第1話 エピローグ
・夢
夢を、見ていた。
儚く光る背景の中に、一人の男と少女がそこにはいた。少女は泣き、男はそれを前に立ち尽くす。
それが誰なのか、この泣いている少女は誰なのだろうか。
その時、すぐに想起されたのはイヴィリアだった。彼女に泣いているイメージが強いから、そしてツルギの身の回りの女性は皆が皆、強い芯を持つ人たちばかりだから、そう思ったのだろう。
やがて男は少女の手をとり、奥へ奥へと進んでいく。
自分でも分からないが、何故か二人へと手を伸ばす。しかし手は二人に届くことなく、そして何処かへと消えていった。
一人になった自分はというと、ただ漫然とそれを見送ることしか出来なかった。
いつか、自分は一人になるのだろうと、その時思った。ミコノやフリードリヒ、セリスや旧友たち、そしてマコトとも。全ての人たちとは別たれ、そしていずれ、一人になる。
「ツルギ」
不意に聞こえてきた声に振り返ると、そこには先ほどの子とは違う少女がいた。はっきりと見えるその顔には見覚えがある。しかし、彼女は誰なのか、自分とどういった関係なのかは分からない。分からないが、しかし不思議と自分はその手を取った。それはごく自然としていて、その誰かも、手を振りほどいたりはしなかった。
「行こう、ツルギ」
「……ああ」
人らしからぬ、冷たい手に引かれて、進む。
何処でもない何処かへ──。
・病室にて
意識が覚醒し、やがてツルギは重くなった目をゆっくりと開いた。
目の前に広がるのは歪む景色。飲み込めない状況を整理するため、瞳を閉じ、口を開いてゆっくりと深呼吸。未だ夢心地の脳へと酸素を送り込むことに集中する。
次第にクリアになっていく思考をまとめ上げ、もう一度目を開く。
今度は鮮明に見えた。
そこは見たことのない、天井だった。すぐそこの窓辺からは暗い空からさす月の光も見えた。
時刻は夜。静けさが包むここは、おそらく何処かの病院の一室なのだろうと、そこでようやく理解でき始めた。
「ツルギ……」
かけられた声に応えて、そちらを見てみると右隣ではブローディアが自分の手を優しく握りながら、寄り添うようにして眠っていた。変わらない様子ではあったが、目元は僅かに腫れぼったくなっており、それを見て随分と心配をかけたようだと他人事のように思った。
「……ディア?」
上手く声を出せず、か細い声で呼びかけたが、それに対する反応はなく、その代わりに肩に頭擦り付け、幸せそうな表情をした。
その様子を見て、起こすのも可哀想だと思い、そのままにしてやることにした。こういうのも、悪くないだろう。
「少し、よろしいでしょうか」
ブローディアの温もりに安心しきっていたツルギは、もう一つの声に飛び出すような強い心拍を受けて振り向いた。
その視線の先にある影。その者はゆっくりとお辞儀をして、言葉を失ったツルギに再度問いかける。その顔は暗がりのせいか、よく見えない。だが、その者に敵意はないだろうということはすぐに分かった。
「お目覚めのところ、申し訳ございません。事後の報告をしたく思います。お時間いただいてもよろしいでしょうか」
良いかと問われれば良い。ツルギもそれは気になるところではある。
しかし、それよりも先に聞いておかなければならないことがある。
「あなたはフリードリヒ候の使いの……?」
「……失礼致しました。私はフリードリヒ公に雇われ、今現在はテンカク様の元で仕えてさせていただいている者です」
「……テンカク?」
テンカクという名に聞き覚えはある。テンカクとは、この世界において最高権力を有する者のこと。
現今のテンカクはツルギ自身も少しだけ、関わりのある人物であるが、しかしなぜわざわざテンカクの使いが事後報告の役目をしてしるのは不明であった。
こういう時、大抵はフリードリヒ候直属の者が来るはずである。
「はい。私はテンカク様の命により、フライタッグへ潜入しておりました。その折にあなた様に助けられましたので、テンカク様直々にそのお礼をしなさいと仰せつかわれました。ですので、テンカク様の使いである私めが、件の事後報告をさせていただいております」
こちらの意図を悟ってか、その者は丁寧に説明。そこで内情を掴んだツルギだったが、一方でその代わりに分からないことが発生した。
「俺が助けた?……あまり身に覚えはないが」
「いいえ。私はたしかに、あなたに命を救われましたよ」
「……結果的に助けられたってだけではなく?」
「それも違います。私はあなたに退路をいただけたお陰で、今もこうして生き長らえました」
