第5章
私の部屋に、両親が飛び込んできた。
「ありす!」
両親は床にうずくまる私を見て、駆け寄ってきた。顔を上げた私は、視界の隅に「手紙」を見つける。
「見ないで!」
とっさに私は声を上げていた。ただならぬ私の様子に、母が父を部屋から押し出す。
母は私にゆっくりと近づいてきて、私の側にしゃがんだ。
「ありす、今あなたに必要なものは何かしら」
「温かいミルクと、時間と、あと……」
私はこの言葉を言うべきかどうか、悩んでしまった。両親に申し訳なく思ったから。でも、こんな時でも、親には秘密にしておきたいことがあるのだ。私はわるい子だ。
「電話を、持ってきてほしいの」
母がミルクと電話を持ってきてくれるまでの間、私はベッドに座ってまず記憶の整理をしていた。入学してすぐに、
今では、なぜ申し訳なく思ったのかが分かる。きっと、私はあの時自分の状況を理解して、それを目撃した類の心に傷がつくのを恐れたのだ。
『あんたなんかが、
その一言が、呪いのように頭の中を駆け巡っている。
コンコンと、ドアをノックする音が聞こえた。
「ありす、入ってもいい?」
母の声だ。私はベッドから降りて、ドアを開けた。
「ありがとう」
母からホットミルクを受け取り、口をつける。ほんのりと蜂蜜の味がした。
一息ついて、私は母に話し始めた。
ずっと思い出せないままだった、図書部の記憶を思い出したこと。類、レイといった仲間と楽しく過ごしていたこと。先輩達にも可愛がられ、幸せだったこと。休日に、三人で遊びに行ったこと。そして、事件のこと。
「お母さん、ごめんなさい。私、とても迷惑をかけてしまったわ。あの事件の顛末を、私は知らないけど、多分、お父さんもお母さんもすっごく大変だったと思うの。後でお父さんにも謝らないと」
「いいのよ、ありす」
母は優しく私を抱きしめてくれた。私の目から、涙が一筋こぼれ落ちる。
「でも、口論になったのは良くなかったかもしれないわね。ありすに非がある、というわけではないけれど」
「大丈夫よ、お母さん。私も成長したもの。もし今度同じようなことがあっても、相手を冷静にさせてみせるわ」
それは私の強がりで、実際そうなったら私はそんなことできないだろうと思うけれど、母はにっこり笑ってくれた。
そこで私ははっとした。母はもしかして、口論の内容を知っているのではないか。
「お母さん、もしかして、口論の内容……」
言いかけた私の口を、母は人差し指で制した。
「言わなくていいわよ。女の子は秘密でできているでしょう?」
母は、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「ありがとう、お母さん」
「どういたしまして」
母は電話の子機を渡してくれた。多分母には、これから私が電話をかける相手も、その内容も、全てお見通しなんだと思う。その上で、親には話したくない事があるのを分かった上で、それを許してくれたのだと思うと、私は母に感謝してもしきれなかった。
母が階段を降りていく音を聞いてから、私は手帳を開いた。両親の方針で、私は高校生になるまで携帯をもたないことになっている。だから、友人の連絡先は全て、手帳に書き留めているのだ。
「
『もしもし』
「もしもし、レイ?」
『そうだよ。どうかしたのかい』
「レイ、あのね、私、全部思い出したの」
電話の向こうで、レイが息をのむ音が聞こえた。
私はレイに、思い出した内容と、事件の一連のことについて話した。そして、かけられた呪いのような言葉のことも。
「私、類に謝らなきゃいけないわ。類に怖い思いをさせてしまったこと。きっと私と再会してから、類はずっと苦しんできたと思うの」
『類が必要としているのは、謝罪の言葉じゃないと思うよ』
レイは淡々と告げる。
『類に必要なのは、君の気持ちじゃないのかな』
私はしばらく黙ってしまった。
『あんたなんかが、早島君のこと、好きじゃなかったら良かったのに』
わんわんと、頭の中で鳴り響く声。呪いはじわじわと私を蝕んでいく。
「私、類を好きでいていいのかしら。いいえ、だめなんだと思うわ。好きだなんて、思ってはいけないのよ。もしかしたら私、類のこと、本当に好きではないのかもしれない……」
『そんなことない!』
叩きつけるようなレイの声が聞こえた。
『そんなことはないよ、ありす。人が誰かを好きになるのは自由だ。それを否定する権利など、ボク達の誰一人として持ち合わせちゃいないんだ。ありす、君の中に、今も類を好きだと思う気持ちがあるなら、そのままでいいんだ。ねえありす、君は類のことを忘れたって、また好きになったんだろう。それくらい、君は類が好きなんだろう。ありす、君は自由なんだよ』
まくしたてるようなレイの言葉。レイ自身にも、歯止めが利かないようだった。でもその勢いが、私に悩ませる余裕を与えなかったのかもしれない。自由だと、好きになることを肯定されたことで、私の世界に光が見えた。
