第2話『黄金の城』-その7

 不意に意識を覚ますと、硬いベッドから飛び起きて辺りを見回した。そこはレリジョンでの調査おいて拠点としていた古民家であった。

 一瞬の間に覚醒した脳裏を駆け巡るのは、先刻の記憶に加えて先ほどまで見せられていた記憶。ツルギの脳内ではその二つは完全に一つとして同期しており、どこまでが現実であり、どこまでがそうでないのかが不明確になっていた。

 出来ることならば、最後の結末は夢であって欲しいと、そう願うしかない。

 そうでなければ────。

「……っ!」

 唐突な目眩に襲われ、片膝をついたツルギは急激な胃痛と吐き気に抗うことも出来ず、胃液を盛大にまき散らした。そこへ襲う寒気と頭痛、胃液によって焼かれた喉の痛み。

 しかしのたうち回る気力も、悩み苦しむ時間も、今はない。

 ツルギは酸味の残る唾を吐き捨て、重い身体を起こし、机に置いたままのノートへと手を伸ばした。その中身はレリジョンに関する調査日記で、状況の再現をするためにツルギが書き綴ったもの。その日記を一から順番にページをめくっていくと、要所要所で身に覚えのない文字が書き起こされていた。

「…………」

 まだ辛い唾を飲み込み、その文字を追って行く。紛れもなく自分の字で書かれているのは、レリジョンの記録日記。そして「現実のものではないはずの記憶」と合致する内容のざっくりとした短い文章。

 日記は現在の記憶と空想の記憶とが混在した状態になっており、そして日記はレリジョンを訪れてから10日目に、途切れている。

 ここがまさしく、完全に術中に嵌ってしまった時なのであろう。

 時計で日付を確認すると、日時は既に14日目の夜を迎えており、すると自分は4日もの間、現実に意識を置いてなかったことになる。身体が異様に重かったのは、おそらくそのせいであるのだろう。

 ツルギはノートを置き、ベッドへと腰掛けた。まずは身体の栄養を補給をしなければならない。そして現実に起きている事態を今一度整理する必要もある。

 しかし、それらよりも先にすべきことがある。

 ツルギは震える手を弱々しく握り込んで目を閉じると、一呼吸。そしてそのまま呼吸を一定に保ちつつ、瞑想を始めた。

 ツルギにとって目に焼き付いたあの記憶は、何よりも優先して処理しなければならなかった。



 レーションを口にしつつ、水筒から水を少量ずつ摂る。消化等の観点からすると、久々の食事としてはあまりにも身体に悪い。また気分も未だ優れず、口に入れるのことさえもがしんどかった。

 しかしながらそのような事を考慮する余裕はなく、とにかく無心でそれらを平らげる。かなり節約してきたので、食料や飲料水にはまだ余裕があるが、それでもこれより先の不安は拭えない。

 敵の術中にまんまと嵌り、精神面のダメージは深刻。身体に外傷はないが、疲労は蓄積。身体は精神と結びつくものであるからして、優位性などはほぼ皆無。更に件につき、その極め付けはブローディアのこと。

「……ディア?」

 縋るかのような声で呼んでみたが返事はない。彼女もまた先ほどまでの自分と同じく、敵の術中に嵌っていることは明白であった。何度呼びかけても返事はなく、それどころか彼女の気配すらも感じられない。まるでそこに居ないかのようであるが、しかし頬の刻印を見れば、そうでないことも明瞭であった。

 単純に拗ねているだとか、からかっているだけであったならば、どれほど良かったか。

 これはツルギ自身にも想定できていない最悪の結果である。

 当然、任務失敗もあり得る状況であるし、それどころか自分はまた失う。大切なものを、かけがいのないものを。

「俺のせいだろ……!」

 ツルギは自身の髪を鷲掴み、苦しげに呟いた。

 そうなったのも全て自分のせいだ。

 幻術を扱う彼女は真っ先にその幻術にかかった。本来であれば、それは帰結としては有り得ないもの。幻術を扱うものは幻術には掛かりえないのが普通である。

 だが、現実はそうなってしまった。それは失望や悲しみ、怒りといった感情がブローディアの精神を弱らせてしまったからと結論付けられた。必死にそれ以外の原因も探ってはみた。しかしどうにも、それらしい要因はない。

