20の2話  おわり』

◇◇◇




 最近少しだけ見慣れてきた街並みを、彼女と二人で歩く。

 つい先日松葉杖がとれた片足は、まだ動きがぎこちなく、引きずって歩かなければいけなくて少し不便だ。

 でも、そんな僕のペースに合わせて、彼女はゆっくり歩いてくれて。

 そんなささやかな心遣いも、単純に嬉しく感じられた。


「いちるくん……」


 気が付くと、いつの間にか彼女が立ち止まっており、僕は彼女を無意識に追い越してしまっていた。


「……なに?」


 その場で振り返り、彼女に尋ねる。

 しかし彼女は小さな声で「ううん」と。


「……ただ、呼びたかっただけ」


 その微笑みに、僕は少しだけ傷ついた。

 だって、今のそれは。

 嬉しい時の笑顔なんかじゃなくて。


 少し前まで僕に見せていた、辛さを悟られまいと取り繕った笑顔だったから。


 そしてその意味を、僕は理解してしまった。



 彼女はきっと、もう、覚悟をしている。



 理解できてしまったからこそ、無力な僕は、どうにも悔しくて、

 

 ……でも、今の僕に、それを止められるものは、何もなかった。


「……」

「……」


 しばらく無言のまま、僕らはひたすらに街を歩く。

 夕暮れの光が、街の節々を照らし、キラキラと反射して僕らの視界を眩しくする。

 一歩、また一歩と歩くたびに、

 この二週間のことが頭によみがえってくる。

 彼女が二週間かけて伝えてきたヒントを、僕は繋ぎ合わせて、そろそろ解答を出さなければいけない。



「あそこです」


 彼女が、小さな洋菓子店を指さす。

 

「思ってたより、小さいお店なんだね」

「でも混んでるときはすごく混んでるのよ、ここのチーズスフレ。それくらい人気の店なんだから」

「そうなんだ。じゃあ、さっそく買って食べようよ」




「……」


 レジでの会計を終えた僕は、店内のイートインスペースで、沈黙する。

 理由は明確だ。


「……な、なによ?」

「……別に。ただ、ここまできて、苺途いちずさんの浅ましさとか、汚い欲望とかに触れさせられるとは思わなかっただけ」


 いわゆるジト目というヤツを存分に向けながら、僕は彼女への抗議光線の出力を満開にする。


「し、仕方ないじゃないっ! 実際に一つしか残ってなかったんだし、記憶をたどるという意味では、この分け方が最も忠実に再現してるんだからっ」


「口ではそう言ってますけど、言いながらお皿を抱えるようにして守るのは止めてくれません? ……ぜんぜん説得力ないですよ?」


「うっ」


 苺途さんは、ものすごくばつの悪そうな顔をする。

 普段の美少女の彼女が見せる笑顔とは、似ても似つかない。

 

 いつしか僕は、不満を通り越して、可笑しく思えてきた。


「……せめて、一口ください」


 正面の彼女へ向けて目を瞑り、口を小さく開けて待つ。

 当然僕は、チーズのまろやかな風味と、溶けるようなスフレの触感が広がるのを期待したのだけど。

 


「………………」


 しばらく、逡巡したような間が僕らを包み、

 その後。



 ちゅっ。



 可愛らしい音と、柔らかな感触と。

 思わず目を開けた僕から目を背けて、横を向きながら頬を紅潮させている少女の姿。

 ちゃっかりと自分のスフレを守りつつ、


「……一口、あげたじゃない」


 横目で桃色の頬を膨らませる彼女に、僕は思わず悶え死んだ。




 ケーキ屋を後にして、僕らはアパート近くの公園に寄る。

 狭い敷地の中、申し訳程度に設置された子供向けの遊具も、今はしばしの休憩を楽しんでいるところだろう。


 あたりはすっかり暗くなり、夕日の赤と夕闇の青が、一部混ざり合ってグラデーションを作っている。


 そんな風景の中で、制服姿の男女が二人、向かい合う。


一瑠いちるくん」


 相変わらず、その呼び方は疼くというか、僕の心に波風を立てて。


「……今日は、ありがとう。……ううん、今週も、先週も。……毎日が、こんなに楽しいの、久しぶりだった。……本当に、ありがとうっ」


 彼女が笑う。

 少しだけ、泣いているようにも見える。



「……じゃあ、そろそろ、答え合わせ、しようか?」


「……そうだね」


 言いながら、僕はその行動の無意味さに震える。


 本当は、答えなんてわかりきっている。


 僕は、何も思い出せなかった。

 

