。穏やかな湖面の波風に揺られる灯篭は、夜空に瞬く星の光のように揺れ動いていた。スレヤーはその「送り火」を見つめながら酒樽を口に運び、時に傾けては地に注ぐ。
「珍しい酒だろ? お前ぇさんの口に合うかは分かん無ぇけどよ……俺ゃ気に入ったぜ」
地面の傾斜をしばらく流れ、やがて地に染み込んでいく酒の跡に目を落とし、スレヤーは口の端を緩める。
「……何が『正しい』かは分かん無ぇけどよ……こっちに残ったからにゃ、俺ぁ、新しい国造りとやらに命を捧げるつもりだぜ、ジン……」
聴覚では二度と聞こえることの無い「友」との会話を、スレヤーは楽しそうに続けた。
「ま、一緒に飲めるヤツラじゃ無ぇけど、俺なんかには出来過ぎた『仲間』も出来ちまったしな……お前ぇさんもそっちで、王妃さんとよろしく楽しんでくれや……」
スレヤーは酒樽から多目の酒を喉に流し込み、大きく息を吐き出す。
「ん?……なぁにやってんだぁ……アイツら……」
湖上に移したスレヤーの視線の先に、小舟を漕ぐ3人の人影が見えた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「やっぱりエルグレドさんかレイラさんに、許可をもらってからのほうが良いんじゃないかなぁ……」
舟尾席に座る篤樹は、舟中央席でこちら向きに座るエシャーと、その後ろの舟首席でオールを動かすピュートへ心配そうに語りかけた。
「見に行くだけだし、大丈夫だよぉ!」
宴開始から1時間以上、ただ座ってレイラの愚痴を肴に食事をしていたエシャーは、ピュートから提案された「退屈しのぎ」に乗り気な笑顔を見せる。
「カガワは自分の判断では無く、補佐官とエルフの判断で生きているのか?」
ピュートがオールを動かしながら、不思議そうな目で篤樹を見た。
「は? 別に……そうじゃ無くてさ……」
段々と近付く「虹色の膜」に視線を移し、篤樹は口を尖らせ言い淀む。
「でもさぁ……」
エシャーが背後のピュートへ振り返る。
「ピュートがあの『膜』から感じる力って、何なんだろうね?」
「……それを確かめたい。俺を引き寄せる力の原因は何なのか」
「だからさ、それをみんなに相談すれば……」
エシャーとピュートの視線を再び向けられ、篤樹は視線をそらした。
何だよ、この2人。同じような顔でこっちを見やがって……姉弟かっての!
「お散歩のついでに見に行くだけなんだから、エルたちに言う必要は無いと思うよ?」
「あの2人に逆らえない魔法でもかけられてるのか、カガワ? 診てやろうか?」
「んなワケないだろ!……ただ、何かあった時に……」
篤樹はそこで言葉を切った。
あれ? そういや、何でエルグレドさんたちに言わなきゃって思ってんだろ?……湖に落ちて濡れたりしたら、怒られるから?……かな?
「お前はもう
「そうだよ、アッキー。もう『大人』なんだから!」
前後に並べて見ると……肌色といい顔立ちといい、どことなく似た2人から「諭された」篤樹は面白く無い。
「何だよ……それ……。こっちの習慣なんか知らないっての……」
「ピュートは何月生まれなの?」
篤樹の苦情を捨て置き、エシャーがピュートに尋ねる。
「どの段階で『生まれた』と言うかの基準にもよる。一応、公証記録では12月の誕生と登録されている」
「あっ、じゃあ、ピュートが1番年下だね! 私、7月なんだ!」
「知ってる。調査済みだ」
ピュートは特に関心を示さずに応じ、オールを漕ぐ手を止めた。舟は目印の「ブイ」を抜け、ボンヤリ光る「膜」に向かい湖面を滑るように進む。
「……ホントに……ピュートも大丈夫みたいだね? 舟が止まらないよ」
夕方にエルグレドたちと試した時には「進入不可」だったラインを、舟は難なく通り抜けた。
「『膜』が……引き寄せてる?」
篤樹も小声で呟く。ピュートはチラッと篤樹に目を向けただけで、オールを調整しながら小舟を「膜」の横にピタリと止める。
3人は、右舷の湖面に浮かぶ「虹色の膜」へ視線を向けた。
「……どう? ピュート……触れる?」
エシャーが問いかける前に、すでに「膜」に向かって手を伸ばしていたピュートは慎重に手の平を下ろしてみる。
「ああ……
「膜」に載せたピュートの手は、昼間、篤樹とエシャーも体験したように、まるでフワフワの布団を触っているようだ。「膜」は湖面より10センチメートルほど浮かんで漂っている。ピュートが手で押さえると「膜」は湖面に触れるまでは下がるが、手を除けるとまた元の位置まで戻って来た。
「ふうん……」
エシャーはピュートの「実験」を見ながら、自分も「膜」に手を載せ、同じように「ボヨン、ボヨン」と跳ね返る感触を確認する。エシャーの口元に、ふと、笑みが浮かんだ。
「そうだ!」
言うが早いか、おもむろにエシャーは舟内に立ち上がる。
「うわッ! エシャー!」
急な舟の揺らぎに、思わず篤樹は悲鳴に似た非難の声を上げた。
「見てて! ヨッ……っと!」
そんな篤樹の抗議を聞き流し、エシャーは掛け声と共に「膜」へ跳び移る。
「あ!」
「ほら!」
驚きの声を洩らす篤樹に、エシャーは満面の笑みで振り返った。虹色の膜は、まるでトランポリンのような弾力を見せ、エシャーを支えている。
「面白ーい! アッキーもおいでよ! ピュートも!」
直径2メートルくらいにまで縮んでいる虹色の膜は、その見た目以上の強度を持つ「布」のようだ。エシャーはその弾力を使い、楽しそうに身体を上下させている。
「危ないよ! エシャー!」
その不安定な姿勢にハラハラしながら篤樹は声をかけるが、ピュートは軽く首をかしげると、おもむろに立ち上がった。
「強度テストか……」
そう言うが早いか、ほとんど舟を揺らす事無く「膜」へ跳び移る。
は? ナニヲヤッテルンデスカ、フタリトモ?