 ブローディアは泣いていた。もしあの時もっと気遣ってやれれば、こうはならなかったかもしれない。指輪のことなど、気前よく許してやればこうはならなかったかもしれない。

 責め立てた者たちのせいとも考えた。しかし結局のところ、彼女のワガママを受け入れてやることが出来なかったのだから、今の結論は変わらない。いや、それよりも自分が初めからそのことを納得していれば彼女たちも深くは追求してこなかったはず。

 これはブローディアを許すことも、彼女たちを流すことも出来なかった自分の、人としての未熟さが招いてしまった結果。更に言うのであれば、最後に指輪を返されたあの瞬間も現状をよく呈している。なぜなら、自分自身がその指輪によって我に帰ることができたからだ。

 指輪を見ると、脳裏に染み付く記憶が込み上げるように大挙した。

 それに対し、手を抑えた胸で大きく深呼吸をすることでなんとか対処したが、胸焼けのような感覚からは脱しきれなかった。

 直因となるのは虚偽の記憶。それは今でも明確に記憶している。いかにも精緻なこのトラウマは、この先も随所で発起されることは間違いなく、夢だからなどと簡単に片付けられるものでない。

 だが。

 それでも、自身の人生においては、このようなことは一度や二度ではない。無論、慣れていくようなものでもない。しかしどうにもならないようなものでもなく、それを自分は知っている。それの対応もできる。ならば、まだ大丈夫。擦り切れそうな精神も、まだ限界ではない。

 ツルギは拳を握りこむ。感覚の弱い手を奮起させるように勢いに乗せて、何度もそれを繰り返す。やがて、今度は開くことが億劫になった手。その手を渾身の力を込めて更に握り、自身の心臓を位置を叩く。勢いをつけすぎたせいかその衝撃に咳き込むが、しかし死にそうな目にわずかに生気が宿る。

 何より、自分はまだ諦めてなどいない。幻術を抜け出すことができた現在の自身のことを考えれば、ここからの挽回も可能であるということは容易に想像できる。

「……よし」

 ツルギは息を吐き落ち着きを取り戻すと、脇に置いた資料と自身の日記を手に取り、現在の状況へと立ち返った。



 ミクロンから遠く離れた地、腐敗都市と呼ばれるレリジョンへ現地入りしたのは今から2週間前。そこで一日中を隈なく散策に費やしたのは5日間。そこで得られた情報は少なく、核心に迫れるものはなにもなかった。フライタッグの際を考えると長い調査期間であるが、人やモノの動きが全くない事情を考慮すればある程度は納得もいく。

 そこで今度は隠し扉の可能性を視野にも入れたが、しかしブローディアによればここまでの調査で禍の気配や刀姫の気配は感じ取れないとのこと。広く荒廃した地で、隠し扉など探そうとするならば、せめて何か手がかりが欲しい所であるが、しかしそうもいかないのが実情である。

 こうなると既に撤退をしたものとさえ思え、途方にくれたツルギたちだったが、調査を打ち切るにしてもその判断材料すらあまりに少なすぎた。

 そして8日目。そこから事態は悪化した。ブローディアからの信号が途絶えたのだ。

 初めはそのことに関して特にツルギも気にしてはいなかった。というのも、彼女が気分と機嫌次第で無視を決め込むことなど珍しいことでもなく、また何か気に食わないことがあったのだろうと軽く推察してしまっていた。しかし、9日目にして全く反応を見せない彼女に、明らかなる異常性に気がついた。何度呼んでも、何度問いかけても、彼女少しの反応も示さなかった。そして10日目にて、自分自身の精神もが陥落した。