それを聞いて、ツルギにもやっと察しがついた。確かに、自分はこの者を助けた。
「もしかして……信者の」
「はい。そうです」
ツルギの言葉に肯定。依然、その顔を拝むことは出来なかったが、声からして、笑みを見せているようにも感じられた。
「そちらの件、誠にありがとうございます。テンカク様からもお礼のお言葉をいただいております」
「……分からなかったよ、全く」
流石とでも言うべきか。彼は巧みに潜入し、そしてツルギの尋問の際も、片時もその仕草を見せなかった。
深々と頭を下げた彼にツルギは感嘆の声を上げるようにそう言うと、やはりよくは見えなかったが微笑んでいるようだった。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、しがいがあります。……さて、では本題へと参りましょう。あの後のことをお話ししますね」
「お願いします」
ツルギは柔らかな枕へと再度頭を埋め、そして端末を聞いた。
あの日から、ツルギは一ヶ月ほど眠っていた。まずそこに驚いたが、それはともかくとして、その間に調べられたこと、判明したことを事細かに彼は伝えた。
それらの事件の概要は、ほぼツルギが知っていたことと合致。しかし、そこにマコトの計画は含まれていなかった。
迷ったが結局、そのことを付け加えるように話すと、男は驚くことなく、ツルギに感謝してそれを報告紙へと綴った。そのことに不審に思ったツルギはそれを指摘してみると、テンカクとフリードリヒ公はそれに関して認識していると話した。
そこで悪寒を感じたツルギが、イヴィリアは今どうしているかを聞くと、男は「ご安心ください」と言ってから事件後の彼女を解説した。
イヴィリアは事件の後、一週間後に目を覚ました。それなりに憔悴していた彼女だったが、事件の重要参考人として、その身は退院と同時に確保。全滅の一途を辿った民たちの中で一人、唯一の生き残りであった彼女を疑わしく思ったのだろう。さらに件は管理責任を問われる事態にもなった。それに対して、上層の者たちの意向によりイヴィリアへと世間の目を向けさせるべく作為。彼女の身は、ここ一帯を取り持つ者の支配下であるだけに、そうさせることは容易かった。
しかしそれを取り持った者がいた。フリードリヒ公である。件の解決を導いたツルギが彼の有する組織の一員であることを理由に、彼はそこに無理矢理割り入った。それが出来たのも全て、事件が収束すると同時に既に彼は動いていたことが起因する。つまり、今回の件をフリードリヒは認知していたのだ。
手始めに、彼は直属の部下を通してイヴィリアに接触。イヴィリアの告白により、退院するよりも先に彼女の真意と此度の真相をフリードリヒ公とテンカクは把握した。
そこから彼らはイヴィリアの身を守るためように立ち回った。周到かつ柔軟な対応とテンカクの後ろ盾もおかげで彼女の身は無事解放。今はテンカクの領域で保護されている、とのことだった。
また、彼女の身に宿っていた禍と産まれかけていた禍人は手術によって摘出。完全に禍を取り除くことは出来なかったが、日常生活に問題がないほどにまでなっているのだとか。
結局、イヴィリアの告白は彼ら以外の者には口外されていない。それもまたフリードリヒ公の差し金である。
例え世界を欺く結果となったとしても、それは懸命な判断であると言えた。もし彼女がそれを話せば、世界は混乱する。世間はイヴィリアという共犯者を的に攻撃するだろうし、そして彼女はマコトと関わった犯罪者として、罰せられる可能性すら考えうる。
それは違う、と当事者の一人である自分は思う。だが、何も知らない世間は、拠り所を求める人々の目はそうは思えないだろう。
世界は今も。いつでも探している。マコトという災厄の禍人を叩き伏せる瞬間を。彼女という悪の尻尾を。
ともかく、一部始終を聴いたツルギは安堵。
自身が守ろうとした命が救われたことに、強い充実感と達成感さえ感じた。ただし、それは自分だけの力ではない。自身を取り巻く人たちによってそれは成し遂げられたのだ。
ツルギはそのことについて、感謝の念を伝えると、男は頭を下げ、「伝えておきます」と穏やかに言った。
その後、男は話し終えると、速やかに退場した。気配りも周到である彼に、最後、名前を聞いてみたが、それだけは断られた。理由はみだりに情報を露出してはならない決まりであるから。彼が一流の諜報員であることを考えれば、その対処は当然である。
