第3話『超常の集結地』-その4

 なぜ、ライプツィヒは彼をこの街に招待したのか。

 その答えは出会いによってより明確に判明するものかと思われたが、しかし結局、分からず仕舞いであった。出会ってからまだ間もないにしても、ツルギという武人にそれだけの価値があるとはどうしても思えなかった。失礼な物言いであることは百も承知、しかしそれは何も自分だけの考えではない。

 しかもライプツィヒには公務があり、外部との交易業務がある。老公たちのような立て付けでしかない暇人ではなく、今のこの状況は彼にとってはただの損害でしかない。それは彼自身も無論分かっているはず。ならばやはり、フリードリヒと取り交わした交渉の根こそが本懐となるのだろう。

 では、それは一体何か。

 昨日から考えを巡らせたが明確な答えもまたない。

 そもそも自分には知る必要がないのかもしれない。だからこそ、彼はそのことについて何も語らなかった。ただ彼の身を守って欲しいとしか言わなかった。そのことに対して少しの劣情も抱いた。自分には、到底分からない。超常人類などと持て囃され地位を確約されてはいるが、結局自分などただの一つの人間でしかないのだ。

 ツルギが街を訪れてから一週間後、クーリフは捕らえられたライプツィヒの元へと向かった。老公たちが有するとある建物の一室。その用件はあくまで職務に関する事を目的とした面談であるが、しかしそれとは別に、彼のその心を聞きたいと思った。彼がそれに素直に応じるかは分からないが、とはいえそれが本来の目的ではないので無駄足になることはない。

 クーリフはライプツィヒが捕らえられている妙な造形をした三階建の建物を訪れると、意外にも話はスムーズにいき、彼が保護されている部屋まで通された。自動ロックの施錠を外し、入室を促すにこやかな態度の衛兵を尻目にクーリフは部屋へと入ると、その中は生活に必要な物以上の設備が整えらていた。そこはもはや牢屋とは到底言い難く、どううがって見てみてもそこは高級ホテルの一室。もう少し質素でも良いだろうなどと思いながらも奥へと進むと、あろうことかライプツィヒは広く大きなダブルベッドで寝転びながらテレビを眺めていた。

「おや?」

「……随分とくつろいでいられますね。本日はお休みですか」

 クーリフを見上げたライプツィヒは予期せぬ来客にニコリと笑った。

「捕らえられる、という経験はなかったがいい機会だから満喫しようと思ってね。意外と悪くないもんだね」

「はあ……」

 その皮肉を軽く流した様子を見て、もっとストレートに言うべきだったと後悔。しかしそれを追求するのももはや今更で、気にせず話を進めることにした。

「交易の予算管理と、その承認のため参りました。お手数ではございますが、ご確認いただけますでしょうか」

「ありがとう。見るよ」

 数十枚の書類を手渡し、そばにあった椅子を引き寄せてクーリフは座る。

 ベッドもこの椅子も、ここにあるものの全てが安物ではない。彼が思っていたよりも不便極まりない窮地に立たされていないことに多少の安堵はある。しかし、ここまで来ると肩透かしを食らったようなもので、あの時必死に彼を逃がそうとしたのさえもがなんだか馬鹿らしく感じた。

 恐らく、ライプツィヒ公はそれを分かっていたのだろう。罪人とはいえ、ルーラー。他の罪人たちと並べて収容されることはありえないと。そしてこの収容ホテルの存在のことも、その中身も、彼の待遇さえも。だからこそ、彼はそれをすんなりと受け入れたのだ。

 元々食えない男であるのだが、今回の件でより一層それを感じさせられた。

「ツルギ君はどうだい」

 クーリフが切り出すよりも早く、ライプツィヒは書類に目を通しながらその話題を取り上げた。

「必要な手続きは完了いたしました。こちらは順調です」

「聞かずともそれは分かっているよ。そうではなく、彼は成れそうか」

「それはまだ分かりません。まだ三日しか経っていませんから」

 少し遠慮がちにそう言うとライプツィヒは視線をクーリフへと向けた。

「君の目から見てもまだ判断はつかないかな」

 疑念を向ける目。それはすでにクーリフの心情を見透かしている証明である。

 こうなればもはや言い逃れは出来ない。彼は無理にでも引き出すような真似はしないであろうが、しかしながら自分にとっても避け続ける理由もない。

「……いえ、失礼しました。正直なところを言わせていただくならば、彼は成れないと感じました」

「もっと詳しく所感を聞かせてほしい」

 正直にそう話すと間髪入れずにライプツィヒは聞き返す。それに対してどう言うべきなのか、少しの思案を挟んでクーリフは口を開けた。

「まず、精神面。こちらは回復の兆しはあります。少しずつではありますが、元来のものを取り戻せるでしょう。しかし身体面は別です。更なる成長の様子は未だ見込まれません」

