第1話『異形たちの庭』-その7

 ・フライタッグ中央部にて


 ハードバリア社の研究所を出たツルギは外の光に目を細めた。

 不本意の結果となったが、敵性者の内の一人を退けた結果は大きい。それ加えて、忌肉の大量排除もできたことも考えると戦果としては上々である。

 しかし胸に残るシコリを、感じずにはいられなかった。二人の心身にあるのは想定以上の疲労。そうさせているのはおそらく、心理的な要素が強かった。

「……ツルギ、次はどうするの」

「……」

 気怠そうに言うブローディアに、ツルギは思案。おそらくはハードバリア社は、その功績としてはアタリの部類になるであろう。しかし、その内情はむしろハズレに近いもの。そこにあったのはツルギの思惑とはかけ離れたものである。

 本来そこで得るはずの目的は「カインの仕事場を漁ること」であり、そこには「計画の痕跡を探る」が含まれる。ツルギとしては、そこを切り口に芋づる式に真相へと辿っていくのが理想であった。

 しかしそこにあったのは「計画の痕跡」であっても、それ自体が切り口とはなり得ない性質のもの。大量の忌肉を製造されたという事実だけでは何も掴めない。さらにはその計画の中心であったサキュリスを失ったことにより、結果的には悪化しているとも解釈できる。

 ただし、ここから明瞭となりつつあることもある。

「ツルギ。あなた何かを察してるんじゃないの」

「……ああ」

 ブローディアの指摘にツルギは頷いた。

 それは現段階で考慮すべきことかは分からない。しかし、もしそれが本当なら根底の事実がひっくり返る。この地での散策も無意味になり、解決に至るための優先順位も変わる。刀姫開発が本懐でなければ、この場ですべきは、敵性者たちの討伐が最優先となる。

「だが、まだ考慮すべきでない……と思う」

「言ってみなさいよ。もしかしたらってこともあるでしょ」

 言いにくそうなツルギへのその意見はごもっともである。一人で考えるよりも二人で考える方が、効率は良い。それを言いたくない理由は、その予感が的中して欲しくない願望でしかなく、そうであれば渋っていても仕方がない。

「……そうだな。実は──」

「待って」

 ツルギが打ち明けようとしたその時、ブローディアは影から出て、即座にツルギの唇に指を押し当てた。

「……?」

 ブローディアはその姿勢のまま視線を明後日の方向へ見て静止。何か音を探っているようだった。

「人の足音がする」

 小声で言ったブローディアに、ツルギは顔は険しくなった。

「こちらに向かっているのか」

「……違う。遠ざかってる」

「数は?」

「一つ。どうする?追う?」

 言ってからこちらを見たブローディアに対して、ツルギは頷く。

「そうだな。一つなら捕獲も容易いだろう」

 それを聞くとブローディアは影へと潜った。

「さっきの話は後で聞くわ。今は行きましょう」

「ああ」

 ツルギはブローディアに倣って潜影。その足音を追う。影の中に潜ったツルギは、ブローディアの意識を頼りに進む。時に影から出て、そして潜るを繰り返し、目標までの最短ルートを詰めていく。

 こうして影を伝うのにも、随分と手馴れてきたなとツルギは思う。ブローディアと出会ってから約二年間、死に物狂いで訓練した甲斐あって今では自身の走る速さにも引けを取らないスピードを誇る。影に初めて潜った時には、その中で溺れかけたことを考えると、上達の様子は明らかである。

 そんなことを考えている内に、ツルギは目標は目の前に。しきりに周囲を窺いながら走る姿をみると、何かに追われているのか、何かから逃げ惑っているようにも見える。

 しばらくの間、高所からその様子を観察すると、あることに気づいた。それはその者が羽織っているローブ。これは小部屋で注射器を打ち、殺害した者たちと同じものだった。フードを被っており、顔はよく見えないが体格からして男であることや、その動作から焦っていることは見て取れる。

