8の4話  大人』

 ◇◇◇




「っ疲れ様でしたーッ!!」



 ホストクラブを退店後、急いで家へ向かう。

 時刻は11時半。

 少し長居をし過ぎてしまった。


 僕は走りながらスマホを確認し、


「あ」


 一応苺途いちずに入れといたライン……、返信来てた。



『わかった、気を付けてね!』


『……まだ?』


『おーい』


『……いちるくんのばか。早く帰ってきなさいよ!』


『大丈夫? 何かあった?』


『不在着信』


『不在着信』


『無事に帰ってきて、……おねがい』



苺途いちず……ごめん!!」


 ……これはもう、今すぐ帰って土下座だ。

 でなきゃ、自分を許せない。


 僕は走るギアを上げて、スマホをポケットに……、


 ブーッと、スマホが振動する。

 こんな時間にかけてくるのは、十中八九。


「……苺途ッいちず!? 本当にごめん!! もうすぐッ……」



 しかし、耳に聞こえてきた声は、


『いやー夜分遅くほんとーうに、ごめんね? ……社院しゃいんです』


「あ……すいませ、てっきり僕……って、社員さん、もしかしてまだ会社ですかッ!?」


 スピーカーから、僕の驚いた声が反響する。

 社員さんは疲れ切った様子で、


『えー、まぁ、そんなとこだよー』

「……」


『そんなことより、本当にごめんッ! 今日の案件のことなんだけど、明日ウチの営業から改めて連絡を入れることに決まったの。……で、引継ぎのために明日までに報告まとめなくちゃいけなくて、いくつか電話越しに質問してもいいかなッ?』


 ……僕のせいだ。

 僕の初期対応が不甲斐ないせいで、社員さんはこんな遅くまで……。


「あの」

『?』

「……なんでも聞いてください! 全部答えますから!」

『ありがとう。……じゃあ覚えている限りで先方の言葉、教えてもらってもいいかな? 表現とか、できるだけ具体的に……』

「わかりました。ええと、確かあの時……」


 いつの間にか、僕の走る足は止まっていた。




 ◇◇◇




「…………」


 自宅の扉の前。

 僕は立ち尽くすことしかできない。

 今日何度もあったように、誰かに呼び止められたわけでもない。

 僕は、気付いてしまったのだ。


 現在時刻、深夜0時半。

 今日じゃなくて、もう昨日だった。


「……記念日……終わってるし」


 いくら肩で息をしてたって、そんなの何の免罪符にもならない。

 ただ、どうしても変えられない事実。


 ――僕は、苺途いちずとの約束を、守れなかった。


 怒ってるだろうな。

 いや、それとも愛想つかされたか。

 何にしても、こんな時間だからもうお隣に戻って……、


 ガチャリと、扉を開ける。

 

「……ッ」


 広がる光景に、僕は何も言えなくなる。

 