「時間をかけても難しい?」

「いえ時間をかければ、多少成長はするでしょう。しかしそれは他も同じです。彼自身は一人の平凡な武人に過ぎず、故にこの地で受け持つ理由は見つかりません。それはサーリシャも同意見のようです」

「……なるほどね」

 そう言われて何を思ったのか、彼は顎に手を置いて微笑んだ。

 その表情の意味は分からないが、少なくとも悲観的ではないとは感じた。面白げとでも称すれば良いのだろうか。しかしともすれば、彼の思考は余計に読めなくなった。

「正直に言えば、私も彼については半信半疑でね。ミコノ・ジングウやフリードリヒ公、果てにはテンカク様までもが彼を特別視する理由は何か」

「……」

 クーリフはその言葉に押し黙った。

 ツルギ・クレミヤ。

 かつて刀姫計画の前線で名を挙げたクレミヤ家の長男。そして超常人類にして前代未聞の刀姫三体と契約を成したマコト・クレミヤの兄。第2部サーテイン中等学校卒業後、サクラヤマ戦術学校の戦部科に入学。その卒業後は対マコト特務機関OMOに所属。OMOの事実上の瓦解後にはフリードリヒ公が所有する傭兵組織の一つブレイブス・ドッグへ。その先で刀姫ブローディアとの出会いから契約関係を結び独立。禍を専門とする武業を提供する自由業へと転身。現在に至る。

 書類上の経歴や素性に関しては全て把握している。彼自身は別段特別ではない。しかしながら妹は特別で、無二の存在。だからこそ、色眼鏡で見てしまっているという背景はあるのだろうがそれを差し引いてもオンリーワンには程遠い。

 だが。

「しかし少なくとも彼はすでに、力を示した」

 そうだ。

 クーリフの思考はライプツィヒの言葉に追従した。

 フライタッグでの禍人製造・交配事件、通称『蠱毒計画』。そしてレリジョンでの人造忌肉実験を発端とする空間変異事件。彼はこの超難関といわれる事件を見事解決せしめた。後者はミコノ・ジングウの力あっての成果だが、しかし彼による影響も大きい。その上、前者は刀姫ブローディアと二人でのみ解決したのだという。世界最強かつ最大の力を持つ個人災厄の禍人マコト・クレミヤが活動するその場をだ。

 クーリフには考えもつかない。

 その報告を聞き、それを鵜呑みにすることは到底出来なかったのに、ツルギ・クレミヤという武人を目にして更にその思いはシワを深めた。ブローディアという強力な刀姫の力が今は発揮出来ない事実を差し引いても、それだけの力量が彼にあるとは思えない。

「見てみたくはないか、クーリフ」

「……?」

 語りかけたライプツィヒの目は輝いていた。

「彼の力を、その一端でも」

「あるならば、見たいです」

 彼の言わんとしていること気づき、「そんな理由か」とクーリフは思ってしまった。それだけの力があるならば、すぐにでも発揮してほしいところだと不満混じりの皮肉も胸の内に。

「いやもちろん、それだけではないは無いけどね」

 クーリフの心中を察したのか、ライプツィヒはすぐに付け加えるように言う。

「なるほど。して、それは?」

 先ほどまでの会話は雑談の範疇と捉えて、その本題となる話へと切り込む。すると、ライプツィヒはふと笑った。

「……この街と領域にある不穏分子を顕在化させるためさ」

「盗聴の対策は済んでいるのでしょうね」

「問題ない。最初からないからね」

 今更無駄とは知っていても、思わず声を潜めるクーリフだったが、ライプツィヒはその可能性を跳ね除けた。

 彼は愚鈍ではない。故にそこに対して追求するのも失礼だったので、信じて話を進めることにした。

「……そうですか、ならば良いですが。それで、この街の不穏分子とは一体」

「うん。君も無論知っているとは思うがこの領域ではある活動が活発化しているだろう」

「ええ。富の再分配を望む市民団体ですよね」

 クーリフは整頓された脳内から一つの情報を引き出して答えた。

 彼らの弁によれば、円熟のしつつあるこの世界で一度、富の再配分が必要だという。その論調は不当に奪い、奪われ続けてきたこの世界は不平等そのもので、だからこそ世界の資本は一度均一化されるべきであるというもの。言っていることはまさしく荒唐無稽かつ酷く乱暴な論旨で、全くもって聞くに耐えない粗末な主張である。故にそれに追従する者は少なくあり、本来ならばそれに対処することなど不要。