男の退出後、二人きりになったツルギは、傍らで寝息を立てるブローディアを撫でながら一人思う。
もし、フリードリヒ公が居なければ、イヴィリアはもっと悲惨な目に遭っていた。こうして自分が寝ている間にも彼女は危難に襲われていたのだ。
本来ならば、弁護は自らの責務としてやらなければならない筈だった。それは命を救う者の役目。自分で判断し、行動したことへの責任は、自分で尻拭いしなければならない。
思わず、ツルギはため息を零した。
しかしこうは思っても、今更ではあろう。今は自身の未熟さを呪うしかない。そして、一刻も早く回復に努めなければならない。
一月も眠っていたのなら、リハビリも相応に必要だろうし、感覚も取り戻さなければならない。そして三体の禍人たちと対峙した時に解放したあの力も───。
今にして思えば、それは醒であると推察できた。以前にも一度、その経験をしたことがある。
その時と今回ではその症状こそ違えど、しかしその感覚は一貫していた。学生の頃に発現したそれは目に見える全てが、まるで、現実のものではないかのようで、何とも筆舌し難い特殊な感覚は今でも鮮明に覚えている。
一度目の醒から随分と時間がかかったが、またその力を使えるようになったのであれば、まさに僥倖。それを認識し、次に進むことが出来たのならば、自身の戦闘はより幅を広げることも出来る。
「まだまだ、これから……だな」
呟き、ツルギは自分の手を見た。
今回の件は色々な意味で自身に大きな影響を及ぼした。その中で一つの成果を残せたことは、今後はプラスとなることだが、しかし反面で自身の未熟さを露呈させたことも、また事実である。
これから更に強くならなければならない。強くあろうとしなければならない。その重圧は尻込みしてしまいそうなほどに重くのしかかる。
しかし。
「……寝るか」
今は何を考えるより先に体調を整えるのが先決だ。いつまでもこうしている訳にもいかないし、ブローディアに不便をかけ続けるのも忍びない。明日になったら、彼女にも詫びをしなければなるまい。
強く握った拳を下げ、ツルギは目を瞑った。まだ疲れが抜けていなかったのか、直ぐに眠りにつけた。落ちていくその意識の中、ツルギはブローディアの手を握り返し、「また明日」と締めくくった。
・退院後、ツルギの自室にて
退院後、家へ帰ってまずしなければならなかったことがあった。それは様々な手紙と請求書の処理作業である。
フライタッグの事件から、帰宅までに二ヶ月ほど経っており、仕方ないことではあるが、何より水道、電気、ガス、新聞などの問題が積もっていたことはツルギにとって面倒この上なかった。惰性や習慣として取っていた新聞などは、丸々二ヶ月分がダンボールに詰められており、それを見るだけで億劫になった。
引き落とし式で支払えば良いだけなのだが、勝手に自分のものを持っていかれるのが嫌だった。しかし、こうなるとやはりそれも視野に入れなければならないのだろうか、とため息をこぼしながら支払いと各所の復旧を行う。
また、郵便ポストに詰められていた請求書やらチラシやらを整理していると、その山の中には三通の手紙があった。
一つ目は、セリスからの手紙。今回の依頼の料金の振込、その内約等を示されたもの。そこにあった振込額には色が付けられていたのを見ると、彼女が件を巡り様々と動いてくれたのだろうと察することができる。
そのことに感謝の念を抱きつつ、またそれとは別に手紙も同封されていることに気づいた。内容は「生還おめでとう」といった趣旨のもの。それもまたツルギにとって嬉しいものであることは言うまでもなかった。
こちらには後日メールを送るとして、二通目を開くとそれはクロイツからの手紙であった。何事かと開くと、それもまた「生還おめでとう」といった趣旨のものだった。彼は今、テンカクの元で科学者として働いていることからして、その耳にもフライタッグのことが届いていたのだろう。
有難いことだと、ツルギは思う。こうして数年経った今でも彼らは自分の身を案じてくれているのだ。
いずれまたテンカクの元へ行くことがあれば、連絡してみようと思いその手紙を置いた。
ここまでを考えると、もう一通はアルベールヴィルからの手紙かと思い開いてみると、その予想は外れていた。
手紙はフリードリヒ公からのもの。
それに記されていたのは、件の労いの文章と招集命令に関する記載だった。
招集日時は今日より一週間後。おそらくこれは、マコトが動き出したことを機にした発足なのだろうと思った。これの準備もしなければならない。
