第2話『黄金の城』-その5

 目を覚ますと、そこは見慣れた一室。

 フリードリヒ公直下にある領域「ミクロン」の城である。その部屋はそこを訪れる際に常にツルギが通される部屋であり、もはや専用の自室のようなそこは今もなお変わらない間取り、家具の配置となっており、ここへ来るごとに安心感を覚える。

 ツルギは自身の身体に鈍さを感じながらも起床。部屋を見渡す。

 時刻は現在、早朝5時を回った辺り。外はまだ薄暗いが、これから太陽が昇り始める予兆を感じさせるほどには明るい。部屋の中央に位置する机には、整備されたツルギの武具と衣服が置かれている。

 そこに手を伸ばそうとした時にようやく、自身の身の異変に気がついた。生傷の絶えない背や胸、頭には包帯で巻かれ、それから頬にも大判のパッドを貼り付けられた。

 俺は、負けたのか。

 ツルギは自分の姿を見て、まずそう思った。何に敗れ、何を成せなかったのか。今まで何があり、どのような顛末を迎えたのか。

 その一切は不明。逸りかけた心臓を落ち着かせるべく、ベッドに座り思考を巡らせてみたが、やはり分からない。

「そうだ……」

 聞けばいいのだ。彼女ならばそれも知っていることだろう。

 思い立ったツルギはその名前を呼ぼうとした。しかし、その「彼女」が誰なのかも分からない。

 言い難い、妙な感覚だった。今まで経験はないが、それは記憶の書き換えがされてしまっているような───。

 そこで急な目眩に襲われ、ツルギは半ば強制的に思考を打ち切った。倒れそうになった身体を机にもたれかかることで何とか支え、息苦しさから逃れるように、深呼吸を繰り返す。

 もしかしたら、これはトラウマによる反動なのかも知れない。冷静になろうとする思考がそれを想起させた。何せ、この身体の疲労である。精神さえも疲労し、傷ついていても可笑しくはない。それに、もしそうであるならば、記憶がないことにも説明がつく。

「クソ……参ったな」

 頭を抱え、一人呟いた。

 こんな時にでも、誰か気の知れた人でもいたならば、少しは目覚めも違うのだろうか。

 そんなことを考えていたその時、部屋の扉が静かに開いた。

 入ってきたのはよく見知ったはずの、しかし今まで遠く及ばなかった少女、最愛の妹であり最強の妹でもある、マコト・クレミヤだった。

 伏せていた視界にツルギの姿が映るや否や、彼女は目を丸くした。

「兄様……?」

 その姿を見て、ツルギの心臓が跳ね返った。

 何がなんだか、全然分からない。

 複雑化していく思考に、ツルギは更に頭を抱えると、マコトはすかさずツルギへと歩み寄った。

「兄様、寝ていなくていいのか」

「……ああ」

「そうは見えん。顔が真っ青ではないか」

 出来るだけその姿が視界に入らないよう目を手で覆うと、マコトは正面から顔を覗き込んだ。

 それに得も言われぬ感情に襲われた。喜びとも憎悪ともつかないそれをツルギは知らない。

 ただただ、酷く胸が苦しい。ひたすらに、頭が痛い。

「兄様……?」

「……俺に寄るな、マコト」

 ツルギは彼女こそがこの症状の原因と悟ると、傷つけると知っていても、拒否せざる負えなかった。

「……すまない。私に心配する資格などないな。誰か呼んでくる」

 ツルギの言葉に対し、マコトは表情は変えずにそう言い、立ち上がって部屋を後にした。

 一人になっても熱は冷め止まず。ツルギは次第に朦朧した視界に委ねられるがまま、その意識を閉じた。



「記憶喪失か」

「おそらくは……」

 医師が言うとフリードリヒは難しそうな表情で腕を組み、唸った。

「たしかに境遇を思えば気持ちも分かるが……そうか……」

「俺は一体、何をしていたのでしょうか」

 項垂れたツルギが弱々しく言うと、フリードリヒは少し思いとどまってから言葉を発した。

「もしかしたら、何かトラウマとされる要因がそうさせているかも知れんし、今は知らない方が良いだろう。とにかく今は休め」

 ツルギが肩を落とすと、フリードリヒは笑いながらその肩を叩いた。

「そんな顔するな、ツルギ。お前は今確実に良い方向に進んでいるんだ。何も不安がることはない」

「……そうなのでしょうか」

 それでも浮かない顔をしたままのツルギに、フリードリヒは今度は微笑んで見せた。

「うん、それは間違いない。お前は妹を救ったのだ」

「マコトを、ですか」

 頷くフリードリヒに、強い違和感を覚えた。無論、その理由は分からない。

「さて、では俺は戻るぞ。お前はここで休んでおけ。その内、誰かしら面会に来るだろうしな」

 これから、自分はどうなるのだろう。

 フリードリヒが医師とともに部屋から出ていったのを見送ったその後、ツルギはただ虚空を見つめ、ぼんやりと考えた。

 世界に定着しないような不安定さがありつつも、この世界に確実に根付く存在。そんな自身の身が不安でありながら、しかし身体はその思いに付いていかない。久しく忘れていたような、懐かしい感情である。