 しかしその声は今増加傾向にある。

「今、その団体を手招く存在がある」

「……白盟の七使徒ですか」

 その理由が彼らの存在にある。

 白盟の七使徒。

 七名の者たちを筆頭としたテロリスト集団の一つ。彼らは「世界のリセットを望む」危険思想を共有しており、その主な活動は破壊工作から要人の拉致、人質を利用した脅迫、人民扇動などと様々。人権無視の直球勝負をする他とは異なり、陰湿なやり方を好み、徐々に場をかき乱していき、周到な準備の元で隙を突いて領域の転覆を図る。

 彼らの手によって一つの領域が半壊したこともある以上、世界的に目を背けられない存在である。

 クーリフ自身はその領分を任されていないため詳細は掴めていないが、その勢力がジーニアス=サーを取り巻く領域に潜伏しているというのを噂程度に聞いたことがあった。

「では、噂は本当だったのですね」

「うん。残念ながら目をつけられてしまったようだ」

 やや苦しげな表情なライプツィヒ。

 それが事態の深刻さを物語っていた。

 結果論だが、その市民団体は初期段階で無理矢理にでも押さえつけるべきであったのだろう。彼らは腐ったミカン。捨ててしまえばそれで終わりだが、しかし放置すれば取り返しのつかないことにもなりかねない。その腐敗から更なる勢力を引き込む形となるならば尚更だ。

「……」

 押し黙るクーリフ。

 それは一つの重大な情報であり、ショックも大きなものだがそれよりも先に気に留めるべきことがある。それは。

「……つまり彼らの手が既にこの街にも及んでいる、と」

「正確に言うと現段階ではハリングまで、だね」

 このジーニアス=サーと隣接する都市ハリング。そこにまで到達しているならば、もはや手が届いているのと同義ではないか。

「………………」

 分かりきったこととはいえ、更なるショックがクーリフの身体を貫いた。

 ならば、この街にも既に安息などない。ルーラーの身辺の者たちならばより一層その危険性は高まる。

 無論、自身の近親者も同様だ。

 ならば。

「戒厳令を敷くべきではありませんか。今すぐに」

 この街にある脅威をすぐにでも通告すべきだ。今この瞬間にも、何も知らずに危険に晒されているのだから。

 焦燥感を隠しきれずクーリフが立ち上がると、ライプツィヒはそれに目を見開いたかと思うとすぐに笑い声を上げた。

「笑い事ですか……!」

「いや、すまない。しかしやはり、自分の身は可愛いか」

「何を──」

 ライプツィヒは書類を脇に置くと体を起こしてクーリフと対面するようにその場で座りこむ。

 立ち昇る感情の最中。悠然とした態度に変わりはないが、どこか様変わりしたその雰囲気に思わず息を飲んだ。

「やはり、君たちにはまだ早いな」

「……何の話ですか」

「双肩の話さ。まだ小さくて乗せきれないといっているんだ」

「……」

 ライプツィヒは表情から笑みを消し、その双眼でクーリフの顔をはっきりと見つめた。

「リスクは承知の上。私も覚悟はとうの昔からしている」

「……」

「まあどちらにせよ、今の私には何もできないがね。状況の問題ではない。権限の問題だ」

「しかし、それでも……」

 ルーラーだ。何かできることはある。

 思ってはいてもしかしそれを口にするのことは阻まれた。

 クーリフとて、分かっている。

 この街は彼の手が及ばない場所であり、その実権は無いにも等しい。人々からは後ろ指を指されている実情が、捕らえられている現況が、それをよく表している。彼が言うように、今の自分たちに出来ることは何もない。