 そこで思い出したのは、命令されて実際に注射器を打った者のこと。あの日、その男は女性の首に注射を打ち、そしてその結果に狼狽えた。その時の姿と今、目の前にいる者のイメージがピッタリと合う。

「どうするの、ツルギ」

「捕まえてみよう。関係者であることは間違いない」

「そうね、じゃあ」

 短く会話を終えてツルギは片目を閉じ、開いた目に男を映し出す。

 その者の瞬きの瞬間に狙いを定めて、幻術をかける。それはツルギがイヴィリアにかけたものと同様のもの。周囲の景色を模したイメージを見せ、聞かせる幻術である。彼の視点からは瞬きの間に変わったことは何もない。先ほどと変わらない視界だが、すでにそれもまた幻術。

 これにより、ツルギの作り上げたイメージを見せられたわけだが、男はそれに気づく素振りはなく、なおも周囲を見回し、駆ける。

「成功ね」

「ああ、誘導するぞ」

「うん」

 ツルギは男を視線から外さないよう駆け、その男の背後へ。これで釘付けは完了。次はこの男を人目のつきにくい建物へと誘導する必要がある。

 ツルギは自身のイメージの中をそのまま進んでいく男に複数の足音を聞かせる。その足音は人が駆ける音。徐々に複数の者たちが近づいてくるは、殊更、人の不安を煽るもの。

 その狙い通り、動揺した男はすぐに方向転換。そこから察するに、どうやら目的地はない模様。決まった方角へと進む素振りはなかった。

 それはツルギにとっては都合が良い事情である。そうであれば、彼を誘導するのにおあつらえ向きの場所がある。ツルギは人影、足音を駆使してその場所へと舵を取った。

 そして、そこに辿り着いた男へと四方から来る足音を聞かせる。まごついた男はすぐ横にあった空き家の看板をつけた家を見つけ、逃げ込んだ。ツルギもそれに合わせて、間をすり抜けるように中へ。

 もちろんこの看板もツルギの作り出したイメージ。そこは空き家でも何でもないがしかし、そこに誰もいないことは分かっている。何故ならそこはセンタナルの施設だからだ。

 実際には死体の山となっている部屋は、その男の視界では何事もない部屋。扉の前で、安心したように一息ついた男の隙を見逃さず、ツルギは次へと行動を移す。息を整えながら、壁にもたれた男に胸ポケットから取り出した噴射型スプレーを構えつつ、幻術を解除。

 みるみる内に変わっていく視界に驚愕した男。ツルギはすかさずその顔に、スプレーを噴射。中身は強力な睡眠薬。混乱する脳に反する強い酩酊感に脳は麻痺。声を出す間も無く、男は気絶し、もたれかかった扉を這うように腰を下ろした。被っていたフードを脱がせると、その男はツルギの予想通り、前の日に注射器を打った者だった。

「手馴れたわね」

 そう言ったのは、ブローディア。しかし、その口調には少しだけ刺々しさが覗かせており、その理由をツルギは知っていた。

 はっきり言えば、これら工程はその全てを幻術のみで賄うことができ、このやり方はブローディアの言からすれば無駄なもの。これに対し、ツルギの意見はそれこそ体力を無駄にする愚行と主張した。しばしば、これについての議論があった。結果として、ツルギは自身のやり方を突き通したが、現にこうして省エネ化できているわけなので、ツルギのやり方は間違っていないはずである。

「まあな」

 少し得意げなツルギが入らなかったのか、ブローディアは憎々しげに一言付け加えた。

「これで性犯罪を犯そうだなんて、考えてないでしょうね」

「……どういう状況だよ」

 ボケなのか素なのか判断がつきにくい言葉だった。指摘が多すぎたツルギはとりあえずそれをボケと解釈し、そうツッコミを入れておいた。


 男を縄で括り付けたツルギはついでにセンタナルの散策をしてみたが、そこに直接的な手がかりは何もなかった。手紙に書いてあった通り、特に荒らされた形跡はなく、吊るされた職員たちが一際凄惨であるのみ。