 元の越名一瑠こしないちるには、到底戻れなかった。


 記憶を取り戻させる彼女の試みは失敗し、僕らの先には、別れだけが待っている。



 僕も彼女も、それをわかっていた。


「……じゃあ」

「……うん」


 だからきっとこれは、何の意味もない行動だ。

 することで、何かを変えることも出来ない無力な行動。

 僕と彼女が、自分を納得させるためだけに行う、通過儀礼みたいなもの。



「……気絶しないように、キスをしよう?」



 一歩前に進むと、彼女も遅れて一歩前に進んで。

 近づく距離が、

 交わす視線が、


 一切の言い訳も許さず、

 僕らの逃げ場をなくしていく。


「……っ」


 交わした口づけは、いつもの甘い洋菓子のようではなく。


「……ッ」


 まるで冷たい氷で出来ているかどうか疑うくらいに、寂しく、ひたすらに孤独で、痛くすらあり。


「……ちるく……っ」


 同時に、涙の味がした。


 唇が離れ、その余韻にすがるかのように、鼻先で彼女を感じる。

 もう離れてしまったことへの後悔が、じわじわと胸をせり上がるのは、どうしてだろう。


「……おまじない、おわり」


 触れるほど近いキミの口が、残酷な真実を告げる。

 僕は引きちぎるようにして彼女を離れ。


「……うん」


 切り離せないものを振り切るようにして、返事をした。



「記憶、取り戻せましたか?」



 震える声で、彼女が尋ね。


「……いいえ」


 握りつぶすように、僕は応える。

 僕らは互いの目を合わさず。


「……でも、キミに教えてもらうよりも早く、答えには、きっとたどり着けたと思う」


「じゃあ、質問です」


 苺途さんは、顔を上げ、



「……私と一瑠くんの関係は、一体、何だったでしょうかっ?」




 今にも崩れそうな笑顔で、彼女が問う。

 その瞬間、ここ二週間の出来事が、鮮明に脳裏によみがえってきて。

 湧き上がる情動を必死に殺して、僕は解答する。




「……夫婦……ッ」




 そう。


「キミは、僕の……」


 越名苺途は、僕、越名一瑠の……、



「……僕の、嫁……」



 一緒にいる時間。

 互いにぶつかり合う感情と、

 日々の逃れられない労苦と。


 楽しい時も、辛い時も。


 元気な時も、戦えない時も。


 日常の一つ一つが、もう染みついて離れない。


 それはきっと生活で、人生だった。



 キミは、僕の、人生そのものだった。



「……っ、正解、ですっ……」



 彼女の頬を、涙が一筋流れる。

 その筋が二つになり、支流を増やして次々流れて。

 

「……せいかい、です……っ」


 もう、笑顔などどこにも無かった。


「……苺途さん、……僕は……」


 彼女に言葉をかけようとして、思い止まる。

 苺途さんは何も言えない僕へ、


「いいんです。もう、……もう充分なんです。……だって」


「充分すぎるくらい、一生分くらいの幸せをもらいました。……この最後の二週間、私はずっと、幸せでしたからっ」


 彼女は涙で濡れた顔をぬぐい、


「……この思い出だけで、あと二生くらいは生きていけますっ」


「……ッ」


 嘘だ。

 そんなわけない。

 もし本当なら、なんでそんなに、


 今にも壊れそうなんですか?


 ……でも、やはり僕には何も言えない。


 彼女を傷つけてるのは、僕だ。

 彼女を泣かせているのも、無理に笑わせているのも、見え見えの嘘をつかせているのも全て、記憶をなくした僕がいるからだ。


 ……だから、これでいい。



 彼女を傷つけない唯一の方法は、彼女の元から去ることだ。



「……だから、越名さん、……私たち」



 だから、僕は、キミと。




「……お別れ、しましょう?」




 昼と夜の境界線が消え、青の世界が訪れる。

 

 その中に赤はどこにもなく、どんなに探しても、もう見つけることはできない。


 ただ、世界には淡々と、青の濃淡があるだけだった。



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