「一つ言っておくが、直接入り込まれているわけではないので、そのことは認識しておいて欲しい。今は無駄に気を張っておく必要はないということだ」

 その言葉は気休めだと思った。所詮は「最悪の事態ではない」と言っているだけで、これから先の保障はない。

「君に出来ることは、定常の業務とツルギの支援だ。今はそれに注力してくれ」

 なぜ、こんな時に他人のことなど構ってやらなければならないのか。今は一時でも惜しいというのに。

「何か質問は」

 クーリフは心臓の鼓動を抑えるようにじっと目を瞑る。

 不安や恐れをかなぐり捨て、疑心や雑念を振りほどく。上手く飲み込めはしない。だが体裁など取り繕う必要はなく、不恰好でも良い。

 心身の正常化能力。

 それはクーリフが超常人類として持っている力の一つ。あらゆる要因を取り除き、全身の能力を一定に保つ。

 そして一息。開眼。

 一挙にして熱を取り払った思考は、冷たさや余熱のない完全なる無温無色。固くなった表情もまた同じく完全にニュートラルな状態へと回帰した。

「諸々、承知いたしました。しかし肝心の話は聞けていません」

「ん?」

「不穏分子の顕在化と仰られたことに関して詳細を聞けておりません」

「ああ、なるほど」

 合点がいき、ライプツィヒは表情を崩した。

「話が先行しすぎたね。件の結論から話すとまず、白盟の七使徒はジーニアス=フォースの老公に取り入られている」

「なるほど」

 急激な話展開である。すんなりと彼は話したが、それはこの街のトップオブトップ、最高権力の所在だ。

 既にそこに手が入っている事実に動揺に誘われたが、構わず根底の考察を開始した。

「どの老公が彼らに組みしているのかも目星はついている。しかし完全なる証拠は未だ掴めていない。対応を間違えて取り逃がすとそれが最悪の悪手になる」

「その通りです」

 その初源は必ず摘み取らなければならない。なぜならば彼はこの街の情報を握っている。取り逃がすことがあれば、その次が待ち構えていることだろう。隠す術は老公ならば容易に確保できる上、逃げに講ずるルートも既に用意してある筈だ。

 だから慎重に探る必要がある。水面下ではなく、深く潜ったその先でだ。

「今出せる明確な詳細はここまで。彼らも馬鹿ではないようでね。その動きや手の内は未だ見えていない。だが、そうは言ってもこのジーニアス=サーは数多くの優秀な武人たちが暮らす場でもあり、数多くの企業や外部領域との連携を持つ都市だ。情報を駆使し、先手を打てたとしても障害は計り知れない」

「容易ではないでしょう、ここを落とすのは」

「せめてこちらの戦力をある程度まで絞りたい。だが、そんな時に好機を迎えた」

「合法的にルーラーの捕獲していますから」

 クーリフは臆面もなく、それを口にした。

 ここまで来れば、話は明白となる。

 ライプツィヒのいう「炙り出し」は、彼自身が囮であり、餌であり、人質となることで成立する。彼は削り取りたい外部領域との接点であることからして、その損害も甚大である。領域のルーラーを抑え込み、手中に収めている状態で影響するのは対応力の低下。後手後手に回るだけならばいざ知らず、下手をすれば、他の領域は手を出せなくなる上、ルーラー直轄のアカサタナ家もまた身動きが取れなくなる。するとこちらの戦力は絞り出すことが可能となり、どれだけの準備をすれば良いかを算出することは容易となる。

 その考察が正しければ、「敵も馬鹿ではない」という先ほどの言葉は至極全うな評価である。彼らは権威を失ったルーラーであるライプツィヒこそが作戦の鍵だと知っているのだ。

「…………」

 彼の言うところの「炙り出し」は理解した。彼の言う通りにことが進むかは本当のところは分からない。彼らが臆病風に吹かれて撤退したならば、事は起こらない。しかし間違いなく、その者たちにとってはまたとない好機。そしてそれはこちらも同様。

