19の2話 お願い』
「よう、来たな、
「あ……、ええと、……お兄さん……」
僕たちがそっと学校へ立ち入ると、すぐに声がかかった。
最初は無断侵入を教師に咎められると思ったのだが。
「久しぶりの学校はどうよ? なんか思い出せそうか?」
「実は、この学校、少しだけ見覚えがあって……」
「マジか! すげぇな! こりゃ、この場所で色々思い出せるかもしれないな!」
「……そ、そうですね。そうだといいですけど……」
「じゃあ。がんばれよ」
兄が去っていく。
その後ろ姿を見て、僕は思う。
本当に、早く思い出してほしいんだろうな。
兄の興奮した様子を回想して、僕は痛感する。
わかってはいるけど、どう頑張っても僕は、記憶をなくす前の僕の代わりにはなれない。
人のよさそうなこの若い教師も、友達も、親も。そしてきっと、苺途さんだってそうだ。
親切にしてくれているのは、僕にではない。必要とされているのは、前の僕なのだ。
この世界中で、今の僕を必要としている人なんて、いるのだろうか。
……いるわけないか、そんな人。
「どうかしましたか?」
とりとめのないことを考えていると、いつの間にかすぐ近くに彼女の顔があった。
「……ッ! なんでもないよ。すみません」
「大丈夫ですか? どこか沈んだ顔をしていましたが……」
「本当になんでもないんだ。……気にしないでほしい」
彼女の美しい瞳が、僕を見透かすように。
「わかりました。……じゃあ、越名さん、ここから、そうですね……二十歩体育館側へ向けて歩いてください」
「二十歩? 何でそんな?」
「いいから、ご協力をお願いします」
理に解さないままだったが、言われた通りにする。
僕が指定された場所に移動した後、
「じゃあ、その場所で、窓側を向いて、……目を、つむってもらえますか?」
「……こう?」
「そのまま、動かないでください」
指示されるがまま、僕は目を瞑って待つ。
どこからか、彼女の上履きの音が近寄ってきて。
「着きました」
ふいに、背中に柔らかい感触を感じる。
思わず目を開けると、彼女に後ろから抱きしめられていた。
「あ、あのッ!?」
「ここ、どんな場所か、知ってますか?」
答えられない僕に、
「私とあなたが、最初に会った場所です。……ちょうど時間も、……二分は過ぎてしまいましたが、たしかこのくらいだったと思います。……ねぇ、越名さん、……いいえ、」
腰に回された腕に、少しだけ力がこもる。
「先輩っ」
その響きは、どこか懐かしいようで、僕の心を苦しくさせる。
「自分勝手なことは、わかってます。今のあなたが、過去のあなたとは違うことも。……そしてそれが、あなたを苦しめていることも。あなたが気絶してしまうほど、思い出したくないと思ってしまっていることも。……でも」
押し付けられた彼女の額が、妙に熱く感じられて。
「私に、チャンスをください。……っ……わたしが、彼を、記憶を失う前の彼を取り戻すための時間をっ。もう一度、あなたと過ごした日々を思い出せる機会をっ。酷いことを言ってるのもわかってます。でも、どうしても、私には、その時間が必要なんですっ」
初めて聞く、悲痛なまでの彼女の声だった。
そしてきっと、それこそが本物の彼女の思いで。
「……最初は、ただただショックで、……でも、気絶してしまう原因に私がいるのがわかって、その時はそれでもいいと思ったんです。ただ、あなたの側にいられればそれでいいと。どんなに思い出してもらえなくても、あなたが元気でいてくれればそれでいい、と。いつか、あなたが言ってたように、私は笑顔であなたの側に居続けようって、納得して接してたつもりなんです。……なのに」
「……私のそんな態度が、一方的な意地が、記憶を失ってもなお、あなたを傷つけてた。……私はもう、これ以上あなたを傷つけてしまうことに耐えられないっ! もう、これ以上、あなたの側にいる資格なんてないんです……っ」
背中に密着した熱が、じわりと布地を介して背中に伝わる。
震えた吐息も、
声の反響も、
今まで僕に向けられてきた、彼女の全ての笑顔が、この上なく痛かった。
傷ついているのは、キミの方じゃないか。
「……だから、二週間くださいっ」
傷だらけの、彼女が言う。
「二週間だけ、元の私で、あなたといさせてください。出会った所からもう一度、少しずつ辿っていって、あなたの記憶が戻るかどうか、あなたといる資格があるかどうか、確かめさせてくださいっ。……それでも最後まで思い出させなかったら、その時は……」
ふと、回された腕がほどけ、僕はおもむろに振り返る。
知る限り、世界一美しい少女が、世界一美しい涙を流しながら、
「……あなたのもとを、去ります」
世界一せつなく、僕に笑いかける。
その悲痛さに、真摯さに、僕は言葉を失って。
「……うん」
なんとか取り戻した言葉を、絞りだした。
彼女は少しだけ驚いた顔をして、
「……ありがとう、ございますっ」
またしても、泣いて笑った。
その笑顔が、どうしようもなく僕を釘付けにする。
「……じゃあ、おまじない、してもいいですか?」
「いいけど、なんの?」
僕が尋ねると、彼女はそっと背伸びをして。
「……気絶しても、忘れたくなくなる、おまじない」
そのまま、顔が無造作に近づいて。
「……ッ」
気が付くと僕は、キミに唇を、奪われる。
……それは僕にとって、世界一、美しいキスだった。
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