 このまま流れに沿っていけば何とかなるのではないか、などと思いもした。しかしそれでも脳裏に張り付いた気持ちは晴れない。

 思考が一向に纏まらないまま、無為な時間を過ごしていると、フリードリヒの予告通り、ツルギの元へと様々な人たちが訪れた。

 その一番初めはアイリーンだった。彼女は目が虚ろなツルギの姿を見て、甲斐甲斐しくも優しく語りかけてきた。

 次にテンカク。部屋の外で従者たちとの押し問答の後、彼女は一人で部屋へと入室。力のない自身の手を握りながら、思い出話を語った。

 その後も、アルベールヴィル、クロイツ、ミコノといった旧友たちが。エマやマーリャン、クルーエル、ヴァンといった面識はないが、ツルギに強い共感を抱くものたちが。バロンズ、ゼスロスといった有力者たちが。同級生たちが、後輩たちが、恩師たちが。

 皆が皆、ツルギのためにとその元へと訪れた。

 その時には、ツルギが記憶喪失ということで、彼らは様々な思い出話をした。どれもこれもあまり実感として沸かないものばかりだが、しかしそれでも、そのおかげで自分という人物の概要をある程度は掴めてきた。

 自分はそれなりに優秀な武人だった。我は強く、時々自信家で、時々皮肉屋。基本的には一直線で真面目な性格だが、自分だけのこととなるとかなりズボラで、さらには優柔不断。スケベな男であるが、それでいて奥手なムッツリスケベ。女性の身体では胸が好きらしく、その中でも特に大きものが好み。

 それが彼らの話を聞いていた上での、所感。

 これが歩いてきた道中。これがツルギ。

 透明だった身体が色づくような感覚であった。半信半疑であるはずの形作られた人物像は、何故だか自分にしっくりきた。

 それにより、夢から覚めたような感覚を得ると、今朝のことが嘘であるかのように夕刻の食事に手をつけられるようになった。不安や虚ろな感情、精神もそれなりに回復。

 その晩、共に食事を摂ったフリードリヒはその変貌に驚いていたが、ツルギ自身にもその意味は分からなかった。ただ一つ、憶測を言うのであれば、自分は安心したのだと思った。この世界の地に足をつけられたような気がして。この世界に認められたような気がして。

 実に単純な生き物であると自分でさえも思うが、それも自身の性格であるとするならば、納得もいく。

 フリードリヒもそれをいい傾向と考えたからか、そのことにはあまり踏み込まず、そして食後の団欒の際、話を次に移した。

「明日、お前のご両親が来るそうだ」

「両親……?」

 自分も人の子である。それがいるのは当然であろうが、それを改めて耳にすると、突然またも得も言えない感情が生まれた。

 そうなる訳は分からないが、しかしその感情は理解できる。嫌悪感、である。

 フリードリヒはツルギの表情を見てか、両親とツルギたち兄妹の話を始めた。

 両親は当時、ツルギが4歳になろうという頃に経営していた会社の破産。そして産み育ててきたツルギとマコトはこれから来るであろう危難から避けさせるために孤児院へと預けた。ツルギとマコトはその後、士官学校へ進み、兄妹揃って独立。

 両親は借金返済の宛を見つけると、十数年の時を経て、親と子は再会。その手助けはある者がしていた。

「思い出せんか?」

「……まったく」

 フリードリヒの問いにツルギは首を振った。

「ふむ……まあそれはいいのだが、事実として理解はしておいた方が良いな」

「それは……まあ、そうですね。それで、そのある人とは誰なんです」

 感情としては納得出来なかったが、それには同意せざるを得ない。おそらく、この心境もきっと何かの認識違いが生んだものでしかないのだろうと考えると、そこを追求するのは建設的とは言い難い。

「お前の幼なじみなんだが」

「幼なじみ……やっぱり分かりません」

 再考してみたが、やはり思い当たらない。

 答えてからコーヒーを啜ったツルギを見て、フリードリヒは少し口角を上げる。

「……お前の恋人でもあってだな」

 その呟きに、ツルギは思わず飲んでいたお茶を吹き出した。

 唖然としたツルギの反応に、フリードリヒは大笑い。そして、もう一度突きつけるかのようにその恋人のことを話した。

「驚くのも無理はないな。お前は優柔不断だったから、俺も聞いた時は驚いた」

「……どんな人なんですか」

 辺りに舞った飛沫を拭き取りながら、ツルギが神妙に問うと、しかしフリードリヒは面白げに喉を鳴らした。

「まあ、焦らずとも明日には会えるのだ。お前の両親はその子が連れてくるのだからな」

「……」

「まあ心配しなくてもいい。お前には勿体ないくらい良い子だ」

「……そうですか」

 恋人がいる。

 そのことはツルギを殊更に不安にした。

 それは彼女がどんな人なのか、ということではなく、果たして彼女が自分を受け入れてくれるかという問題だった。

 結局、今の自分にはその子との思い出も、思い入れもない。どんな風に接すれば良いのか、どんなことを話せば良いのか。元々がない自分にはそれが分からない。

 以前と変わってしまった自分は、以前と変わらない恋人に拒否されるかもしれない。

 その思いは解消できないまま、そしてツルギは明日を迎えた。

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