 ならば、その本質は賭けにも近い。

 ライプツィヒの捕縛から出現し、炙り出された者たち。白盟の七使徒。仮に得体の知れないその勢力との交戦が始まったとして、彼らを止める術は本当にあるのか。

「……父は」

「うん?」

「父は知っているのですか、この作戦を」

「勿論」

「承諾をしたのですね、それに」

「快諾とはいかなかったけどね」

「彼らを止める手立てがあると」

「無ければ企てないよ」

 俯く視線をライプツィヒへと向ける。

 彼は笑っていた。

 不安はないのか、恐怖はないのか。

 やはり、分からない。

 ただ、今更何を言おうとも既に進行している。こちらも、相手も。

「仔細、承知いたしました。私にできる事があれば、言ってください」

「ツルギを頼む」

 もはや諦めの境地で、事務的に会話を遮断。最後に問いを残すとライプツィヒは以前と変わらずそう言った。



「本日はここまでにしましょう。この後は通院のご予定ですよね」

「ありがとうございました」

 息も絶え絶えにツルギは一礼。彼女はそれに応えることなく、そそくさとその場を後にした。

 訓練を終えたその後はシャワーで汗を流す。それは恒例のことなので、彼女の行き先やこれからの動きについては言われずとも理解している。

 しかし。

「感じ悪い」

 ブローディアは憎々しげに呟いた。

「……構わないよ」

 ため息でも溢れそうだったが、それをぐっと飲み込みツルギもシャワー室へ。まだ日中だというのに自分たちの他に利用者の影は見当たらず、ほぼ貸し切り状態の建物を進み更衣室へと足を運ぶ。

「最初の態度はどこに行ったのかしら。ホントにイラつくわ」

「…………」

 彼女の不満は至極全うなものだと、ツルギも感じている。あれから日を追うごとに彼女の冷たさは増し、今日で十日が経とうという時には平然と会話を遮断されるようになってしまった。

 ツルギの解釈では、おそらく彼女は興味がなくなったのだろうと思った。彼女についていくのが必死で、時にはそれが不可能になる自身の力量を見て彼女は呆れとも諦めともつかない複雑な顔をし、訓練の合間はとにかくつまらなそうにしている。

 自分は彼女を楽しませなければならない立場ではない。だがしかし、それが何よりも惨めで申し訳なかった。

 元々は招かれざる人間だけあって、やはり精神も身体も全く伴なっていない。成長の過程も未だ見出せてもいない。

 来るべきではなかった。そう思ってはならないとは分かっていても、やはり気落ちはせざるを得ない。

「ていうか、なんかピリピリしてない。あの男もさ」

「……そう思うか」

 ブローディアの言葉にツルギも同意した。

 サーリシャはいざ知らず、クーリフもまた少なからず様相が変わった。彼の場合、ピリピリしているというよりかは何も感じなくなったと言った方が正しい。まるで色が抜け落ちたように、彼は表情を見せなくなった。ほんの数日前の変化はすぐにこちらにも伝わった。

 ただ、彼に至ってもその心情は理解できた。上司であるルーラーに変わり作業をしなければならない身であるからして、彼は多忙を極めているのだ。昨日も夜遅くに仕事から帰ってきたかと思うと、食事を取ったのちにまた出かけていったのはツルギも知っている。

 それを思えば、不満など感じ難いし、むしろ心底から謝りたい気持ちにすら駆られる。しかしそんなものは彼にとっては気休めにもならない上、下手をすれば逆撫でしてしまいかねない。ならば、言葉は不要でこちらはただ打ち込むことだけに専念すべきで、それは重々承知している。

 もどかしい。

 この街に来てからというもの、焦りとも不安ともつかない感情がどこからともなく現れる。

 脱衣後、シャワーを浴び、すぐさま着替え。サーリシャを待たせまいと足早に身を整える。彼女は女の子だが、しかし何をするにしてもテキパキと全てをこなす。何かに浸っていたり、考えていたりすることなどがおそらく無いのだろう。シャワーでさえ、その例に漏れず彼女はさっさと済ませてしまうのだから、ツルギとしてもそれに習わざるを得ない。

「あんたがいいならば、私だって構わない。けど、あまりにも酷ければ口を出させてもらうわ。それくらいはいいでしょ」

 支度を済ませて更衣室を出ようとするその最中、ブローディアはそう口にした。

「……言葉は選べよ」

「まあ善処するわ」

 無理だろうなとは思いつつ、早足でその場を後に。流石にこちらの方が早いだろうと意気込んだが、彼女は少し不貞腐れた顔でツルギを待っていた。


 回数にして3度目の通院。こうも短期間の内に通い詰めていると、そこにいる看護師の顔も覚えてくるもの。限られた人員のみで構成されるこの街の背景をも考えれば、それが普通のことである。

 しかし、ツルギにはそれができなかった。それがどうしてなのかはある程度の見当はつく。

「ツルギ様、どうぞ」

「はい」

 促されて診察室へ。例によっていつもの主治医による診察や対話を行う。

 彼もそれなりに優秀な精神科医なのだろうとは思う。この都市で勤務している身のだから、それは当たり前のこたなのだが、ツルギの目にはどうしてもそれを認識するに及ばない。懐疑的な印象を受け取るしかなかった。

