11の1話 『保護者と、

◇◇◇



 物心ついた時から、母は冷たい人だった。


「さぁ、おいで、……れいた、いちる」


 そんな親として当たり前の言葉をかけてくれたのは、母ではない。

 祖母だ。

 母はいつも仕事で、ほとんど家にいなかった。

 僕ら兄弟は、祖母の下で育ったのだ。

 最初はそのことに何も疑問を感じたことはなかったけど、小学校に通うようになった頃には、僕らはそれが普通のことじゃないことに気付き始めて。


「ねぇ、おばあちゃん」


 ある時、祖母に質問してみたことがある。


「どうしてお母さんは、参観日に来てくれないの?」


「……お父さんがいなくなっちゃったことと、何か関係あるの?」


 祖母は悲しそうに笑って、しばらく答えてくれなかった。

 それでもあきらずに答えをせがむ僕へ、

 祖母は一言、


「……いちる、あの子を、責めないでやっておくれ」


 その言葉の意味は、当時小学生の僕には難しすぎて。


 年を重ねれば重ねるほど、理解が難しくなっていった。




 中学2年の秋。

 加齢のため、祖母が他界した。


 僕と兄が、母とまともな対面をしたのは、ほとんどその時が初めてだった。

 

 間近で見る母は、涙ひとつなく、

 喪主として葬儀を毅然、整然と取り仕切り、親族というよりは、まるで葬儀の担当者みたいだった。

 告別式の終わった夜、密かに泣いていた僕へ、母は言った。



「……早く忘れなさい。学生のあなたは、来週の試験のことだけ考えていればいいのです」



 その時、僕ははっきりと感じてしまった。


 僕の母親に、温かい血など流れていないのだと。

 そこにいるのは、どんなことにも無感情で、ただ理論と効率だけを目に映した、機械みたいな母親もどき、なのだと。


 打ち砕かれる淡い幻想と、薄々感づいていた事を直視してこなかった自分への悔しさに、僕はもはや泣くことすらできなかった。


 その日から、越名一瑠こしないちるに、母親はいない。


 いるのはただ、何もかも仕事に捧げた結果、時間も金も地位もある、ただの保護者だけだ。




◇◇◇




「……顔を出すと連絡を入れていたはずですが? まさか、確認していなかったのですか?」


 母に指摘され、僕は慌てて自分のスマホを確認する。

 普段はほとんど使わないSMSに、一つだけ表示が上がっていた。


「……すみません、見ていませんでした」


 渦巻く感情をおさえ、なるべく平坦な声で言う。

 僕の返答を聞いた母は、メタルフレームのメガネを直し、


「重ね重ね立場をわきまえなさい。成人年齢の引き下げが間近に迫っているとはいえ、現段階では現行法のまま、あなたはまだ未成年です。保護者たる私の連絡は小まめに確認しておくのが、あなたの責任というものでしょう」

「…………」


 そう。これだ。

 全ては母の指摘の通り、母の言うことはいつも正しい。

 でもそこに、一切の感情が挟まれる余地はない。

 たとえ、母子でさえも。


「……SMS、あまり使わないもので。……それに母さんの連絡だって滅多に……」

「言い訳ですか? 見苦しいですね」


 切って捨てるように、母は言う。


「私の連絡する頻度と、あなたの愚鈍なメールチェックには、客観的には何の関係もないと思いますが。論点をずらして自己弁護をするのは結構ですが、結果的にあなたのためにならないのでお勧めしません。……何せ私は、あなたの結んだもろもろの契約を、一存で解除できる権利を有していますから。そんな相手に対して下手な言い訳をして、どうしようというのでしょうか。ますます心象が悪くなるだけだと思いますが」

「……お、おっしゃるとおり、ですね」


 語尾が震えそうになるのを、僕は必死に堪えた。

 この人に弱みなど、一つも見せたくはないのだ。


「……やれやれ呆れますね、本当に」


 母は頭を振って続け、


「そんなことしか言えないのですか? ……特に、幼稚な我がままに付き合って、わざわざ結婚の同意書にサインし、その他の契約の保証人になったこの私に? 考えられる限り、この地球上で誰よりも迷惑をかけ、借りがあるこの私に? 全く無礼な愚息にもほどがあるでしょう。……一人ではモバイル端末の契約すらおぼつかない、お子様のくせに」

「……」


 ……母の言う、一言一言が、異様に突き刺さる。

 どうして、この人は。

 いつも的確に真実を持って、僕を傷つけるんだろう。

 この人に傷つけられたくなくて、必死に勉強して学力をつけ、言い返す術を学んできたというのに。

 でも、そんなの全く意味はなかった。

 

 ……だって、僕は弱みを持ってしまった。


 絶対的に引け目にしかならないような、お願いをしてしまった。



 未成年にして結婚、というお願いを。



「……すべて、僕が悪かった、です……」


 僕は、母に頭を下げる。


 母は僕の弱点が分かっているから、当然そこをついてくる。

 結婚とそれに基づくもろもろを許可したこと。

 そのことがあるかぎり、僕は、


「……本当に、」


 これからも、母の放つ刃に耐えることしか……、


「……すみま……」



「――すみませんでした!!! お義母かあさんっ!!!」



 その場に響いた声に、僕は思わず言葉を止める。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る