第2話『黄金の城』-その10

 始め、その計画を持ちかけられた時は鼻で笑ってしまった。個の持つ理想郷の具現化など、馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。

 人は出生やその生い立ち、記憶から人格を形成し、そこからそれぞれの願いや想いを具体化する。そこに統一性はなくつまり理想郷とは、誰かにとっての欲の形でしかなく、同時に別の誰かにとってはディストピアでしかない。

 故に、もしそれを完遂しようとするならば全人類の意思と人格を統一しなければならない。しかとて、そんなことは到底不可能。どこかの神のごとく、世界の再構成でもすることが出来なければ、それは叶わない。

 なぜこの話を自分にしたのか。

 それとなく聞いてみると、「あなたがそれをするのに、最も適した人間だからだ」と答えた。

 当然、自分は神の使いなどではない。神父のような高潔な人間でもなければ、ルーラーのような高尚な人間でもない。ただの人だ。教師という職には就いてはいるが、かつて自身に想いを寄せた教え子に手を出したことがある、下らない、下賤の人間だ。自分など到底相応しくもない。

 だからこそ、「自分には相応しくない」と拒否した。されどその者は「あなたしかいない」と落ち着いた声で短く言った。

 彼にとって、自分の何が気に入ったのかは分からない。食い下がるその意図は何なのか。当然だが、裏で何かを企てており、それに自身を当てはめ込んでいるのは間違いがなく、何にせよ、面倒ごとに巻き込まれるであろうことは予想がつく。

 そこで今度は切り口を変えることにした。個々の持つ理想郷の具現化。それ自体がまず不可能であると論じ、計画自体の否定をした。するとこちらの反論について、彼は「では、お見せしましょう」と言い答えた。どこか笑みを含ませたような、軽快な口調であったことは、よく覚えている。まるでこちらの反応を待っていたかのような、含ませた物言いだった。

 彼の見せたもの。それは刀姫の能力を駆使した幻術だった。自身の持つ理想の世界を映し出し、そして取り込むもの。それは自分の場合、それは過去の情景だった。気持ちが良かった。抗い難かった。だが、所詮は幻術でしかない。理想郷とは程遠い、むしろ無縁といって差し支えないような類のもの。それを見せられ、解除されてからは夢心地だったが、我に帰ればどうということもない、ただの虚構だった。

 どうしようもなく、馬鹿げている。これほどまでに精緻な幻術ならば、その出力は大きい。しかもこれを全人類へと見せるという趣旨を鑑みれば、幻術を扱う者たちも相応に必要であり、さらにそこにかかるのは。それをどのようにして作り出し、維持するのか。

 彼らの行おうとしている計画をせせら嗤いながら、聞いてみた。

 彼らの展望を。計画の本論を。

 現実に帰り、現実を知り、絶望した。あの世界にもう一度戻りたい。もう二度と叶わないかもしれない。だが、どうしても今の現状に耐えられなかった。

 かつて愛した妻と娘が居ないこの世界が憎くて、魅せられた世界が妬ましかった。彼女たちの死を仕方ないことだと振り切ったはずなのに、諦めたはずなのに、もう一度やり直したいと切望した。

 自身の選択を間違えてしまっていたことを、そこでやっと気がついた。あの時、ただ拒否だけしておけばこんな気持ちにもならなかっただろう。

 だが、今はもうどうしようなく。

 現状の全てを捨てでも、それを掴みたかった。



 刀姫の開発。それは並なことでは無い。現在の科学領域でもそれは同様。大規模に行うならば、よりそれ相応のものが必要だ。

 ならば、どうして。

 ツルギは組み伏せられながらも、現在を考察した。強い殺気に囲まれたその中であっても、その思考は停止しない。

 甘く見積もっていたということは断じて無い。ジールサハトがこの場に居合わせていた瞬間から、嫌な予感はしていた。彼は養護施設を運営。そして目の前には刀姫と化した少女たちが存在。

 ならば当然、別に刀姫がいる可能性は考えていた。施設の子を刀姫として戦力にしたことは考えられた。だが。

 目の前にいるモノたち。総勢20は下らないモノたちが、なぜここにいるのか。ツルギには理解できない。彼女たちは、一体何だ。刀姫が人に与するなど、特にイレギュラーなことではないが、しかしこの数は異常。