 しかしそのついてもやはり見当はつく。

 診察を終え、待合室に戻ると同伴者であるエメリーが定期健診から一足早く戻っていた。

「どうでしたか」

「……どうなのでしょうか」

 柔和な笑みを見せるエメリーにツルギは頭をかいて生返事。

 良くなっているのか、そうでないのか。それは実のところツルギにも分からない。

 主治医の彼はあまりにも淡々としすぎていて、なんの実感も湧かない。

 熱量が感じられないのだ。あまりに優秀であるが故にそうなってしまうのか、元々そういう性格であることそうさせるのか、はたまた別の要因がそうさせるのか。

 しかしそれは何も彼だけではない。ここの看護師たちもそうだし、ひいてはここの人々全てがそうなのだと最近になり分かり始めてきた。この街に住むものとして、上昇志向を持ち合わせていないわけではないだろう。ならば、そこに感情を入れ込む必要性はないということなのか。

 焦りや憂慮はない。かといって感動や情動もない。よく言えば「安定している」ということなのだろうが、悪く言えば「機械じみている」と評価できる。

 その結果として、「熱意しか持ち合わせていない自分よりはマシか」などと自虐的に結論付けたが、しかし何しろ気味は悪い。

 エメリーの隣に座り、じっと手を見つめる。すると、エメリーはあろうことかそこに手を置いた。

「大丈夫」

 はっとして見返したツルギの顔を彼女は先ほど変わらない表情で見る。

「きっと、大丈夫ですから」

「……そうですよね」

 確証や具体性はなく、ひどく曖昧な言葉だったが、不思議と押し寄せる感情の波が音を消した。

 きっとそれは彼女という人柄がそうさせたのだろう。言葉は人によりその力や性質を変えるもの。ツルギはそれをよく知っている。

「ツルギ様」

 それからしばらくして、看護師に呼ばれたツルギは処方された薬とその内約を手渡された。

 少しだけ触れた手は何故だか温かく感じた。

「すみません、お手数をおかけしました。帰りましょう」

 背後のエメリーへそう声をかけると、彼女は小首を傾げた。

「ツルギさんのこの後のご予定は?」

「予定……は特にありません。まあ、部屋に戻って瞑想でもしようかなと」

「でしたら、私と少しだけお付き合いいただくことは出来ますか」

 エメリーの笑みに少しだけ皺が寄る。

「……?勿論です。どこへでも」

「では参りましょうか」

「はい」

 訳は分からないが特に疑う余地もなく、素直に応じたツルギが連れ立たれたのは、綺麗かつ清涼感があり、気品が溢れ出るとあるカフェ。

 個室に誘導されると、エメリーは何を聞くまでもなく定員にコーヒーを一つとミルクコーヒーを一つ、そして三種類のケーキを手早く三つ注文する。

 場の空気に恐縮しつつも、彼女の注文にツルギは首を傾げた。

「あの……」

「もう少し待ってくださいね」

「はあ……」

 何が起こるのだろう。

 彼女ならば悪いようにはしてこないだろうとは予感しつつも、しかし不安は隠せない。

 そんな会話の後、程なくして注文たちがテーブルへと運ばれてきた。自分には勿体ないくらい上品に飾り付けられたケーキとどこか優美で香りの高いコーヒー、そして可愛らしいカップに入ったミルクコーヒー。

「あの……」

 店員が去るのを見届けてから、先ほど同じく語りかけると、エメリーはまるで少年のようにツルギへと笑いかけた。

「はい、これ」

「これ……?」

 差し出されたのは一枚のカード。それが何なのかは想像がつかなかった。

「手足についている装置の解除キーです」

 とりあえずは受け取り、その扱いに困ったツルギがもう一度エメリーを見ると、彼女はニコニコしながらにそう言った。

「…………」

 虚を突かれて声を失ったツルギ。カードキーと腕の装置を交互に見る。

「解除して良いんですか」

「誰も見ていませんから」

「……いや、でも」

 これは何かの罠か。

 一番初めに頭に浮かんだのは、それである。

 そんなことをしていいのか。明確な判断は自分にはできないが、しかしおそらくは良くはない筈だろうと心底で考えがついた。

 もう一度彼女を見る。エメリーはそれに頷いた。

 その笑顔は決して邪悪なものなどではない。純粋で潔白な唯一この世界で信じても良いとさえ思えるもの。だが、裏に控えているものがあるのかないのか。それは分からない。分からないがしかし。