 食卓には、お肉とか魚介とか、いつもは高くて並ばないような食材が並んでいて。

 綺麗に飾られたクロスも、部屋のオーナメントも、まるでウチじゃないみたいで。

 それらすべてに苺途いちずが「腕によりをかけた」跡があった。


 その奥、小さな二人がけソファの上。

 クッションを抱きかかえ、縮こまるようにして苺途いちずがいた。

 エプロン姿のまま、横になって静かに寝息を立てている。



 ……待っててくれるつもりだったんだ。



 胸の奥がきゅっと引き締まり、僕は自分のしでかしたことの重大さに打ちひしがれ、


「……いち……るく……?」


 不意に苺途いちずが目を覚ます。


「……よかった、かえってこれたんだ……?」


 そして寝ぼけ眼のまま。


 彼女が、穏やかに微笑む。



「……おかえり」



「……ッ」


 耐え切れなかった。

 僕は自分の内から湧き上がる強い衝動に身を任せ、


「あっ」


 彼女を抱きしめた僕は、

 そのまま、ソファへと倒れこむ。


「えっ! はっ、いちるく!? な、ちょ、ありょ!?」


 どうやら目が覚めたみたいだ。

 僕の耳元で苺途いちずの焦った声が聞こえる。

 そんな中、僕は。


「……なんで怒らないの?」


 胸いっぱいに詰まった苦しみを吐露する。


「約束破ったんだよ? 寂しい思いさせたんだよ? 怒ってよ、……怒るべきでしょ、苺途いちず


 この身にまとわりつく罪悪感から逃れたい一心で、僕は言う。

 でも、苺途いちずは、


「……怒らないよ? だって……」


「……一瑠いちるくんは、精一杯がんばった、……でしょ?」


「……」


 そっと僕の頭を優しく撫でて。


「……ありがと、一瑠いちるくん……私と結婚してくれて」



「――ッ」


 目頭が熱くなる。


 今日一日、必死に考え、試行錯誤してきたこと。

 いや、今日だけじゃない。

 今まで気力と知力と体力と、いろんなもの振り絞って、ひたすらに自分を鼓舞してきたこと。

 将来への不安。

 周囲からの視線。

 わかっていたつもりだったけど、実際に背負うのは簡単じゃなくて。

 彼女が望んだことだから、と。

 自分が選んだことだから、と。

 でも、それだけでがんばり続けられるほど強くもなくて。

 

 それを悟られないように。

 世帯主としての責任に押し負けないように。

 

 ただひたすらに、がむしゃらにこの一カ月、走ってきた。


 そんな努力の全てが、不甲斐ない失敗の全てが、彼女の一言で報われた気がして。


「……ッ、……くッ」


 歯を食いしばり、眉間に力を入れて激情を必死に堪える僕。


「……がんばり屋さんね。でも、今はいいんだから」


 苺途いちずの優しい口調に、僕は必死に抗って、



「……ね、泣いて?」



 耐え切れない。


 強がりの間を縫うように、涙が一筋流れ出る。


「……ッ、…………ッ」


 

 どうしてこんなにも、自分は無力で。

 キミを楽にさせることができるわけでもなく。

 僕が与えられるものなんて、些細なものしかないのに。


「……お疲れさま。……いつも、いつも」


 でもこんなにも弱い僕を、キミはしっかりと抱きしめてくれる。

 僕が砕け散って、バラバラにならないように、繋ぎとめてくれる。


 だから僕は、立ち上がって、また明日も僕をがんばれる。



 ……また明日も、キミの夫でいたいと思うんだ。




 涙が乾いた後も、苺途いちずはしばらく僕の髪を愛おしむように撫でていて。


「……あのッ、……そろそろ」

「……だめ。……一瑠いちるくんは、もっと私に甘えていいんだから」


「いや、さすがにもう、……ていうかさっきから苺途いちず、何気に僕のこと子ども扱いしてません……ッ?」


 それを制そうとする僕の手を、


「……してないわ。……ただ、一瑠いちるくんが大人ぶってるの」


 微笑んだ苺途いちずの、柔らかな手が包み込んだ。



◇◇◇




「……はい、これ」

「あ、すごい! ちゃんと出来たんだ、シュークリーム」

「今回はカスタードクリームだけじゃないんだから。……ただ、あまり硬さは保証できないけど……」

「……大丈夫。苺途いちずが作ってくれただけで、嬉しいから」


 僕が笑って言うと、苺途いちずはなぜか顔を赤くして、


「そ、そういうこと言わないっ! 今は、私のターンなんだからっ」

「え? どゆこと?」

「もういいからっ! 今はただ、一瑠いちるくんが悶えてればいいのっ!」

「……いやぁ、そういうこと言われると、余計にターンエンドさせたくなりますねー」

「だ、ダメよっ」


 苺途いちずはそっぽを向き、耳まで赤くして、


「……いきなり押し倒してくる、とか反則なんだから。……そんな危ない人にターンは譲れませんっ」


「なッ! ……あ、あれはそのッ!」

「何よっ、なにか反論があるのかしらっ」

「あれは無意識に……ッ」

「む、無意識っ!? じゃあ一瑠いちるくんの脳内ではああいうことが日常茶飯事にっ!?」

「そうじゃなくて、身体が勝手に動いたというか!」

「余計悪いじゃないっ! 一瑠いちるくんのえっち!! 」


 彼女は上気した頬をパタパタとやりつつ、


「……だから、今は黙って、私の好意に甘えなさいよっ」


「いや、面と向かってそんなこと言われても……むぐッ!?」


「……美味しい?」


「……すっごく美味しいです」



 真夜中に食べる、苺途いちずのお手製シュークリーム。

 

 その味は、とてもとても、甘かった。













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