 愕然とするツルギに、サハトは笑いかけながら言った。

「プロトタイプだよ」

「プロト……タイプ……?」

 その存在は知っている。理解もしている。

 彼は、施設の子を刀姫に変えた。それもよりコストが低いプロトタイプに。それならば、話は容易に吞み込める。プロトタイプであれば、造作もなく量産できる。

 しかしそれならば。

「あんた、全員を変えたのか……!」

 施設の子たちを皆。

 奥歯を噛み締め、その落ち着き払った顔を睨みつけた。

 刀姫のプロトタイプ。その製造は通常の刀姫よりも容易。コストもリスクも少ない。しかしその所以は途中工程を省いたものでしか無く、同時にそれは未完成形であることの証。明確に刀姫の代わりとなる様に製造されているわけではなく、それ故にプロトタイプは出来損ないでしかなく、刀姫と比べれば、彼女たちの全ては使い捨てと呼ばれて差し支えない存在。その寿命は人の時よりもはるか短い15年ほど。実戦登用できるのも、期間の内10年ほど。そうなってしまう理由は、プロトタイプがそれだけ完成度が低く、負担も大きからである。

 プロトタイプの製造は考え方によっては刀姫開発よりも残酷である。なぜなら、実戦と使えなくなって仕舞えば維持費用を食いつぶす存在でしかなく、そのまま打ち捨てられてしまうのが大半であるから。それが今認可されているのは、その残酷さを人々が理解していないからでしかない。かつて、プロトタイプの開発に声を上げた者たちは、今では殆どいない。

 延々と続く戦いの螺旋。その枠組みからより早く解き放たれることが救いとなる。ツルギには理解し得ないが、しかしそういった論旨をする者は数多い。

 彼らを狂っているとは言わない。もうすでにこの世界が狂っているのだから、彼らは正常である。

 逆に狂っているのは自分なのだろう。だからこそ、その事実に対しこんなにも激昂している。

「ふざけんなよ、てめえ!」

 ツルギは叫び、渾身の力を身体に込めた。今ある全ての活力を解放し、そして起き上がろうとした。だが、それは叶わない。サハトの元にある刀姫たちがそれを押し留めた。プロトタイプの身体的な能力は刀姫に引けを取らない。複数のモノたちが相手ならば、ツルギにはどうすることもできない。覆すことができない。声を発するだけで、それ以外はなし得ない。

「動くな、殺すぞ」

 そう言ったのはツルギの頭を掴む一人の少女。その声には怒りが満ちていた。

 いや違う、怒っているのはその子だけではなく、皆が怒っている。対象はサハトではなく、ツルギ。自身の仲間を傷つけられ、それに対して怒りを感じている。

 彼女たちはおそらく、プロトタイプの刀姫となり、モノと形容されることに一つも疑心していないのだろう。サハトの言うことに、何一つ不満もないのだろう。

 半ば洗脳のような刷り込み効果だが、しかし彼女たちはそれが幸せなのだ。そのイメージはつく。彼は良い意味で人の心を掴むのが上手い。自身の知りうる彼は誰からも信頼され、頼られる。施設でも、士官学校でも、それはでも同じだった。

「──許容できるか、そんなこと……!」

 しかしそうだとしても、こんなことを許容できるわけがない。自身の守るべき存在、自身を信じ託してくれる存在。それらを謀り、丸め込み、兵器として作り上げる。欲しても得られない者がいるのに。願っても叶わないモノがいるのに。この者は平時としてそれらを享受し、そして利用する。

 不条理こそが生の本懐であるとは理解しているが、だからといって黙っていられはしない。こんなところで、こんな奴に、負けて良いわけがない。

 ツルギはもう一度、全身の力を四肢に込める。先ほどよりもより強く、激しく。折れた腕にすら、力が入る。自身の全てがどうでも良くなった。ただ今はこの男を殴り飛ばさなければ気が済まない。

 徐々に上昇するボルテージに伴い、床に沈む身体は起き上がる。もう少し、もうちょっとだけ。

 ツルギの身体はとっくに悲鳴を上げたが、それでも絶対に諦めない。

 だが。

「大人しくしろ」

 頭上の刀姫は無情にも、それを押し潰した。その反作用した力により右肩が外れ、抵抗も虚しく床に顔を打ちつける。脳の揺れと共に視界も四方へ揺れ、額や鼻からは衝撃から更に血が漏れ出た。

「……っ!」

 全身の痛みが増す。

 これ以上は危険だと、脳が信号を発信。防衛本能とも呼べる思考が、全身へと伝達し、身体は硬直。

 だが本能が突き動かすまでもなく、自身でも分かっている。

 あまりに抵抗を重ねれば、彼女たちを刺激することにもなる。そうなった時、自身は確実に死ぬだろう。ブローディアともここで終わる。彼女は救い出せないまま、自身の生は終わりを告げる。そうなったら、もう誰とも会えないのだ。誰とも話せない。誰とも接し合えない。完全なる無となり、自分の世界は幕を閉じる。