「……ありがとうございます」

 ツルギは深く頭を下げた。そして両手両足の装置へとかざすと音を出すこともなく、緑色のライトが消える。

 彼女はアカサタナ家の長老。彼女には立場がありそれを利用することは可能。そしてこれは良かれと思ってしてくれたのだと、身勝手だがそう解釈することにし、ツルギはそれに甘んじることにした。疑いたくないという感情がそれを手伝ったのも言うまでない。

「ブローディア、どうだ」

「…………こんなことしていいわけ」

「大丈夫です」

「根拠は」

「特にはありませんけども」

「ええ!?」

 堂々としていながら何気なくそう言うので思わず声を上げてしまった。すぐに自身の口を両手で塞ぐもしかし「ないのかよ!」とは内心で叫ぶ。そして周囲を見渡した。確認したのはカメラの視線。それらしきものは見当たらないが、安堵することも出来ず、ツルギは小さく口を開いた。

「ブローディア、すまないが一旦そのままだ。こんな事を聞くのは申し訳ないのですが、一応訳をお聞きして良いですか」

「うーん……なんだか悩んでいらっしゃったので、気分転換に良いかなと。それから……孫の二人が失礼をしているものと思いましたので」

「…………」

 エメリーの言葉にツルギは閉口。

 それを否定することも肯定することも出来なかった。それは確かに事実ではある。

 つまり、これは気分転換を兼ねたお詫びで、ここへ招き入れたのもそれのため。しかしそれに関してお詫びをしてもらう言われもない。こちらは世話になっている側である。

「いい心がけだわ」

 しかしブローディアは満足げに言い、影からすっと身体を出した。

「おい」

「良いと言っているのだから、良いでしょ。あんたは疑うの?」

 なんとも小狡い物言いをしたブローディアはしたり顔。ツルギはそれに少しだけイラっとしたが、言及はなし。

 彼女が気分良く伸びをしているのを見て、そんな気持ちが和らいだ。

「ご迷惑、でしたか」

「いえ、そんなことは決してありません。……本当にありがとうございます」

 ツルギは再び頭を深く下げる。

 こんな展開は一切予見していなかった。出来るわけもない。それはこの都市の歴史を象徴する措置で、それを拒否することは決して叶わない。それはここに住む者たちだけではなく、およそ全人類が共有する事実でその例に漏れずツルギ自身も無論それは承知していた。

 だが現実においてはこうもあっさりと一蹴され、今この場は禁忌といって差し支えない未知の世界に踏み込んでしまっている。

 ブローディアが外に出てこれたことに喜びはある。感謝もしている。しかしそれと同時に現れた困惑と後ろめたさは無視できない。

 言い難き感情。

 その中でどんな顔をすればいいのか。

「これ、食べていいんでしょ」

 妙な空気が二人の間で流れたが、ブローディアはそんなことなど気にすることなくケーキの一つに手を伸ばした。

「もちろんです。ミルクコーヒーもどうぞ」

「あら、分かってるじゃない」

 遠慮なくミルクコーヒーも引き寄せ、上機嫌なブローディア。それを見て、行き詰まるような固い空気を発してたツルギは表情を軟化させた。

 なんだか一人だけ悩んでいるのが損している気がして「まあいいか」と思った。全てがもはや今更であり、それならば悩んだり困ったりする必要はない。ブローディアが笑い、エメリーが求めるならば、自分も彼女たちに倣うべきだ。

 何と短絡的な思考だろうとツルギ自身も思ったが、その一方では「何でもそうだろう」とも思った。難しいことなどない。愚直である必要はないが、複雑にする必要もない。時に紐を結ぶならば、時に緩めることも寛容だ。