 何事もなかったことが、急変する様はまるで幻術のそれ。狐につままれた気分とでも言えばいいのか、まさしく今でさえ実感として捉えきれていない。過去の記憶と完全に同期してしまっているが故に、日付感覚もおかしい。しかし日記を付けていたのが功を奏し、発生の顕著は明らかである。

 自身の記録を読み苦虫を噛み潰すような顔をしたツルギは、次に調査員の日記と自身の日記を見比べてみた。

 おそらく、彼らの身に起きたことと自身への作用は同一。その内容は異なるものの、それが深層心理による差異であるとするならば、そこを追求する必要はない。

 ただ一点、調査員と自身の間には明確に、異なることがある。それは街自体の様相の変化である。

 調査員の日記によれば、どういうわけかこの街には人がいた。街は動き、そして機能していた。それはフリードリヒや自身の観点とは明らかに異なる点である。

 故に、ミクロンでの議論には「空間変異」が挙げられた。

 今一度、これについて考える必要があったツルギはその議中では「空間変異」について、詳細を聞き及んでいる。それによれば、この空間変異は二段階の力によって成る。

 まず一段階目は幻術能力。これは一般的に理解される「脳へと直接作用する幻術」ではなく、その幻術は空間へと作用される。これはつまり、虚構の空間を現出させ、それを介して脳へと作用させるというもので、先にも解説された「空間そのものを切り取り、現実でないものへと変異させる」といって差し支えない内容のもの。ブローディアの能力でもそれ自体は似たようなことは可能であり、先の一件、フライタッグでもそれはやってみせたものだが、しかしその本質は絶対的に異なるものである。ここが大きなとなるが、この幻術は対象を持たない。通常であれば、幻術は着目や意識を向けることが前提とされる。故に一つ一つを対象とする他ないしか取れないが、それとは異なり、空間変異においては幻術とする範囲に入った時点で既に術中に入れることができる。しかもそれがどれほど多くの者であっても変わらず、内容も同一化される。多人数の中であっても、褪せることのない幻術。それは普通の幻術ならば困難を極める技術である。

 この時点で既に強力にして無比。しかしその本懐は、むしろその先にこそあった。

 その能力の第二段階目。そこで

 それを聞いた当初、首を傾げたツルギに対し、フリードリヒはこれらの能力を食事に置き換えて説明した。

 ブローディアの幻術、つまり一般的な幻術によって虚構の食事をさせたとする。仮に五感を司るほどに強力な幻術であれば、その力は食事とほぼ同一の結果を得られる。満腹中枢は刺激され、それによって満足感も得られる。しかし、現実として胃の中には何も入ってはおらず、身体が錯誤しただけであるからして、栄養の摂取はなく、幻術下でなければ身体はすぐにでも次の食事を求める。しかし空間変異では、その空間での食事の感触は勿論であるが、同時に胃に食べた物が蓄えられる。そこから栄養を摂取することも当然可能。つまり現実と完全に同一の結果を得られるのだ。

 こういった力の存在を知ったならば、刀姫開発をしようとする者がいることにも納得できる。夢のような力でかつ途方も無い力だ。この世のあらゆるエネルギーはそれによって紛うことができる。しかも中身そのものが幻術であるならば、いかようにも形を変えることができる上、無から有を無限に創出できる。まさしく創世の力だ。

 馬鹿馬鹿しい御伽噺のように思える力は、しかしかつて実在していた。かの能力を保持していたモノ、『超源刀姫』はこの力を発揮し、時に希望を、時に絶望を神のごとく与えた。

 ここまでを聞き及んだツルギにその突破口は掴めず、万象の力であると感じ尻込みしたが、その脅威を語るフリードリヒは一転してこの能力には明確な弱点が存在することも語り、そしてそれ自体はのようなものと言い換え、さして難しい事でもないと彼は言い切った。

