5の2話  壁ドン』



◇◇◇




「……ハァ、ハァ、よ、ようやく……我妻苺途あずまいちずの、壁ドンが……ッ!」


 危険な眼をした男子生徒が、私を壁際に追い詰めて笑っている。


「ちょっとっ! こっち来ないでよっ!」

「ああ、いいねぇ! こんなに威勢のいい君が、俺っちの壁ドンでどんな顔をするのか、考えただけでもゾクゾクしてきたよおーッ」

「は、発想が気持ち悪いのよっ! いいから来ないでッ! ……っ!」


 ふいに背中に固い感触を感じ、私は絶望する。


「か、壁がっ!?」

「……もう、逃げ場はないよ? わかったら大人しく壁ドンを……」

「……うるさいっ! させるわけないでしょっ! ……そんなのまだ、一瑠いちるくんにだって、してもらったことないんだからっ!」


 私が口調を強めるも、相手はまったくひるむ様子もなく、


「くう! なんていい顔なんだ、ああもう、我慢できないッ! こうなったら、無理やりにでも、いくよおお!」

「い、いやぁ!!」


 変態男子は、心から愉快そうに満面の笑みで、



「か、べ、ドオオオオオ……ッ!!」



 片手を大きく後ろに振りかぶり、


「いやっ、一瑠いちるくんーっ!!!!!」


 耐えかねた私は目を瞑り、ほとんど反射的に彼の名前を呼ぶ。


 ……もちろん、多忙な彼が、こんなところに来てくれるはずな……、



「――ッ!?」


 ……。


 ……あれ?


 ドンが、こない?


 私が恐る恐る目を開けると、そこには。


「……っ! ……いちる、くん?」


 心の中にあった顔と、目に映った顔が一致して。

 自分の胸が高鳴るのが、はっきりとわかる。


「なッ!! なんだ君はッ!」

「触るな」

「え?」


「――僕の苺途いちずに、触るな」


 見たこともないような怒った顔で、一瑠いちるくんが低く言う。

 温厚な彼がここまでの表情をするなんて、知らなかった。

 不謹慎ふきんしんだけど、私はほんの少しだけ、得した気分になる。


「あ、わわ、ええとッ! ……さ、触ってないですッ、俺っちはただ、壁ドンをしたかっただけでッ! ほら、指一本も触れて……」

「壁ドン?」


 焦ったようにまくし立てる変態男子に、一瑠いちるくんはまるで野球のピッチャーのごとく、ひときわ大きく振りかぶって、


 ――ドォンッ!!


「ひッ!?」


 無言で特大の壁ドンを、お見舞いする。


「これで、いい?」

「……ひゃ、ひゃいー」


 ガクガクとその身体を震わせて、変態男子が涙目になり、


「は、は、は、し、失礼しましたあああー!」


 全力疾走で走り去っていく。

 ……かなり変わった人だったなぁ。


 私が視線で見送っていると、その延長線上にいる一瑠いちるくんと目が合い、


「……や、やぁ。……あはは」

「……なんで、一瑠いちるくんが、ここにいるの?」

「あっ! いや、これはその……、苺途いちずが大変だって聞いて、兄貴にだまされて飛んできたというか、その……」

「……お仕事は?」

「――ハッ、いつの間にか昼休み終わってるしッ!?!? うおッ!? 社員さんからめっちゃ着信来てるッ!! すいませんすいませんッ!!!!」


 慌てて一心不乱に、スマホでメッセージを入力する一瑠いちるくん。

 そんな彼の姿を見た私は、たまらなくなり。


 とんっ。


「えッ? ……ちょ、あの……苺途いちずサン?」


 彼の腰に手をまわし、背中に顔を埋める。


「……えと、その……打ちにくいんですけど……」

「……」

 

 返事の代わりに、私はぎゅっと力を込める。


「……ッ! ちょ、ちょっとッ? ……その、いろいろまずいから離れ……」

「イヤ」

「……」

「……」

「えと、……こんなとこ、誰かに見られたら……」

「……いい」

「え?」


「……見られても、いい」



 ……来てくれた。


 一番いて欲しい時に、一番いて欲しい人が、大事なこと、何もかも放り出して。

 そのことが、秘密の結婚生活でのツラいこと、全部、無にしてくれる。

 私はきっと、魔法にかかっているのだ。

 ……そして今だけは、その魔法に浸っていたい。



「……あの、そろそろ、ホントに行かないとッ」


 頭上から聞こえる彼の困った声に、私は、


「……じゃあ、壁ドンしてくれたらいいよ?」


「なんで!?」

「だって今まで、一度もしてもらったことないじゃないっ。……それに」

「……アイツだけ一瑠いちるくんの壁ドン、ずるいわ」

「そこで張り合っちゃうのッ!?」

「……いいから、……はやく」


 私は一瑠いちるくんの背中から離れ、正面に回りこんで彼を見上げる。

 視線いっぱいに、期待を込めて見つめる私。


「……わかったよ、もう……」


 一瑠いちるくんはとても困った顔をして、それから赤い顔で視線を逸らし、


 ぺしっ。

 

 優しく優しく、壁をソフトタッチ。

 そして視線を逸らしたまま、


「……こ、これで、いい?」



 ……か、かわいい。


 胸がきゅーっとなる。

 さっきとのあまりのギャップに、私は思わずもだえそうになり、


「……う、うん。……ないす、かべどん」

「……さ、さんくす、かべどん」

「……」

「……」


 そのまましばらく、もじもじと視線を合わさない私達。



「……何だ、コレ……」



 呆れた様子の越名こしな先生の平坦な声が、屋上に響いた。













◇◇◇






「――あ、もしもし、……え? 報告が遅い、って開口一番にそれかよ。あのな……俺だって一応は、残業代ゼロ、ブラックの旗頭はたがしらたる教員なんだぞ? 公僕こうぼくの俺と自分の裁量でいろいろ決められるアンタでは……、いやいい。時間が惜しいから本題だけ伝えるわ……」


「……やっぱり我妻あずまさんのこと助けたよ、アイツ。……アンタの読みはまたハズレたわけだけど、……で、今度はどうする? ……そう、わかった。準備しておくよ。……オーケー、……っと、すまん、またあとで連絡するわ」



「……じゃあ、また、………………母さん」


 











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