10の2話 雨』
◇◇◇
「お先に失礼しまーす」
「おつかれー
同じチームの皆さんに見送られながら、僕はカードキーをかざしてオフィスを出る。
エレベーターに乗り込むと、むせ返るような湿気と雨の匂いが充満していて、思わず顔をしかめた。
多くの人とすれ違いながら、僕は会社のビルを出ようと足を動かす。
キュ、キュ、と濡れた路面特有の音が鳴り、以前雨は降り続いたままだ。弱まっている様子は少しもない。
「ですよね……」
落胆した僕は、自動ドアと外の境目に立ち、何気なく手を伸ばす。
雨。
ぽたり、ぽたりと僕に舞い落ちる滴。
途端に伸ばした僕の手は少しずつ雨粒によって浸食されていく。
……どうして、こんなものが空から。
明るいような暗いような曇天の空を見上げ、僕は思う。
それは、何の変哲もない当然のことで。
でも、じっくり見て、触れて、改めてちゃんと感じてみると、とても綺麗で、とても驚くべきものに感じる。
雨なのに。
ただの、雨のはずなのに。
とても唐突だけど、すごく、不思議な気持ちがする。
ただ重力に従って落ちてくるだけの水滴に、
僕は今、なぜか心動かされる。
ちゃんと向き合うだけで、こんなにも見え方が変わるものなのだろうか。
「……たまには、濡れてみようか。なんて」
自分の心境の変化に驚きつつ、僕は空から視線を下げる。
夕時のオフィス街は人であふれていて、
そこかしこで多くの傘が、それぞれの色をもって水滴を垂らしている。
そんな中、僕は見つけた。
見つけてしまった。
見慣れた放射線状の淡い青。
物持ちのいい彼女が、いつも鞄に忍ばせている折り畳み傘。
ビルの柱に寄り掛かるようにして、その傘を傾ける彼女が、
さっきの僕みたいにして、雨へと向けて手を伸ばしている。
「……
思わず、心が震えた。
声に出したことに、僕よりも彼女が先に気付いた。
制服姿の華奢な女の子が、雨に濡れた世界の中で。
ゆっくりと、僕を振り返る。
まるで絵画みたいだと思った。
儚げなその瞳は、足元の水たまりのように光を反射して。
さらりとしたその黒髪は、先端が少し濡れていて艶めかしい。
その少女が、僕を捉えてささやかに言う。
「……遅い」
そして、滑らかに微笑み、
「……待ちくたびれた、のじゃ」
「あ、の……なん、で? 会議は?」
呆気にとられた僕が尋ねる。
今は、ちょうど放課後活動真っ最中のはずだからだ。
「抜け出してきちゃった。一瑠くんが風邪ひいちゃうと思って……」
苺途は手に持った傘を僕に差しかけて、
「……一緒に帰りましょ? ……その、久しぶりに……」
◇◇◇
雨の街は、たくさんの音に満ちている。
電線から落ちる水滴の音。
排水溝に流れ込む泥水の音
車がしぶきを上げる音。
それでも今の僕には、それはとても些細なものに感じられて。
ただ、苺途の声と、自分の胸に脈打つ心臓の音だけが、僕の耳に響いている。
「……いつぶり、かな、……相合傘なんて」
「……」
傘の柄を挟んだ向こうで、彼女は少し考えてから、
「……だいたい、7カ月と3週間くらいかしら」
「……数えたの?」
「……違うわ。……覚えてたの。……とても、大事な思い出、だから」
「そう……」
どこか遠くを眺める横顔。
先ほどから、妙に僕は目が離せない。
「本当に、よかったの?」
「何が? もしかして、委員会のこと?」
僕が首肯すると、
「よくは、ないかもしれないわ。初回の会議を欠席することで、みんなには少なからず迷惑かけてると思う……でも、もういいの」
「来ちゃった、から。……他のこと、どうしても手が付かないくらい、一瑠くんのこと気になって仕方なかったから。……反対に、こんな状態で会議に出る意味なんてないって思うくらい、私が来たかったの。……一瑠くんと、こうやって話したかったの」
僕と苺途の視線が、少しだけ交わり、
「あ、突然こんなこと言われても、困るわよね? ……ごめん、一瑠く」
「僕も」
「僕も、話したかった。キミと。……あと、ちゃんと謝ろうと思ってた」
「謝る? 何を?」
「最近、僕は苺途を、怒らせてばかりだから」
「ぷっ」
突然笑いをこらえる苺途に、僕は面食らう。
「え、ここ笑うとこ?」
「……だって、……そんな今さら……。……私、ツンデレなんでしょ?」
「うん。紛れもなく。だけど」
「だけど?」
苺途の問いに、僕は続ける。
「たった少し離れただけでも、こんなにもわからなくなるものなんだって。僕は、キミのこと、わかったつもりでいたけど、なんというか、まるで別人みたいというか……」
「……よく、わからないわ」
再び、僕らの視線が交わる。
そして僕は、悟った。
もう、苺途から目を逸らすことができない。
……まるで今までとは別人みたいに、
僕は今、どうしようもないほど、苺途に惹かれている。
「あ」
不意に苺途の声が響き、顔を上げる。
隣でついさっきみたいに苺途が手を伸ばし、
「……雨、終わりだわ……」
折り畳み傘をたたもうと、その傘を傾ける。
その瞬間、胸の中の何かが僕を突き動かして、
「待って」
気が付くと、彼女に声をかけていた。
「そのまま……」
苺途の細い指を、そっと遮り、
傘ごと彼女を引き寄せる。
……後は、もう何も考えなくてよかった。
誰にも、邪魔されないようにと、
まるで、周囲の全てから彼女を守るように。
――その無防備な唇を、唇で塞ぐ。
雨あがりの夕暮れ。
濡れた街の風景と折り畳み傘が、僕らを優しく隠してくれる。
滅多にない世界の気遣いに、今だけは。
遠慮を忘れた子どものように、ただひたすらに甘えていたい。
◇◇◇
すっかり雨は上がり、僕らの家まで、もうすぐつく距離だ。
折り畳み傘は、すでにしまっていて。
代わりに空いた手を、結び合わせるようにして道を歩く。
「……」
「……」
互いに言葉は発しなかった。
それでも不思議と嫌な感じはなく、むしろ言葉が邪魔なくらいだった。
僕らはただ、繋いだ手の温もりに、
隣にいる愛しい生命体に存在に、
身体の奥底から、湧き上がる喜びに打ちひしがれている。
幸せとは、今みたいな瞬間のことなのかもしれない。
苺途は、どう思っているんだろう。
そっと盗み見ると、
「……っ」
目が合った。
……そして、多分、もう離せない。
僕らは狂おしいほどの胸の高鳴りに、自分を失いかけて……、
「――呼び出しに遅れておいて、いい度胸ですね。……立場をわきまえなさい、この愚息」
突き刺さるような冷たい声が耳に届く。
そっと視線を移すと、僕らのアパートの前には外車のセダンが仰々しく停まっていて。
車の前には、女もののビジネススーツを着こなした女性が、仁王立ちしている。
理知的でいて、無機質な眼鏡の奥のその瞳。
僕が、今、もっとも会いたくなかった存在。
「……母……さん……?」
その女性こそ、僕の婚姻届けの証人の一人、
僕、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます