12の3話  家族

◇◇◇




 ピ、ピ、ピ……、


 零太れいたが出ていった病室には何の音もなく、ただ私の心音だけが平坦な音を鳴らし続けている。

 私は依然として目を瞑ったまま、その握られた左手をどうすることも出来ず、ひたすらに狸寝入りを決めこんでいた。


 我妻苺途あずまいちず


 思えば、この娘と二人きりでいることなんて、初めてだ。


 高校の後輩。

 次期生徒会長と噂される優等生。

 ……そして、息子の……、


 ああ、やっぱりダメだ。


 万が一にも目を覚ましていることがバレてしまったら、きっと私は、この娘が傷つくようなことを口走ってしまうかもしれない。

 皮肉なほど優しいその手のひらに、刃を突き立てて、拒否してしまうかもしれない。


 それほどに、私には触れることすら叶わなかった息子の手を取って、ある日突然連れ去ってしまったこの手へ、私は嫉妬している。

 自分でも、少し驚くくらいに。


 ピ、ピ、ピピ、ピ……、


 心拍が思わず乱れ、規則的だったリズムにわずかなひずみが生じる。


「……お義母かあさん?」


 変化に気付いたらしい彼女の呼びかけが聞こえる。

 「誰がお義母さんですか、あなたの母親になった覚えはありません」と言ってやりたい衝動にかられるが、何とか堪えた。


 そんな私の心情などつゆ知らず、彼女は両手で私の手をそっと包み込んで、


「……大丈夫ですよ、私がついてますから」


 その細く小さな手で、しっかりと握ってくる。

 温かくて、柔らかい手だった。

 その手の持ち主は「その、失礼かもですけど」と前置きし、



「……私、実は密かに、お義母さんのこと、ツンデレだと思ってました……」


 ……は?


 ピピ、ピ、ピピピ、ピピ!


 唐突なカミングアウトに、私はまたしても心拍を乱す。

 しかし彼女は狸寝入りに気付くことはなく、独り言のように続ける。


「お義母さんって、最初は冷たいように見えましたけど、実はとっても優しいですよね? ……何度か伺う内に気付いたんですけど、……あ、こないだも訪問してくれた時も、『今は校外活動の時間』って、私の生徒会のことを心配してくれましたし」


 ……何を、言ってるんですかこの娘は。人が返答できないのをいいことに、都合のいい解釈するにもほどがあるでしょう。


「……一瑠いちるくんのことなんか、まんまそうです。心配だけどその心配を悟られたくなくて、……その結果、どんどん話がこじれていっちゃって……。気付いたら、自分だけでは解決できない状態になってる。……私、そういうことよくあるんです。よくあるから、もしかしたら、お義母さんも同じなんじゃないかって。……勝手に、そう思って……」


 本当に勝手です、と私は口に出さずに答える。

 ただ、押しつけがましい解釈にうんざりする半面、不意打ちで急所を突かれたようなヒヤヒヤする心持ちは、一体なんなのだろう。


「……だから、出過ぎた話だとわかってますけど、私とお義母さんは、どこか似た者同士だと思うんです。素直に気持ちを伝えるのが苦手で、でもそのことを認めて自分を下げられるほどの勇気もなくて。……だから、いつも人を傷つけてしまう」


 握られた左手に静かに力がこもる。

 その必死さに、悲壮さに、私は胸に渦巻く苛立ちと不快感を忘れてしまう。そしてどこか、彼女の言葉に共感すらしてしまっている自分に気付いた。


「……私はよく、一瑠くんを傷つけてしまいます。……でも、いつも一瑠くんは、私が傷つけているのに、傷つけてきた私を傷つけないように注意すら払ってくれます。……一瑠くんは、そういう、優しい人です。……でも」


 不意に、彼女は言葉に詰まり、


「……一瑠くんが、そういう気遣いをできない人が、この世界に一人だけいます。その人にだけは、いつも意地になって誤魔化して、言われた言葉に人一倍傷つく。……どんなに否定して見ないふりをしても、一瑠くんはずっと、その人のこと、追いかけているんです」


 ぽた、と手の甲に何かが落ちる。

 私は瞬時に、それが何なのかを悟った。


「……似た者同士だけどっ……、わた、私じゃ、お義母さんの代わりなんてできませんっ。目を覚ましてくださいっ。……なんで言ってあげないんですか? あなたのこと愛してるって、ずっと見守ってきたって、どれだけ大切に思ってるかってっ。 ……一瑠くんは、……ずっとそれだけを望んでいるのにっ、世界でたった一人、それを叶えられるはずのあなたが、どうしてそれをしてあげないんですかっ」


 ぽたぽた、と滴が止めどなく落ちてくる。

 きつく握られたままの手のひらは、少しだけ痛かった。


「……そんな大事な役目を果たさないまま、いなくならないでくださいっ。一瑠くんには、お義母さんが必要なんです……。もし、誰かが死ななきゃいけないなら……」 


 その先に続く言葉は、それだけは。


「……その時は、わたしが、代わりに死にますから……」



「……ッ」


 思わず目を開ける。


「……お、義母さん?」


 唐突な狸寝入りの放棄に、目の前では、両目を涙で濡らした黒髪の美少女が、私を不思議そうに見つめている。


「あっ、……え、ええっ!? もしかして、今の聞いて……?」


 急に動揺しだす彼女。

 聞かれて困るようなことなら、言わなければよかっただろうに。

 しかし、私にはそんなことはどうでもよく、


「……結構です」


「……えっえっ! ああのどういう?」


 要領を得ない彼女へ、私は言い直す。


「……あなたに私の代わりなど、お願いした記憶はございません」


 途端に彼女は、あ、と言う顔をして、


「……そ、そそですよね、勝手なこと言ってすみま」

「でも、少しだけ」


 彼女の言葉を遮って、私は言う。

 今度こそ、誤解させぬようになるべくはっきりと。


「……少しだけ、手伝ってほしいのですが?」


 もちろん、目線など合わせるはずもない。

 でも、視界の端で彼女、……義理の娘は呆然と驚いた顔をする。


 私は、未だ朦朧とする自分の身体を起こしながら、



「……話を、したくなりました。息子と。…………その、一瑠と」



「……っ、お、お義母さんっ」


 目を潤ませる息子の嫁に、私はすぐさま「勘違いしないでください」とくぎを刺し。


「……病気を患って、気弱になっているだけです。……あなたに言われた言葉など、微塵も関係ありません……」


「……はい、……っ、……わかってます」


 泣きそうな顔で、彼女が笑う。

 初めて真正面から見たその笑顔は、とても綺麗だと思った。

 もっと早く、そのことに気が付けばよかった。


「……では、私を、連れて行ってください。息子の、……一瑠のところへ……」


「い、今ですかっ? それではさすがに身体が……」

「いいのです」


 娘の心からの心配を、私は拒否する。


「……今まで、18年言えませんでした。勇気が出ませんでした。あなたの言う通り、私は筋金入りの頑固者です。……だから、気まぐれに気持ちが高ぶっている今言えなければ、もう二度と、言えない気がするのです」


「お義母さん……」

「……私を、手伝いなさい…………苺途いちずさん」

「……っ!」


 雷に打たれたように、苺途さんの動きが止まる。

 頬をはらはらと涙が伝い、それでも彼女は、


「……は、はいっ。……はい」


 泣きながら、私の願いを了承してくれた。



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