 無念ではあるし、後悔もするだろう。だが、微塵も恐怖はない。自分の命が無くなってもいいとは思っていないが、少なくとも、この意思だけは絶やしたくない。この想いを、過去を、この男の前に屈したくない。

「最後だ、ツルギ」

 サハトは平然としたまま言った。

「私は争いたいわけではない」

 怒りも、憤りもない。

「君を苦しめようという気もない」

 その言葉たちに込められた感情は無であった。

「だから、君から折れるならば、もう一度夢に返す。もう一度やり直すチャンスをあげる」

 自身の身内を殺されたにも関わらず、彼は穏やかに言う。

 彼は誰よりも人格者である。強き者に依らず、ただし弱き者にも依らない。人種も、過去も、人の持つ歴は彼の前では無意味。彼は完全なる平等主義者で、そして完璧に近い精神構造を持つ者である。だから、周りの教師のみならず、様々な生徒やその保護者たちからも強い信頼を得ていた。

 だからなのだろう。彼がこうしている理由に、合点がいった。最後の最後まで、彼は怒りを持たない。情を持つことはない。もし相手が誰であっても彼はそう言って諭し、チャンスを与える。慈悲ではない。無慈悲でもない。

 知れば知るほどに、彼の内面を見たくなる。心情を覗きたくなる。その心を振り向かせたくもなる。人が彼を欲するのもよく分かる。

 彼は何も無いのではなく、ただ理性的なのでもない。

 彼は──。

「ツルギ……」

「断る」

 ツルギは頭の痛みも構わず、力を込めて返答した。

 助かりたい、楽になりたい。しかしその一方で、やはり彼のことを認めることは出来ない。側から見ても、多分矮小で下らないのは自分の方だろう。子どもで未熟なのも自分。彼の救いの一言を感情で跳ね除け、そしてむざむざ死に向かう様は、誰の目から見ても滑稽だろう。

「……そうか」

 しかしサハトはそれを笑わなかった。その顔を拝むことは出来なかったが、彼はその心理を到底理解し得ず、不可解な面持ちをしていることだろう。

 分からなくてもいい、分かり合えずともいい。例え、むざむざ死ぬことになったとしても。

 ツルギは瞳を閉じ、全身の力を抜いた。どうしようもない人生だったと、血が滲む視界の中で思い、そのまま意識を閉じた。



「もういいですよね?」

「構わないよ、死なせてあげよう」

「はい」

 刀姫の一体が伏すツルギへと拳を振り上げる。頭を粉々に破壊すれば、どんな生物でも死ぬ。そこに例外はなく、人でしかないツルギもそれは同様。

 振り上げた拳は、一切の躊躇もなく振り下ろされ────そしてその拳は腕ごと、真横へと吹き飛んだ。

「あ?」

 そこで突如として。

 空気が一変した。

 綺麗な断面を描く腕からは鮮血が舞う。

 この場にいた者全てが、その光景を正確に判断できなかった。

 ツルギの頭を潰すはずの腕は血を流しながら床に転がり、そしてそこには一人の者が突如として現れた。

 膝をつき、赤く燃えるような長髪をたなびかせ、赤黒く一つの光沢も持たないしなやかな甲冑を身に纏い、刃渡り60cmはあろう長く細長い得物を引き抜いた者。

 テンカク直轄戦闘集団『天武介』。その最高位にして最大手である『武帝』。そしてその中にして序列『第二介』を保有し、『無類無双』の二つ名を持ち、正当なる進化によって『超常人類』にも比肩する存在。彼の名はミコノ・ジングウ。彼女もまた、ツルギと同様にこの空間へと到達し、この場へと出でる、他とはかけ離れた無類の存在であった。

 この場における絶対的な存在は、まずツルギの身を目視。うつ伏せになったツルギの背に手を置き、息を確認する。

「間に合ったか」

 口元をわずかに綻ばせたミコノは、呟いてからゆっくりと立ち上がった。その視線は何もない場所へ。見るまでもなく、見る価値もないという意思の表れ。赤く染まる髪は戦意の証。もはや命乞いすらも叶わないことは、第三者からは明らかである。