 ツルギは吊るされた職員たちの一体一体を下ろし、横たわらせる。

「よく触れるわね」

 私はイヤ、とでも言いたげなブローディアは影から出ずに言う。

「まあ、死体には職務柄……な」

 全てを下ろし終えたツルギは次に死体の痕跡を調べる。死体には必ず何処かしらの欠損が見られるが、それ自体に法則性はなく、腕や足、腹の一部など様々。ただし唯一、頭のみは欠損されておらず、傷もない。更にその表情には色濃く絶望が刻まれている。

「……妙だとは思わないか?」

「そうね」

 ツルギの疑問にブローディアが同意する。彼女もまた当然にここの異質性を感じ取っていた。

 セリスの情報によれば彼らの死亡からだいぶ時間が経っている。にもかかわらず、死体に腐敗はなく、欠損部位以外の損傷はなく、まるでエンバーミングでも施されたように綺麗な状態。虫が群がらないどころか、この空間そのものに生きる生物が見当たらない。

 それに加えて、吊るされた者たちの表情である。禍が発生していてもおかしくないはずであるが、その様子は一切なく、空気は正常。また放置されていたはずの内部では埃は殆ど積もっておらず、綺麗そのもの。

 まるでこの空間そのものが保存されているかのようなもので、捜査関係者などからすれば、喉から手が出るほど欲しい技術であろう。

 いや、技術というよりかは力と言うべきものか。

 ツルギはこれを災厄の禍人であるアリストによるものと断定した。彼の能力は「進化」を欲する欲望に裏付けされた「保存」の力。

 「保存」と聴くと「停滞」を想起させ、「進化」とは異なる性質であるとも思えるが、セリス曰く、そうではないのだとか。

 生物の「進化」とは「成長」や「変異」、「転化」とは異なるもの。「進化」をするには高度な状態を維持し続けることこそが重要であり、劣化した時点で「進化」はそこで止まる。高度な状態を維持し、その果てに「進化」という結果を生み出せる、のだという。

 彼女が何を言っているのかよく分からなかったが、とにかく、「進化」は「保存」が不可欠であり、それによって成り立つものであるとのこと。

 この惨状もまた、彼の望む一つの進化の結果を作り出すというのなら、このまま放っておくことはできない。どんな形であれ、保存された状態を変える必要がある。

 状況において、一つの結論を導いたツルギであったが、不明な点もある。それは放出されたはずの禍がどうなったのか。禍の放出を抑えた状態で保存されているのであれば、時期にそれが始まるはずではある。

「さて」

 一旦、考察を終えツルギは捕縛した男へと立ち返った。

「よく寝てるな」

「疲れていたのね」

「そうだな」

 ツルギは掃除用具の中に紛れていたバケツを取り出し、蛇口へセット。水を最大まで溜めてから、そのバケツの水を男の顔へ目掛けて勢いよくぶちまけた。

「!?」

 男はビクリと身体を震わせて、脳を覚醒。今の状況を飲み込めずに忙しなく左右を見渡した。

「起きろ、尋問の時間だ」

 ツルギが冷たく言い放つと、男は叫び出そうと口を開ける。予期していたアクションにその大口に向けて、ツルギは短刀を音もなく抜いた。

「叫ぶな、死にたくなければな」

 表情を変えることなく、そう言うとブローディアがポツリと呟いた。

「イヴィリアの時とはえらい違いね」

「……うるさい」

 痛いところを突かれたツルギだったが、同意するわけにもいかず、苦し紛れに言った。


「お前はここの住民か?」

「ああ……そうだ」

 首を垂れた男は観念したように答えた。

 ツルギはその手始めに自身の身の内、立場を告げる。これは彼に安心感を与えるため。危害を加えようとしているわけではない意思表示でもあった。

 すると、男は必死に助けを乞いた。しかし、捕縛した女性へ注射器を打っていたその姿を実際に目の当たりにしていたツルギはそれを、跳ね除けた。かけてやる情などこの男にはない。

