1の3話  夫婦の朝』


「――僕はキミが抱きたいッ!! 越名苺途こしないちずが抱きたい!! 僕は僕の大好きな、僕の嫁のことが抱きたくてしょうがないんだぁッ!!!!!!」



 朝日が差し込む、清々しい早朝。

 地味な賃貸アパートの踊り場で、欲望に飢えた若き野獣の声がこだまする。


「……」

「……」


「あ」


 そこでようやく、僕はその場にいるのが僕らだけではないことを思い出し、


 見回すと、おばさんやサラリーマンの生暖かい視線が僕に突き刺さる。

 途端に僕の羞恥心しゅうちしんが再起動を……、


「ばかばかばかっ!! なに朝っぱらから堂々と絶倫ぜつりん宣言してるのよっ!! バカなのっ!? そんな性欲だらけの脳でよく国立大なんて合格できたわね!?」


 ……するより前に、苺途いちずに胸ぐらをつかまれてブンブンされる。

 わなわなと全身を震わせて、もはや一周まわって赤くないと言えるくらい、顔のみならず全身を真っ赤に染めた僕の嫁が、全力で僕の脳をシェイクしてくる。


「あ……の……やめ……」

「うるさいうるさいうるさいわっ!! 人前でよくもあんな破廉恥はれんちなことをぬけぬけとっ!! おかげでもう、ご近所さんたちと素直に笑って挨拶できない間柄になっちゃったじゃないっ!!」

「そ……それ……は、……そ……だけど……ッ」


 未だ勢いの衰えない揺さぶりに、僕の三半規管さんはんきかんが悲鳴を上げているが、なんとか声を振り絞り、


「ごめん……でも……、……僕、それくら……苺途いちずのこ……、……大好きなん……だ。……好き……からこそ、……守りた……けど……、好き……からこそ、……むずかしい……そ……んな……男ご……ころも……ッ、 ……わかってくれると……嬉しいです……ッ!」


 言い切ると同時に、僕は前後運動から解放される。

 未だ揺れる視界とその気分の悪さへ、必死に嘔吐おうとをこらえるが。

 当の苺途いちずはというと、そんな僕の様子に気付くか気付いていないのか、


「ふ、ふーん」と何やら視線を逸らし。


「ま、まぁ? 一瑠いちるくんがそこまで言うんなら? ……その私への、……ほとばしる欲望の抑制のために? ……その、しばらく隣の部屋で別居生活をするのも、悪くないのかもしれないわねっ……」


 なぜかたどたどしく言う彼女の言葉に僕は、


「――ぜひともよろしくお願いいたしますッ!!」


 それはお礼ではなく謝罪のお辞儀です、と指摘されても仕方ないくらい頭を下げ、その提案を快諾する。


「じゃあ、その、……おばあちゃんには私から連絡しておくから」


 そう言いつつ苺途いちずは、手に持ったままだった僕のスマホを発見し、


「……もしもし?」


 さっそく通話を始める次第しだい


 そんな彼女へ、ツッコミ入れてやりたい欲求をどうにかこらえた僕は、

 ここ数日悩まされてきた、僕たちの貞操問題解決ていそうもんだいかいけつの糸口が見つかって心底よかった、と。

 胸を撫でおろし、ほっと息をつく。


 ……まぁ、まさかここまで自分の恥ずかしい葛藤かっとうを、公表することになるとは思わなかったけど。


「……でもこれでちょっとは色々マシに……」

「はい、これ」

 と、不意にスマホが手渡される。


「どうだった?」

「大丈夫だったわ。でもさすがは私のおばあちゃん、伊達だてにこれまで滞納者と長年争ってきただけあるわね。日割ひわりで出世払いだって」

「……う、そ、そうですよね。きっちりしてるなぁ……」

「あと一応、他の入居者の目星めぼしが付くまでの、条件付きって言ってたんだけど。念のため、後で一筆書いてもらうよ、だって。……えと、印鑑用意しとかなきゃ、よね?」

「ごめん、ありがとう。用意しとくよ。……じゃあ、そろそろ僕は、戻って朝の支度を……」


 そう言って僕は部屋に戻ろうとする……が。


 僕に連れ立って同じ扉に手をかける、僕の悶々もんもんとした苦悩の元凶たる愛しの美少女。

 その違和感に、僕は愕然がくぜんとし、


「? どうしたの? 早くうちに入りましょ?」

「いや、ちょっと待って。……えと、荷物とかかな?」

「荷物? ……別に違うけど?」

「……じゃあ、何?」


 僕の問いに、苺途いちずはきょとんとした顔をして、


「? 何って、朝ごはん作らなきゃでしょっ? 私、今日はフレンチトースト作ろうって決めてたのっ。……あ、でも、一瑠いちるくんの好きなメープルシロップは今切らしちゃってるから、黒糖シロップでガマンしてね。……それから……」

「ストップストップーッ!! あの、別居はっ!?」


 こらえきれずにそう持ちかけると、


「えっ! ……まさか、――一緒に朝ごはんもダメなのっ!?」

「キミは一体、何を言っているの……?」

「……そんなっ! そんなのあんまりだわ! 私の朝のささやかな楽しみだったのにっ! そこまでする必要あるかしらっ!?」

「だって、一応、別居生活ですし……」

「……そ、それは、そう……だけど……」


 苺途いちずは少し言いよどみ、


「……あ、じゃあじゃあ、おはようとっ、いってらっしゃいのチューはっ!? えっ、これもダメっ!? ……新婚なのに!?」

「……」


 ……この人、本当に別居の理由、わかってんのかな。……いや、わかってないな、絶対。


 うるうると、再び、いや、三たび瞳に水分たっぷりとたたえ、男心が理解できない僕の嫁が、心底悲しそうな顔を見せている。


 ……まぁ、でも。


 僕は、はぁ、と軽いため息をつき。


「……今日だけだよ?」

「……ほんとっ!?」


 まるで拾われた子犬みたいな表情で、制服姿の年下妻とししたづまが笑顔を咲かせる。

 やれやれ。

 ……ホント、キミの『ツン』は最近一体どこに行ったのやら。


「……そういえば、まだ今日は、おはようのチュー、してなかったかしら」

「そう? あ、でも、チューならついさっき……」

「すればいいってものじゃないのっ!! 込める気持ちが大事なのっ!」


 苺途いちずの綺麗な長髪が、静かに揺れて。

 僕らはそっと、唇を重ねる。

 鼻孔をくすぐる微かなシャンプーの香りが、近づいて、離れ。



「……おはよう、……いちるくん」



 そう言った苺途いちずは僕をじっと見つめ、そして、少しはにかんで顔を背けた。


 超近距離な、僕と苺途いちずの、別居生活の始まりの朝。

 そんなことはつゆ知らず、世界の朝はいつもと変わらずに動き出していて。


 でも、それでも僕は、

 やっぱり僕の嫁は、世界一可愛い、と。


 今だけはバイトも、講義も、義父との約束も忘れ、


 ……ただひたすらに、心の底からそう思った。






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