虹色の膜に乗った2人が、まさにトランポリンで遊ぶ子どものように跳びはねる姿を、篤樹は呆れて口を開いたまま見ていた。
「ねえ、アッキーも一緒にやろうよ!」
エシャーが満面の笑みで左手を差し出す。一瞬、その誘いをすぐに断ろうとした篤樹の目に、エシャーが姿勢を保つためピュートと握り合っている右手が映った。妙なザワつきを心に感じ、篤樹は応じる。
「……分かった」
舟から落ちないようにバランスを取りながら、篤樹はゆっくり立ち上がった。両手でエシャーの左手をつかみ、慎重に膜上へ右足を載せ、そこから一気に左足も膜上に載せる。
「ね? 大丈夫だったでしょ?」
エシャーが得意気な笑みを向けた。
「何だ? カガワは怖かったのか?」
「そんなんじゃ無いよ!」
ピュートから意外そうな声をかけられた篤樹は即座に否定の返事をし、足元に視線を落とす。内心、恐れていたほどの不安定さは無い。見ていた印象通りトランポリンに乗ってるような感覚だ。だが……
「ちょっと……でも……やっぱり3人は……乗り過ぎかも……」
エシャーを挟んで右手にピュート、左手に篤樹が横並びに立つと、両端の2人は膜端から落ちそうだ。エシャーが一歩下がり、3人は自然に「輪」になるように移動した。
「で? どうなの? まだ何かの『力』を感じてるワケ?」
移動しながら篤樹がピュートに尋ねる。ピュートは足元で光を放つ膜を見下ろしたまま応えた。
「……変わらない。ずっと『引き寄せる力』を感じている……この『下』から……」
ピュートが語り終わるとほぼ同時だった。
内向きの「輪」になる態勢へ移動していたピュートの右手を、篤樹が左手で握った途端、足元から真っ白な光が3人を照らした。その瞬間、篤樹はまるで「床が抜けた」ように身体が落下する感覚に襲われる。
「うわっ!?」
「キャッ……」
落下はすぐに止まるが、途端に、篤樹は両腕の付け根に激しい痛みを感じた。左手はピュートの右手をつかんだままだ。ピュートは篤樹にぶら下がっている状態となっている。そして……
「痛いッ!」
右手で握りしめているのはエシャーの左手だ。頭上からエシャーの苦痛の叫びが聞こえる。
「カガワ! 手を離せ!」
怒鳴るようなピュートの声が「下」から聞こえた。
「えっ……」
先ほどの白い光に視力を奪われ、自分の状態を正しく確認出来ないまま、篤樹は半ばパニック気味に声を上げる。
「何だよ! 何がどうなってんだ!」
「俺たちは『落ちた』! いいから早く手を離せ!」
落ちた? どこに?……「膜」の中?!
「カガワ! 早く手を離せ!」
「でも……そんなことしたらお前が……」
混乱の中、しかし、ピュートの声で状況判断への意識が向く。「膜の中」へ落ちてしまい、今は左手でピュートを握り、右手でエシャーの手を握った状態……篤樹とピュートがエシャーに「ぶら下がっている」ことを理解した。
「早く手を離せ! 腕が千切れるぞ!」
ピュートの声は切羽詰まっている。篤樹は顔を上に向けた。すぐ頭上に「虹色の膜」が見える。エシャーがその「膜」の向こう側でうつ伏せに倒れ、苦痛に顔を歪めている姿を確認した。エシャーとつないでいる手と手……指と指の間には「虹色の膜」が張っている。
「でも……俺が手を離したら……」
左手にぶら下がっているピュートへ篤樹は顔を向けた。どこに「落ちる」のか分からない場所へ、ピュートを切り捨てるなんて出来ない……だが、頭では分かっていても、もう両手に力が入らなくなって来ている。
ピュート……
篤樹はピュートとつながっている左手の力を緩めようとした。
「こっちじゃない! ルエルフとの手を離せ!」
え? あ……
本能的に「落ちる」ことを避けるため、篤樹はピュートの手を離すつもりでいた。だが、ピュートから出された指示に反応し、咄嗟にエシャーとつないでいる右手の力を緩めてしまう。途端に、自重とピュートの体重を支えていたほんの僅かな連結部は、一瞬でいとも簡単に離れてしまった。
エシャーとつなぐ手を離してしまったことに、後悔は無い。ただ、自分が「落ちて行く」感覚と「なんで?」という疑問符だけが、篤樹の意識を支配していた。
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