 なおも取り繕おうとした男だったが、ここの住民たちを助ける意思はないこと、しかし協力することで結果的に助かる可能性があることを話すと諦めがついたのか、それ以上の懇願はしなかった。

 感情よりも自身の命を優先した故の様子に、ツルギは合理的な男だと感心した。それに淡々と答えてくれるであれば、これほど都合の良いものはない。

「ここで、何をしていた。知っていることを言え」

「俺は組織の末端だ……詳しくはよく分からない。だが、あんたが予想していた刀姫開発のために動いていたことは間違いない」

 男の言葉にツルギは違和感を感じつつ、それを頭の片隅に置いた。

「刀姫サキュリスの命令で、か?」

 彼女がこの街に居ついていたというのは、事前の情報によるもの。以前から彼女はこの街へ入り、信者たちによって崇められていたのだ。

「……俺はお目見えしたことはないし、実際に話したことはない。だがおそらくはそうだろう」

 頷いた男は伏せていた目をツルギへと向けた。

「サキュリス様を殺すおつもりか」

「……邪魔をするならば、な。だがその意識は低いとだけ言っておく」

 彼もまた刀姫の信者であることはその口調で伝わっていた。ならば、彼女の死については触れない方が良いだろう。余計なことを言えば、あらぬ誤解を与えかねない。

「あの方に手出ししたらただでは済まないぞ」

 憎々しげな男はしかし、ツルギから向けられた短刀の刃が首筋に近づいたのを見て、すぐさま戦意を喪失させた。

 彼らがここまで、慕っていることは意外にも感じた。刀姫を信仰するこの街の住民からすれば、当然なのであろうが、何せ人を忌肉へとわざと転化させるようなモノである。その復讐心は並ではない。

 しかし彼の口調からすれば、表面上の関係性は取り繕われていたのだろうと察することができる。

「随分慕っているようだな」

「当然だ、彼女は災厄の禍人から私たちを守ってくれていたのだ」

「……ほう」

 意外な事実が発覚したことにツルギは感嘆した。

「実際にそれはあったのか」

「……疑っているのか?彼女がいたお陰で災厄の禍人を退けていたのは事実だ。彼らが争っていたのもこの目で見ている」

 刀姫サキュリスは災厄の禍人、おそらくはアリストと敵対していた。上手く取り入ったはずの街を破壊されないための処置であったのだろう。では、なぜその災厄の禍人がまたこの件に関わっているのか。