帰宅早々、様々な義務に苛まれることとなったが、それらはともかくとして。
「さて、と」
ツルギは郵便受けに入っていたチラシの数々を選別。さらに予め取り寄せておいたカタログを机に置いてからその前にどんと座った。
「何よ、これ」
ブローディアはそれを目にして、興味津々に顔を出した。
彼女を見やり、ツルギも口を開いた。
「約束しただろ。何でも買ってやるって」
「…………ああ、そのこと」
それに対して彼女の反応は、思っていた以上に薄かった。
ブローディアはツルギが意識を取り戻してから今まで、大きく怒ることも、安堵から泣くことも、盛大に喜ぶこともなく、毒気を完全に抜きただただしんみりとしていた。
始めは、病院という場であることや、こちらが病み上がりであることがそうさせたのかと思ったが、段々とそういう風でもないと分かった。しかしその心持ちはツルギにもよく分からず、とにかく元気を出して欲しかったツルギはこうして計画立てた。
流石に喜ぶのだろうと思ったツルギは、その反応に驚きを隠せなかった。
「ディア、やっぱり何かあったんじゃないか」
ツルギが何より危惧したのは、自分が寝ていた一ヶ月間に何かあったのではないか、ということ。しかしそれを聴いてみても、彼女は一向に答えようとしなかった。
「別に、何もないわ」
「……」
やはり、何かあったのだろう。
その面持ちは暗く、白い肌は以前に増して蒼白である。
「……ディア、選べ。何でも買ってやるぞ」
「……いらないわ」
「は?」
「何もいらない、あんたが使いなさいよ」
ブローディアは机の上にあるチラシやカタログから視線を外へと向けた。
どこか憂いげで、泣きそうになりながら、何処かへ行ってしまいそうなほど儚い表情だった。
「ディア、思っていることがあるならちゃんと俺に言え。言わないと分からないだろ」
「だから、ないってば」
「あるだろう、絶対にある。でなきゃ、お前がこれに飛びつかないわけないだろ」
「何よ、それ」
ふっと笑うブローディアは、ツルギを見つめた。その目に少しドキリとして、それを見返す。
しばらく見つめ合うと、彼女は口をへの字にしたかと思うと、堪えられずに涙を流した。
多分、今までずっと我慢していたのだろう。今までずっと不安であったのだろう。当然だと思う。自分は彼女の拠り所なのだから。自分なしには、もう彼女は生きられないのだから。
ツルギはその肩を抱き寄せると、何も言わずに唇を重ねた。それに一切の抵抗もせずに、ブローディアは身を寄せ、全身をツルギへと委ねた。
「不安にさせてごめん。今回はお前に散々迷惑をかけた。……本当にすまない」
散々言ったことだが、ツルギはもう一度、囁くように言った。するとブローディアはそれに首を振った。
「……違う。こうなってしまったのは全部私のせいよ」
目を伏せたまま、ブローディアは告白した。
「私が、ワガママを言わなければ、あんたはイヴィリアと会わずに済んだ。あんたが思い詰めることはなかった。サキュリスに回復薬を使うことがなければ、あんたはもっと楽をできたはずなのに。私のワガママに付き合ったせいで、あんたに危険な目に合わせてしまった。苦しい目に合わせてしまった。だから…………ごめんなさい、ツルギ」
そこでようやく、彼女の心中をツルギは知った。彼女は罪の意識を持っていたのだ。それは本来は持たずともいいものであるのに、しかし彼女はそう思わずには居られなかった。それを考えてしまうだけの時間はたくさんあった。そしてそれに苛まれてしまう時間も、膨大にあった。
「それは違うな、ディア」
ツルギは抱きしめた身体の心地良さを感じながら、続けて言う。
「今こうして居られるのも、イヴィリアを救えたのも、全部お前のお陰だ。もしもはない。お前と会い、契りを交わした日から、ここに至るまではずっと最良の道だ」
「……うん」
「だから、泣くな。お前が悲しんでいるのは、見るに堪えない」
「うん」
「お前に元気がないと、凄くしんどいんだ」
「うん」
「約束したこと、俺に果たさせてくれないか?」
「うん」
ブローディアは頷きながら、じっとツルギから離れない。
今はまだ、彼女が持ち直すのにも時間がかかるだろう。
ツルギはもう一度その手を握った。人らしからぬ冷たい手を、ずっとずっと、握り続けた。
第1話 エピローグ 終わり
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