20の1話 『おまじない、




「二週間、毎日私と、キスをしてほしいの」


 あの校舎での出来事の後、苺途いちずさんは急にそんなことを言いだした。


「だって事実、あのキスの後には気絶とかしなかったでしょ? きっとおまじないの効果てきめんなんだわ。……だからとりあえず、毎日しといたほうがいいと思うのっ」


 何を言っているのか、正直わからない。

 突然デレッデレに振りきった彼女の変貌に、僕は戸惑いつつ、


「……まぁ、たしかにあの時、気を失わなかったし、今も色々忘れてないんだけど……」

「でしょ! だからほらっ」


 不意に引き寄せられる首元。

 一センチもない超至近距離で、苺途さんの美しい瞳が僕を映し。


「……今日のぶん、しよ?」


 鼻孔をくすぐる甘い香りに、くらくらしているうちに、

 いつの間にか、唇が触れていて。

 少しだけ、歯と歯が触れ合って、吐息が吐息に交じり。


 僕の思考も、気が付くと溶かされてしまう。




◇◇◇




 週の半ば。

 僕らは二人、エッグタルト屋の列に並ぶ。


「……ねぇ、苺途さん」


 途端に彼女は「む」と不服そうな顔をして、


「……何回言わせるつもりなの、い、ち、ず! 今はそう呼ぶって約束したじゃないっ」

「ああ、ごめん、……でも、なんだか少し恥ずかしくて」


 こめかみを掻きながら言うと、彼女は、


「……言い訳しても、だめ。……ちゃんと、呼んでほしい」


 急に真剣な顔になって、切実な様子で念押ししてくる。

 最近分かったことだけど、どうやら僕は彼女のこういう表情に弱いらしい。

 とりあえず、小さなため息を一つ。


「……いち、ず」


 口に出した瞬間、自分の中の何かが震えるのを感じる。

 それが何なのか、僕にはよくわからない。


「……」


 苺途さんはというと、何やら後ろを向いてしまい。


「あれ? ええと、言われた通りにしたんだけどッ、まずかったッ?」


 焦って尋ねる僕が彼女を覗き込むと、


「……ッ」


 苺途さんの顔全体が、真っ赤に染まっていて。

 

「……」

「……」


 つられて僕も、赤面することしかできない。




◇◇◇




 それからの日々は、本当にあっという間だった。


「……入れば、いいじゃない」


 雨の日、僕らは相合傘で街を歩き。


「……あんまり甘くないんだけど……」


 何もない平日の夜は、決まって彼女がシュークリームを作ってくれて。


「……何よ、なにか言いたいこと、あるのかしら?」


 夕食はハンバーグしか出て来なくなったけど、すごく美味しくて飽きることもなく。


「もう少し! せめてもう少しだけでもっ!」


 一緒にショッピングに行って、果てのない衝動買いの誘惑にかられる彼女を引きずって退店する。


「今日は……一緒にいる……」


 時に彼女は学校をサボり、


 僕のリハビリの合間を縫って。


「~~~っ! みてみて! 〇ッキーのダンスキレッキレだわっ!」


 ○○ランドで、かつて見損ねたというショーを二人で観る。

 

「お、お父さんっ! 顔が硬いっ! 米華はまた変なこと言わないのっ!」


 時に彼女の家族から、実家に招かれたり。


 そうやって、僕は、かつて彼と彼女が積み上げた時間を、一つずつなぞって疑似体験する。



「……一瑠いちるくんっ」



 楽しい時間。

 彼女は笑って、焦って、怒って、いじけて、時々泣いて。

 それでも、彼と一緒に過ごしたことが、本当に幸せなのだと彼女の全てが語っている。


 正直なところ、僕もすごく楽しい。

 例え紛い物でも、彼女と過ごす時間は自分にとって、尊いものだ。


 ……だからこそ、

 そこで僕は、ようやく自分のしてきた仕打ちの意味を理解する。


 記憶を取り戻せない今の僕がいることが、

 彼女から、これほどの幸せを奪っている。

 本当は、いろんな表情をする人なのに、僕の前では彼女は笑うことしかできない。

 そうさせているのは、他でもない僕なのだ。


 でも、同時に僕は、実感している。


 一秒一秒、この幸せな時間が過ぎていく度に。



 今、どんなに幸せと感じても、


 僕が思い出せるのは、断片的な情報だけで、



 記憶は、今も戻らないまま。



 僕らの時間は、確実に、終わりへと近づいている。




◇◇◇




「脱いでほしいの」



 彼女の言葉に、僕は一瞬目の前が真っ暗になる。

 

「えっ!? ちょっと、苺途さん! 何言って……」


「いいから、脱いで」


「いやいやいくら最終日とは言えそれはマズいよっ!? どど度を越した関係は、ちゃんと記憶が戻ってから……」


 尋常じゃないくらいうろたえる僕を尻目に、苺途さんは、


「ぷっ」


 急に、心底おかしそうな顔をして、笑う。


「脱いで、これに着替えて、って意味なんだけど?」


「……ッ!」


 僕は自分がしてしまった、あり得ないほど恥ずかしい勘違いに言葉を失い、苺途さんを睨み付ける。

 彼女は動じることなく、けたけた笑い。


「……これ、今まで一瑠くんにされたイジワルの中で、一番悔しかったヤツなの! 仕返し出来てラッキーっ」

「……え、まさか今のを、苺途さんに?」

「そうよ。サイテーでしょ?」


 いったいどういう状況で!?


 僕は愕然と、その場に立ち尽くす。


 ……前の僕、なかなかにやり手じゃないですか。


 などと思い馳せていると。


「……なんてね。……では一瑠くん? さっそく脱いで、これを着てみてほしいのだけど」


「……要はただ着替えればいいんだね……ってちょっと待って! これ……!」


 手渡された服を広げて確認した僕は、思わず声を上げる。


 それはいかにも着古した感満載の、制服のブレザーとスラックスだった。


 見るとなにやら苺途さんは「ふふん」と、したり顔で。


「これ……ホントに着るの?」


「もちろんっ! だって趣旨はそういうことでしょ?」

「でもこれはさすがに目的と外れてる気が……」


 渋る僕に、彼女は活き活きとした笑顔で言う。



「気にしない気にしない! 私も着るから……ねっ?」



 苺途さんの言葉に、僕はようやく覚悟を決める。



 どれだけあがいても、何も思い出せないまま。

 約束の期限が、ついに僕らの背中を捕らえた。





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