 今では聞くことはできないが、多分それを取り持ったのはマコトであろう。災厄の禍人であるとは言え、彼女に付く刀姫たちは並ではない。その資格はあるだろう。

「彼女がいなければ、とっくに私たちは殺されたんだ。だが……なぜ……」

「……余計な話をするな。それで、お前はどうして逃げていた?何から逃げていた?」

「それは……」

 何やら言いにくそうにしていたので、首にその切っ先を埋めた。血が出ないギリギリで留まったそれに驚いた男は慌てふためく。

「ま、待て。言うよ、ただ……」

「ただ?」

 ツルギは待たずに求めると、男は苦しそうに言った。

「俺も分からないんだ。一体何が起きているのか」

「何があり、何を見たのかを言えばいい」

 一瞬、男が口端を引きむすんだのをツルギは見逃さなかった。

「上司たちが記憶を失ったかのようになって……」

「記憶を失った?」

「……それまでのことをよく覚えてないようだった。それで凄く取り乱して」

「待て。そこを詳しく話せ。いつ頃、どんな風だった?」

 言ったツルギの顔を見返した男は泣きそうになりながら目を伏せた。

「今日の昼前に……側にいたアインさんが唐突に、頭を抱え出したんだ。それで、今まで何をしていたのかを俺に聞いてきたんだ」

「昼前……」

 それはサキュリスが死んだ時と重なる頃合いである。ツルギの脳裏に一つの物事が閃く。

「そのアインって奴はそれまでおかしな事をしていなかったか?」

「……!何か知っているのか」

「こちらの質問に答えろ」

 切っ先が埋まったままの短刀に力を込める。ツルギのその目に怒りを感じ取った男は一度口を噤み、開き直した。

「おかしな事ばかりだった。同士たちを使って開発をしようだなんて……そんなこと絶対しない人たちだった」

「一昨日の晩、女に注射したのもそれが関係するか?」

 ツルギの質問に男は息を飲んだ。知られているとは考えてもいなかったのだろう。その顔に汗を滲ませた。

「知っていたのか」

「……」

「あ、いや、すまない。そうだ、その通りだ。……彼女も私たちの同士だった。その時に一緒にいたのがアインさんだ」

「なるほどな」

 ツルギは今までの証言を元に、サキュリスの能力による洗脳はここの住民たち、その中でも上級者たちに及んでいたのだと確信した。あの時上長と思しき者の様子に違和感を感じたのは、おそらくそれが理由。儀式のように感じたのこれが起因するのだろう。それが唐突に解かれたのはサキュリスの死んだからだ。

「……よく分かった、では話を戻そう。彼らが取り乱して、その後どうした」

 ツルギの言及に、男はもう一度引き結んでから口を開いた。

「その後すぐに……禍人になってしまった」



 ・センタナルの施設にて


 あらかたを訊き終えたツルギは最後にカインのことについて聞いてみた。男が言うには、集められた学者や研究者たちはその全てがサキュリスの指揮下にいた、とのこと。あって欲しくはなかったが、やはり忌肉の中にカインがいたのだろうと察するしかない。

 これにて用済みとなったので、約束通りに男を解放。縛り付けていた縄を解き、周辺の避難できる場所と退路を指示した。その際には男は自身のしたことを懺悔し、後悔の心情を話していたが、もはやどうでもよく、虫でも払うかのように軽く流した。

 急いで出て行く男には目もくれず、ツルギは地図を広げてある場所を確認。これだけ大きな街である。街中に響くだけの放送施設はあるはず。

 案の定、セリスの用意した地図にそこは載っていた。街の中心に位置し、ここからの道のりはそれなり。潜影を駆使すれば、すぐにでも行ける。

 そのことを確認し、ブローディアにこれからの作戦を話した。この街で行われていることの本当の目的、これから起こりうる現象のこと。

 ブローディアはそれを聞いて驚いたが、ツルギの推察を聞いて納得した。するしかなかった。

 そして現在は、部屋の隅の陰で腰を下ろし、休息を取っていた。彼の話を聞き、ツルギは状況が既に最終局面にあることを予感していた。その来るべき時のための休息である。

 何もかもが遅かった。ここに来るのも、この結論に至ることも。自身の胸で眠るブローディアの髪をそっと撫でながら、思う。やれることはやったはずとは思いつつも、やはりまだ出来ることがあったのではないかと思いもしていた。気に病むほどではないにせよ、心残りは多くある。

「ツルギ、寝ないの?」

 ブローディアが心配そうにツルギの顔を覗いた。

「寝るよ、少し考え事をしていただけだ」

「……」

 自身を見つめるブローディアの目に、熱が篭るのを感じた。

「ねえ、ツルギ。キスしてよ」

 唐突な欲求にツルギは顔を見返した。

「……ディア?」

「キス」

 顔を向けたまま、瞳を閉じたブローディアにツルギは少しだけ困惑しつつも、それに応じた。こうして、突然甘えだすのは彼女の刀姫としての特徴。そしてそれは彼女が出す「サイン」でもある。

 一頻り口づけした後、ツルギは優しく語りかけた。

「不安か?」

「……そうね」

 本来は臆病な気質であるので、当然と言えば当然の回答である。マコトが関与する事件と対峙したことがなかった彼女は、その未来を不安がっている。調律師たるツルギとしては、これを諌めてやらなければならない。でなければ、存在する価値がない。

