21の1話 『明日も、
◇◇◇
「以上で、手続きは終わりです。お疲れさまでした」
パーテーションで区切られたオフィスの一角。
僕は母と共に、かつてお世話になったチームのリーダーだという、綺麗な女性とデスクを挟んで向かい合う。
「……あの、今まで、たくさんご迷惑おかけして、すみませんでしたッ」
僕は頭を下げる。
正直、お世話になった記憶は全然ないのだけど、きっと僕の一件でたくさん迷惑をかけたことは間違いないはずだ。
「……戻ってきたくなったら、いつでも言って。待ってるから、私……ッ」
「それ、バイトの退職時に言う言葉じゃなくない?」
若干涙ぐみながら言う社院さんに、パーテーションの向こうからツッコミが入る。
長良さん、という小柄な女性と、体格のいい寡黙そうな二人の男性が、ぞろぞろと揃ってわざわざデスクまで来てくれる。
「……私たち、の間違いでしょ? ね、新人」
「……長良さん」
「私、このチームのこと、結構好きだったんだけどなぁー、歴イチかも。……ここだけの話だけど」
長良さんが困ったように笑う。
他の二人もうんうん、と首肯して。
その隣では、「え、ぐぅ」と完全に泣きモードに入った社院さんが、
「……今までっ、お世話になりましたっ」
「……だから、それ。バイトの退職時に言う言葉じゃなくない?」
「……」
すごく、いい人たちだったんだなと思う。
この人たちと一緒に働いたら、本当に楽しそうだ。
そう思うと、少しだけ億劫だけど。
「こちらこそ、お世話になりました」
母と共に、僕は再び頭を下げた。
◇◇◇
両手いっぱいに抱えた段ボール箱を、僕はガムテープで密封する。
「それで、最後か?」
「いや。でも、あとは細かいものだけだから……」
「…………」
兄がテキパキと僕から段ボールを受け取る。
母はといえば、何やら物憂げに部屋を眺めているだけで。
一週間。
苺途さんと公園で別れてから、もうそれくらい経っていて。
その間に、僕は自分の身辺整理を急ピッチで進めた。
まず、僕は休職したままだったバイトを全部やめた。
夜間部だった大学は、ちょうどタイミングが合致して、明日、一部への転入試験が控えている。
そうやって、僕は、記憶を失った後の僕自身のための人生を始めるのだ。
あと一つ、大事なことが残っているけど。
……。
ピンポーン。
「はい」
突如響いたチャイムに扉を開けると、小柄だけど和服をビシと着こなした老女がそこにいて。
「わしじゃ、わし」
「……ええと、大家さん、でしたよね?」
このアパートの大家さんで、
そのことを思うと、少しだけ胸の奥の方が苦しくなる。
「ざっと点検しにきたからね、ちょっと上がらせてもらうよ」
「あ、そういえば、その」
僕は荷物を漁り、
「これ、受け取ってください」
茶封筒を差し出す。
「……なにかね、これ」
「……苺途さんのお父さん、
「いらないね、そんなもん」
大家さんは、眉間にしわを寄せ、封筒を僕につき返す。
「出世もしてないヤツからむしり取るほど、こちとら金に困っちゃいないんでね! アンタがホントに出世した時に、改めて持ってきな。……もっとも、わしが生きてりゃの話だけどさ。……ほら」
僕を邪魔そうに押しのけて、
「……わかったら、早く続きを始めな。……自分で決めた事なんだからね」
こちらを見向きもせずに言う言葉が、妙にとげとげしく、それでいて優しかった。
「……ありがとう、ございます」
「あらかた、終わったな」
「……そう、だね」
部屋を見渡すと、大きな家具はあらかた片付いて、あと残っているのは、今晩宿泊するための布団と身の回り品くらいで。
荷造りを終えた軽い達成感と、見覚えのない部屋を片付けた後ろめたさが、何とも言えぬ徒労感を僕に与える。
「……じゃあ、そろそろ……」
「うん。……そうだね」
僕は、ファイルに大切にしまっていた書類を取り出す。
その書類の見出しには、残酷なまで無機質で淡白な文字で、こう書いている。
離婚届。
「……本当に、いいの? ……後悔しないッ?」
母が口を出す。
とても、苦しそうな顔をしていた。
僕の選択は、そこまで周りの人たちを傷つけるものなのだろうか。
「……母さん、やめなよ」
兄は母に寄り添うように肩を抱き、
「
「……、そうね、……ごめんなさい」
「ちょっと、飲み物買ってくるわ。……ほら、母さんもいくぞ」
僕に向けて、ウインクをする。
兄が示してくれた理解に、僕は救われた思いがし、
「ありがとう、兄さん」
部屋の扉が閉まる。
突然静かになった空間は、僕に妙な緊張感を生じさせて。
「……」
僕は一人、一枚の紙と向き合う。
たかが、紙切れだ。
でも。
これは、僕の人生を決める紙。
彼女の人生を決めた紙。そして、これからを決める紙。
その責任を、僕は追いきれるのだろうか。
「……」
それでも、僕は、彼女を。
意を決し、もう一度離婚届を見つめる。
「あ」
せっかく気持ちが固まったのも束の間、僕は筆記用具を梱包してしまったことに気付く。
慌てて探し回るも、なかなか出てこない。
泣きそうになりながら必死に梱包を剥がし、
「はは、……なにやってんだ、僕」
なぜだか可笑しくて笑えてきた。
どうせ、僕なんて、ずっと、しまらないままだ。
そう思ったら、少しだけ気持ちが楽になり。
ようやく見つけた古いボールペンを持って。
……僕は、先につき進む。
越名、一瑠。
◇◇◇
翌日。
その日は、いつもと変わらずにやってきて。
「じゃあ、行ってきます」
そう言った言葉に応えたのは、お隣さんの美少女ではなく、
「おう。がんばれよ。こいつは俺が責任もって、我妻さんに渡すから」
「うん。よろしくお願いします」
「……本当に、いいの? 行かなくて」
母の問いかけに、僕は笑顔を作って返す。
「うん。……一緒にいたら、きっと、もっと悲しくさせちゃうから」
母は、僕をじっと見つめ。
手を伸ばし、僕の首を抱き寄せた。
「……え、あ、あのッ?」
「特に意味はないわ。……母親が、息子を抱きしめて、何か問題あるかしら?」
「……いえ、何も……」
母の腕の中は、言葉にはそぐわないくらい優しく、温かくて。
「ありがとう……母さん」
◇◇◇
「よっ」
アパートの階段を下りると、相変わらずのフリフリ姫服に身を包んださゆさんが、僕を迎えてくれた。
彼女の傍らには、彼女がいつも通学に使っているスクーターが停められており。
「調子はどう?」
「悪くない、かな」
「なら、良かった。……ハイこれ」
そう言ってさゆさんが手渡してきたのは、単車のヘルメットと、
……真っ赤な薔薇の花束?
「……ええと、多分というか絶対、カケルさん、だよね? ……僕は試験会場でこれをどうすれば?」
「ヒクよねー、リアルな世界で花束とかッ、……でもそれをやってしまうほど、カケルはいちるんのことを純粋にッ……」
「いえ、純粋に純愛ではないです」
「えー」
言いながら、さゆさんが笑う。
「じゃー、そろそろいくよ。大事な試験なんだし、よゆー持ってできるように早めにねッ」
「ゆっくりで構わないよ」
僕は、スクーターの後席に腰掛けて、
「二人のおかけで、もう十分、余裕持てた気がするから」
さゆさんは振り返らずに、グーサインで応えた。
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