「私、類を好きでいていいのかしら」
『それは、誰かに許可を求めるようなものじゃないと思うけどね』
「それもそうね……。ええ、私好きよ、類のこと。そう簡単に、消せるような想いじゃないわ」
実際に口に出したことで、私の中に少しずつ、自信が戻ってきた。
『そうだね、その心意気だよ』
「ねえレイ。私があなたに電話したこと、類には黙っておいてもらえるかしら?私、自分で類に記憶が戻ったことを伝えたいの」
『いいよ』
「ありがとう」
目の前にレイがいるわけではないけれど、私は深々と頭を下げた。いい友人を持ってよかったと、心の底からありがたく思う。
そして、それと同時に、記憶が戻ってから私の中で少し引っかかっていたことが浮上してきた。
「ねえゼロ、あなた、どうして口調も一人称も変わってしまっているの」
『レイだよ』
間髪おかず、言葉が返ってきた。
『ありす、それはボクが話せるようになった時に、必ず話すと約束するよ。ボク自身、こんな自分をどうしたらいいのか分からなくなっているんだ』
「そう、分かったわ」
私はそれ以上追及しなかった。レイが「必ず」と言った以上は、レイを信じて待つのみだ。
「じゃあ、また明日ね。レイ」
『うん、また明日』
通話を切る。私はベッドから降りて、子機を返しに一階へと降りた。
次の日、私は大事を取って午前中は休み、午後から学校に行った。
ようやく放課後になって、私はレイと共に真っ先に図書館へと向かった。
荷物を置いてすぐ、レイはカウンターに積み上げられた本を取って、本棚に返しに行く。私はカウンターに入り、部室のドアの前に立った。
ガチャ、とドアノブを回す。
「こんにちは」
「こん……え?あ、ありす?」
「こんにちは、類」
部室内には類しかいなかった。慌てた類がカップを持つ手を揺らしてしまい、コーヒーが飛び出して机の上に広がった。類はすぐにそれを拭き取る。
「ありす、今日休みじゃなかったの?」
「午前は大事を取って休んでいたの。昼休みが終わる前に来て、午後の授業は全部出たわよ」
「大事を取って……って、まさか」
「そのまさかよ。私、あなたのことを思い出したの。もちろん、あなただけじゃないわ。レイや、他の部員のことも。私がこの部活に入って、わずかな間だけど活動していたことも。それに……あの事件のことも」
私はそこで言葉を切った。部屋を沈黙が満たす。
類は落ち着いているようだった。よかった、と私は思う。話がしやすくなるから。
「類、私と大事な話をしましょう」
「そうだね。場所を変えよう。どこがいい?」
「庭園はどうかしら。あそこならあまり人は来ないと思うの」
「じゃあ、そこにしよう」
類はまるで戦いに赴くかのような顔をしていた。私はそんな類の様子を、少しおかしく思ってしまう。そこまで思い詰めなくてもいいのに。
扉を開けて、私と類は図書館の外に出た。
バタン、と重い音を立てて、背中で扉が閉まった。
庭園のベンチに、私達は並んで座った。
私はまず、記憶が戻った経緯について、少しぼかしながら説明した。「手紙」のことは、まだ伝えたくなかったから。私から一通りの話を聞いて、類は背筋を伸ばして私に向かい合った。
「ありす、僕は君に謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
「何かしら」
「僕はあの時、動けなかったんだ。君が落ちていくのを、ただ見ていることしかできなかった。それだけじゃないんだよ、僕は、君から……気を失った君を見て、君から逃げ出してしまったんだ」
ごめんなさい、と類は深々と頭を下げた。
ああ、やはり私は類に怖い思いをさせてしまったのだ。私の方こそ謝らなければ……そう思った時、私ははたと気付いた。
類は、赦されたいのではないか。
類は、必要のない罪悪感を抱え、約一年半を生きてきたのだ。罪を抱えることで、苦しいのに、それがあることでここまでやってこれたのだ。それがどういう理屈なのかは分からないけれど、真面目な類は、罪を抱えずにはいられなかったのだろう。
もういいのよ、類。あなたはもう、そんなものを抱えて生きていかなくていい。
「いいわよ」
その一言で、類には十分だったらしい。顔を上げた類から、ゆっくりとおもりのようなものが外れていくように感じられた。救われたような笑みを、類は浮かべる。
さあ、今度は私の番だ。
「あのね、類」
類と目を合わせる。心臓がどくどくと音を立てはじめる。そういえば、今の類は記憶の中より背が伸びて、顔は相変わらず童顔だけど、でもちょっと、大人に見える。
恥ずかしい気持ちを抑え込んで、私は言葉を紡いだ。
「私、昔も今も、あなたのことが好きよ」
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