 ブローディアはさらにツルギの胸に頬を擦り付け、猫のように甘えてきた。ツルギはそれに応じて、肩を抱いてやる。

「俺たちなら、大丈夫。絶対にやれる」

「……」

 その言葉にブローディアは答えなかった。

 目の前でサキュリスの死を見せつけられたことが、彼女を不安にさせているのだろう。止められないほどに強い力、逆らえない運命の潮流。それらを前にして、臆せぬ者などいない。どんなモノもその力に魅せられるしかない。彼女の見た世界の中でしか生きられないことを、知能を持つものは察し、後に確信となって知ることになる。そうして、前に進むことを辞め、諦める。圧倒的な存在感と力により、抵抗不可の状態にまで脳を弱体化させ、闘うまでもなく敵の戦意を喪失させるに至らせる。これこそがマコトが最強と言わしめる所以、彼女の得体なき恐怖の原初である。

 ブローディアはまさにその状態に陥っていた。彼女の筋書きのままに動いている感覚は、筆舌し難く、どんなに言葉や文字に起こそうとも、予めそれを認知することは到底不可能。そしてそれを直に認識してしまえば、その時点でもはや逃れられない。まさに、対策が出来ない絶対的な精神支配能力である。

 幼少の頃より、それを直に味わっていたツルギには痛いほど分かる感情だ。圧倒的な劣等感と虚無感に苛まれ、そして遂にはいつ死ぬかも分からない絶望を身に宿した。毎日がただ怖く、ただ悲しく、ひどく惨めだった。

 しかし、だからこそ。それでも前に進んだツルギはいつしか、その抵抗力を身につけられた。運命の中であっても、前へ。圧倒的な苦境を発条に。それは諦めの結果でも自暴自棄の形でもなく、確実に形成された「前へと進む意思」である。

 かつてミコノは、それこそが武芸者の最たる素質だと言い、ツルギがその素質を持ち、燻っていることを見抜き、そしてこの道へと引きずり込んだ。多くの支えの中でやがてこの力は開花し、最強の首に届きうる自身の武器となった。自分の一人の力では成ったわけではなく、多くの人たちによって到達した境地。

 しかし今もまだ、その境地は自立できていない。現在それを支えるのは誰でもない刀姫ブローディアである。

「俺にはお前がいて、お前には俺がいる」

 ツルギはブローディアと出会い、契約した日のことを思い出し、その言葉を口にした。あの時は死を直感出来るほどに絶望的な状況だった。しかし、その時も「なんとなく、なんとかなる」と思った。それは多分ブローディアがそばに居てくれたからで、彼女のために前に進もうと決意したからだ。


 話には聞いていた。しかし、心の準備をしていてもそれは止められない。恐怖と不安、絶望。この世にはどうしてもをしても拭い去れないものはある。

 自分の過去もそうだ。暗く閉ざされた過去と未来。仲間など居ないのだと、自分の居場所などないのだとずっと思ってきた。

「俺にはお前がいて、お前には俺がいる」

 ツルギが口にしたのはあの日の言葉。この言葉にどれだけ救われたか。どれほど嬉しかったか。仲間も居場所も彼が一身に背負ってくれた。だから私も彼の力になりたいと、心から思った。

 その言葉は拭い去れないはずのものを拭い去った。あの日も、そして今も。

「必ず生きて帰る。この件を終わらせてな」

 そう強く言ったツルギ。その横顔に思わず頬が緩んだ。なんの確証もなく、保証もない。しかし、その力強い目を見て、あの日と同じ安心感を覚えてしまった。不思議であるが、彼ならどうにかできてしまえそうな、そんな期待感を持ってしまう。多分それが自分が彼に惹かれた理由であり、彼が周りの者たちを惹きつける要因なのだろう。

 胸に潜む蟠りが消えてくのを感じた。

「……ええ、必ず」

 釣られて言ったブローディアは安寧の中、穏やかな寝息を立てて眠りについた。



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