 その弱点とは幻術自体の脆弱性。そしてその対策となるのが、空間変異の基となる幻術自体を認識することである。

 空間変異の幻術は通常の幻術とは異なり、空間を介して脳に作用されるものである故に、作用そのものは弱く脆い。また脳へと個別の信号を送ることも力の強弱を調節することも不可能。これは自動化される特性が由来しており、単一化でない故の欠点である。そうとするならば、通常の幻術と比べて抗うことは容易。それこそ事前に理解している状態であれば、幻術にかかりにくく、なおかつ脱しやすい状態となる。

 これらの要素を自身の身に起こったことと当てはめる。しかし、どうにも合致はしない。ブローディアと自分とで現時点で既に認識の差が生まれ、そして先に見た幻術では、ツルギとブローディアは完全に切り離されていた。これは空間変異による作用ではない。しかし、調査員と自身との間には明らかに異なる認識の齟齬が生じている。その理由はおそらく、空間変異を認識しているかそうでないかの違いによるもの。

 ともすれば、考えうる事は一つである。

「空間変異と幻術の……複合か」

 レリジョンの展望もこれで見えてきた。

 術者は最低でも二つ。それらを取り持ち、まとめ上げる存在が最低でも一つ。また件は組織として動いている可能性も大きい。それを考慮するならば、敵性者は無数と仮定しても問題ない。

「難しいな……」

 しかしツルギは苦しげに呟いた。

 組織を相手取ることは調律師であるツルギにとっては、特に脅威ではない。むしろブローディアの能力は、単独行動により、より力を発揮できる。当然、フリードリヒはこのことを考慮済み。ツルギとブローディアの能力を鑑みて派遣した。

 しかし、今は違う。

 ブローディアは完全に沈黙。手慣れているとはいえ、彼女の力が無ければ、ツルギの単独行動はかなり制限され、作戦続行は困難を極める。

 では撤退をするべきかと言われれば、そうでもない。なぜならば、この場が既に空間変異による影響下にあるからだ。

 フリードリヒの弁によれば、レリジョンの空間変異は前例のものとは異質であるらしい。

 そう思わせた起因となるのは調査員の一人、日記上ではリーダーと呼ばれた者。日記によれば彼は流行病により、調査を離脱したが、現実として彼の身には病の跡はなく、健康そのもの。日記の内容との齟齬は空間変異によるものと推察できたが、しかし近辺の森で彼は変死体として確認されている。

 死因は不明。心臓の脈動は止まり、脳波もないことからも死んでいることは確実であるが、しかし原因の特定は出来なかった。彼自身に持病の類はなく、急性の心不全として収めるしか出来なかったが、しかし、このタイミングでの心不全は明らかに不自然。

 フリードリヒが語るにはそれが空間変異の効力でないとは言い切れないとのこと。この結果は空間変異から抜け出すと、死に直結する可能性の示唆になった。自身の場合、今の見識からして、それが幻術による作用でないとも言い切れない状況になってしまっている。

 つまりブローディアは人質も同然で、何にせよ、撤退を決定するにはあまりにリスク面が大きかった。またこの場を自分一人で生き延びたとしても、その先にあるのは絶望でしかなく、ツルギ自身、その選択は絶対的にありえない。

 例え自身の命を失ったとしても──。

 そう思った時、頬にジワリとした感触を感じた。冷や汗でもかいたのかと思い、手の甲で拭ってみるも、そこに水滴の跡はない。

 そして「そうか」と納得した。これはブローディアとの契約の証。すると今思ったことはブローディアとの契約に反する行為である。だから刻印は反応した。死んではいけないと、声は無くとも、そう言われている気がした。

「……死なないよ」

 ツルギは軽く笑み、そして呟いた。

 死なない。死んでたまるか。自分にはまだしなければならないことが沢山ある。それにブローディアを一人になんてしておけない。彼女は自分ことが大好きだから、きっと思い出す。思い出してくれる。

 今までの軌跡、その誓いを。

「よし」

 ツルギは広げた資料等を片付け、立ち上がった。万全とはいかないまでも、しかしその心身は上向き。

 現世に立つ足に力を込めながら、ツルギは次へと行動を移した。

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