 そしてミコノはただ一言、抑揚のない声で場へと語りかけた。

「14秒だ」

 静けさが辺りを包む。

 登場から数秒ほどの間ではあったが、すでに刀姫たちの体感にして、数分は経過していた。

「あ……わ……わ、わたしのおおおおお」

 ややあって静寂を破ったのは、腕を切断された刀姫。絶叫が辺りに響いたが、それも時期に止んだ。

「煩い」

 その大口を横に一閃。果物でも切るかのように、滑らかに、造作もなく、顎から上を切り落とす。

 辺りに散らされた鮮血。命を失った刀姫の身体は力なく倒れ伏した。

 言葉はなく、倒れた刀姫を口火に開戦。そこからは死屍累々の劇場が幕を開けた。踊るは血液。鳴り響くは刀姫たちの悲鳴と辺りへと飛散する血しぶきの音。刀姫たちの血が、肉が、内臓が、舞台の背景を彩り、佇むサハトの表情が場の凄惨さをより際立たてる。

 刀姫の身体能力も、抵抗も、その物量も全てが無駄だった。刀姫たちの攻撃を軽々といなし、まるで流れるかのように、背後からの奇襲も正面からの強襲も横からの逆襲も躱す。ミコノが扱う太刀は狭い場所に向かないような代物だが、しかとて彼女は超一流。躊躇いもなく振り切った刃は一度たりとも障害物を叩くこともなく、機械の一振りであるかのように正確に、短切に、確実に刀姫たちの命を刈り取る。

 まぐれはなく、一時の間すらもなく、圧倒的な戦力差で刀姫たちを蹂躙。切り捨て、切り捨て、切り捨てまくる。

 曲線から一転し、無駄や遊びのない、短い直線を描くかのような展開だった。積み上げた積木を一払いで破壊するかのような、儚い展開であった。

 宣言通り、14秒で片がついた。

 計画のために組み上げた状況、支払った費用、かけた時間。その全てがものの十数秒の間に霧散。水泡に帰す。

 戦闘の続行が不可能となったキルヒやアイスもついでと言わんばかりに首を断ち、それで刀姫たちは全滅。死が包む空間に残るのは、意識を無くしたツルギと、返り血に塗れたミコノとサハトのみとなった。