「ツルギさんもどうぞ。ここのコーヒーはオススメなんですよ」

「エメリーさんの分は……?」

「私は大丈夫ですから」

 これは彼女の好意。遠慮などするべきではないのだろう。

「……では、お言葉に甘えて」

 素直に応えて、ケーキとコーヒーを引き寄せる。それを眺めてから、エメリーは残ったケーキを取った。


「訓練はいかがですか」

 一頻りのティーブレイクの後、エメリーはそんな風に話を切り出した。

 それについて、雑談というよりも聞き込みをしているように感じて少し言葉を選びつつ口を開く。

「充実はしています。しかし結果が伴っているかは……分かりません」

 答えづらそうに話すツルギにエメリーは笑顔で応えた。

「焦る必要はありませんから。ゆっくりしていってください」

「……ありがとうございます」

 彼女の言葉に対し、素直に「はい」とは言えなかった。建前で言っているのではないとしても、それでもやはり心の蟠りは晴れない。

 コーヒーを啜る。つい癖で音を立ててしまったが、それを咎める者もいなかった。

「……やはり、クーリフやサーリシャと付き合うのは難しいですか」

「いえ……………そういうわけではないのですが」

「まあ、少なからずツルギに影響はあるでしょうね」

 何とも歯切れが悪いツルギに反して、ブローディアはズバリ言ってのけた。

「ブローディア」

 バツが悪そうに睨むも、彼女は横目で睨み返した。

「だってそうじゃない。質が良ければいいわけではないわ」

「お前な……」

 言葉は選べと言いそうになり、思わず口を噤んだ。

 はっきりと伝えるだけが言葉じゃないと、改めて注意すべきだが、しかしそうは言っても彼女の言は実に的を射ている。そこを否定出来ないのがなによりの証拠である。

「申し訳ありません」

 するとエメリーはその間に割り入るように言い、深々と頭を下げた。

「やめてください。結果を残せないのは自分のせいですから」

 ツルギは慌てて手を振るが、頭を上げる彼女は悲しそうな顔をした。

「私共の監督不十分であることは分かっております。ですから、謝罪はさせてください」

「いえ……」

 それについては「こちらこそ」と言いたい気持ちではあるが、流石にそんな軽口を言える雰囲気でもなく、ツルギは困った顔をした。

 エメリーの言う「監督不十分」と言う言葉にはツルギとしても考えるものがあり、その家族関係は、その中で見ていた自身にもつぶさに読み取れていた。全ての人々が洗練されているアカサタナ家だが、その形はそれぞれがまた違った様相を見せている。穏やかな祖母エメリーと母イーリスに対し、下手である長男クーリフと長女サーリシャは彼女たちという存在を立て、尊敬もしている。敬意を表してもいる。互いに大事にし合ってもいる。そこに決して嘘がないことや形だけが取繕われたものではないことは分かる。だが、あくまでクーリフとサーリシャのそれは武人として躾けられたが故のもの。どこか他人行儀で、違和感もある。彼らは一切の甘えや軽い言葉を祖母や母には見せない。

 家族として一つであり、一つとなっているが完全ではない。超常人類と普通人、武人と一般人の違いがそうさせているのだろうし、さらに言えば家長不在の状態がそうさせているのだろうと感じさせられた。

 それ故にエメリーやイーリスにその問題を突きつけるのは避けたかった。それをすれば、この繊細な家族関係に亀裂を生じさせかねない。

 そう思えばこそ、この問題の間口を開け広げるのが心底嫌だった。

「もっとしっかりしてほしいものだわ。本当にいいめいわ……い!?」

 追い討ちをかけるかのような一言。

 それを言い終えるより先にツルギはブローディアの頬を強めにつねり上げる。

「そこまでだ。それ以上はお前でも許さない」

「わ、分かったから……!」

 流石にこちらの怒りを察したのか、焦ったブローディアはつねる手を跳ね除け、ミルクコーヒーを一飲み。空になるのと同じくすぐさま影の中へと戻っていった。

「けど、これだけは言わせなさい。あまりツルギを馬鹿にするようなら私だって許せないわ。私はこの男の刀姫なんだから」

 なんと太々しい捨てゼリフだろうか。

 今度ばかりは見過ごすことはできなかった。

「お前な……!」

「ブローディアさんは、お優しいですね」

 ツルギの憤りにエメリーは呟くように言う。どこか感慨深いような物言いだ。

「すみません、後で強く言い聞かせます」

「いいえ、いいのです。どうか怒らないであげてください」

 エメリーは首を振った。その表情は穏やかで、とても悲しんでいるようではない。その心持ちは何か。その真相は分からない。

「私共も善処いたします。ですので……本来はこんなことを言える立場ではないのですが、どうかあの子たちをよろしくお願いします」

 彼女はそう言ってもう一度深く頭を下げた。

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