「なぜ、ここに……」

 しばし呆然としていたサハトは、やっとの思いで言葉を紡ぎ出した。嗅ぎ慣れない濃い血の臭いに顔面をヒクヒクと痙攣させながら、しかし表情に色はない。

「なぜも糞もない。空間変異の可能性を秘めた事象を、私たちがむざむざ見過ごすわけがあるまい」

 何事もなくそう言ったミコノは刀を鞘へと納め、その場から離れていった。その目標は忌肉たちが跋扈する部屋。

 彼女もまた、その部屋こそが根源だと気付いている。それを察することが出来ても、サハトには何をすることも出来なかった。

「……そうか。ならばやはりフリードリヒは」

 分かっていたか、と最後まで言わずにサハトはその場にへたり込んだ。

 もはや抵抗は無駄。そもそもその気も起きない。一片の感慨すらも感じられないほど呆気ない結末に、自身の無力さに打ちひしがれることも出来なかった。

 しばし放心。するとじきに、廊下の窓から光が差し込むのが見えた。それは空間変異の力を垂れ流す忌肉たちが駆除されたことの証明。計画の終わりを示す合図であった。

 サハトは眩しさに目を細めながら、一度息をつき、目の前の光景ではなく、ツルギを見た。

 少しだけ悲しげな目で、その背中をじっと見つめ続けた。



「失敗した。……ええ。ミコノ・ジングウが現れて」

 鬱蒼とした森の中で、電話を手にした少女は不機嫌に言った。

「やっぱりプロトでは駄目。相手が相手、とはいえ何もできずに死んだよ、全員ね」

 そう言いつつ、視線を別の方向へと移した。その目で捉えたのは少し遠くで泣く齢10にも満たない幼女。

「……え、この後?知らない。何も言われてないもの。私にはもう関係ないから、電話切るよ」

 相手からの返事を待たずに電話を一方的に切ると、「あーあ」と面倒くさそうに感嘆。そして泣きべそをかいた幼女の元へと近づいていった。

「アンタはいつまで泣いてるの。もう終わったんだからしょうがないでしょ」

「……そんな」

 俯く幼女に悲壮感など感じることもなく、少女は冷たく見放す。

「所詮は他人じゃない、アンタたちなんて。てか、泣いてやる必要ある?なくない?」

「お姉ちゃんたちは他人じゃない、わたしの家族だよ」

 か細い声は、震えながらそれを否定した。だが、そこに強い意思などはない子どもの言葉でしかなかった。

「なに、口答え?……まあいいけどね。もうあんたも用済みだし」

「……?」

「そりゃそうでしょ?アンタたちの能力は『共有共鳴』。しかも、他のプロトたちがいなきゃ発揮できない出来損ないの能力なんでしょ?なら、生きていても仕方なくない?」

 その言葉は先ほどと同様に説得をする、というよりは決めつけるような口ぶりだった。

「できそこない……わたし、生きたいちゃだめなの?」

 弱々しく目の前をモノを見つめた瞳には、傷心が伺えたが、そんなことはどうでも良いとばかりに息をついた。

「言わなくちゃ駄目なわけ?それをわざわざ?……まあもういいわ、ガキの相手って疲れるのよね」

 そう言って前髪を上げると、額の割れ目が開く。現れたそれは双眸とは別の、第三眼。その眼に見つめられた幼女は事切れたように、たちまちに崩れ落ちる。

「優しいでしょ?せめて最後は穏やかにしてあげる。……でもその代わり、その身体は好きに壊してもいいわよね?」

 怪しげに笑い、小さな身体に手をかける。破壊したい。殺したい。ぐちゃぐちゃにしてやりたい。

 今にも暴れ出しそうな欲求を発散させようとしたそのモノは次に、背後に対して機敏に反応した。

「いや、それでは困るのだ」

 急遽として現れた人の声。振り返ってみれば、そこには一人の男がいた。

 その顔、その出で立ちは自身もよく知る人物。少女は驚愕に表情を歪めた。

「お前……!?」

「喋らずとも良い。お前のことはよく知っているつもりだ、幽妄刀姫フロンよ」

 声の主はいつもの調子で、その脚を確実に、一つ一つを踏みしめた。躊躇いはない瞳が、無言の圧力が、ゆっくりと歩み寄る。

「どうして……!」

 フロンはその者の登場に激しく狼狽えた。その者のことは知っているが故、今の状況がまさに危機的であることは自明であった。

 自身の能力は、彼には決して届くことはない。そして単一な戦闘において、自身に彼に勝る術はない。

 ならば、逃げに徹するしかない。

 すでに幼女への執着は消え、思考はそれのみに注力。撤退のみがこの場における最適解だと、本能が語る。

「知っているはずだ」

 即座に背を向け、去ろうとしたフロンをもう一度声が呼び止めた。

「能力の本質は『確率を付与する』のではなく、その本懐は『1か0かを決定し、付与する』力だ」

 だから無駄だと言いたいのか。フロンは滲ませた汗を振り払うが如く地を蹴り、脱兎の如く逃走を開始。

「触れられていなければ、問題はない!」

 フロンは木々が生い茂る森の中を駆け出した。

 もっと速く、もっと遠くへ。他のことなど目もくれず、ひたすらに逃避。

 例え奴が歴戦の覇者であったとしても、容易に捕まる筈がない。何故ならば、自身は幽妄刀姫。前時代の、規制のない時代にうまれた幽鬼シリーズの一体であり、ひたすらに強さだけを求め、作り出された一体。ことスピードに関して言えば、我らと競える者はそうはいない。

 その考察に自身の過大や相手の過少は微塵もなかった。それは知りうる知識と積み重ねてきた経験による知見とを組み上げ、導き出した答え。本能と行動すらもがそれに応え、一にも二にもなく、疾走する。

 だがしかし。

 どれほどの長く生き、多くを見聞きしてきたとしても知り得ないことはある。刀姫として数十年生き、その粋を集めたとしてもどうすることも出来ないことはある。

 フロンはその後に、それを知った。

「能力とは、使いようだ」

 既に10kmほども遠く離れた地。安堵などしていないフロンの元に、その声は未だに届いた。それは自身の前方から。

「1か0を決定するとはつまり、世界の在り方を決定する能力。ならば、どれほど高度な能力であったとしても、そこにどれだけ差があろうとも関係はない。貴公に劣るものが俺にあるならば、貴公を超える力を決定し、付与すれば良いのだからな」

「な……は……?」

「意味が分からんか……まあ俺もだ。だが理屈は分かるだろう」

 朗らかな顔で、男は笑ってみせた。

 先ほどはなかった角を指で擦りながら、『覇道』の男は、フリードリヒ・バルバロスは、漫然と立ち塞がる。

「悪いが貴公には、ここで消えてもらう。厄介なのでな。その方が後々の都合も良いだろう」

「……助けてください」

「駄目だ。死ね」

 消え入りそうな声での懇願が即座に拒否されるのと同時に、絶望に見開いた目は、そして色を失った。力の塊となった男を前に、フロンは走馬灯を浮かべ、やがて現実に帰るとともにその心臓を打ち抜かれた。

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