一瞬のことであった。

 だが、その場に生きている人がいれば、時が止まったかのような長い時間を感じていたであろう。

 そんな場所で、フルールは恐怖で震える体を抑えながらながらそっと目を開けた。

 真っ先に目に入ったのは、地面に落ちていた自分の髪留めだった。おそらく、ニュイの死の声を聞くまいと思って、その場から離れようとした際、転んで落としてしまったと思われる。

「……あんなところに、落ちて」

 海のように青く美しい5つの花弁は、朝日に反射してキラキラ輝いている。フルールは駆け寄ってそのワスレナグサの髪留めを慈しむようにして拾い上げた。

 そして、今一度辺りを見渡し、その惨状を目の当たりにする。

 ――ユヌも、のこぎり草も血だまりの中、お互い縺れ合って死んでいた。

 ――異形の怪物、アルラウネは陽の光を浴びて、体が黒ずんでいた。

 ――そしてニュイは、磔刑が解かれてそのまま地面に横たわっていた。

「ニュイ?ねぇ、大丈夫!?」

 フルールはニュイの元へ駆け寄り、屈んだ自分の膝へニュイの頭を乗せる。

 ゼェゼェ、と息を切れ切れに苦悶の表情を浮かべていたニュイは、そっと目を開ける。そして瞳に映るフルールの姿を見て、無意識に手を伸ばした。

 フルールは溢れる涙も気にせず、その手をしっかりと握り返した。

 見れば、ニュイの皮膚という皮膚は土色に変色しており、彼の手のひらの感触も、石のようにゴツゴツしていた。顔でさえも半分ほどが土色に犯されつつあった。

 ニュイは疲弊しきっていたが、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「……フルール、…髪、飾りは……?」

 フルールはワスレナグサの髪飾りをニュイに手渡した。

「大丈夫、無事よ。ニュイが集めてくれた私の記憶はちゃんとここにあるから――」

 ニュイは渡された髪飾りの感触を優しく手のひらで確認する。

 そして、そのまま手を伸ばし、フルールの頭へ置いた。フルールはそれが嬉しくて、しっかりと髪留めを自分の頭に着けたのだった。

 そのフルールの姿を見て、ニュイは嬉しそうに微笑んだ。

「よか、った……ほんとうによか――」

 そこまで言いかけて、ニュイは咳き込んだと同時に吐血した。ただでさえ、衰弱しきった彼がこのまま吐血を繰り返せば、命に関わることは明らかであった。

 フルールは、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。

「大丈夫よ、ニュイ。今から、傷の手当をするから、何も喋らないで、大人しくしてて、ね?」

 そう言うと、ニュイは大人しくなったが、未だ息は荒い。フルールは、ニュイの外傷や、症状を見て、今のニュイにとって一番効果の高い回復薬や治療は何かを必死に考えていた。

 そしてニュイも、自分の命が長くはないことを悟っていた。

 そして自分がこのまま死ねば、フルールはこの先ずっと悲しみに囚われてしまうのではないかと。そんな不安が脳裏に過った。

 昨日までずっと、自分のことは忘れて欲しくないと願っていたのに――

 このままだと、フルールに深い悲しみを背負わせることとなってしまう。

 フルールの悲しむ顔は、もう見たくない――

 すると、ニュイは薄眼を開けてこう呟いた。

「おれは……君、のきおく、の中にいても、いいのか、な……」

「何を、言っているのよ……」

 まるで別れのような言葉を聞いて、フルールは感極まって泣き出してしまった。

「…私も、あなたのことは忘れたくないからッ…!ニュイに、助けてもらって、せっかく色んなことを思い出したのにッ……‼もっと、もっと、ニュイと一緒にいたいからッ!!」

「おれ、も………フルール、と、いっしょ、に…いた、い……」

 ニュイは、その言葉が嬉しくて、ただ目頭が熱くなった。溢れる涙で、視界はボヤけてフルールの顔がよく見えないのが少しだけ悲しかった。

 君の記憶の中で生きていてもいいのだと――

 その安堵感は今のニュイにとって、何事にも変えがたいものであった。

 そして、次第にニュイの呼吸が浅くなってきた。声は掠れ、徐々に彼の声は聞き取れなくなるほどになってしまった。

 フルールは、ただ必死にニュイへ呼びかける他なかった。

「……?ねぇ、ニュイ?いやだよ…?死んじゃ嫌だよ?ねぇ、ねぇってばッ‼」

 ニュイは自分の意識が、暗闇の奥底から引っ張られているかのような感覚に陥っていた。

 別れたくない一心で、震える腕を伸ばし、フルールを求めた。

 彼女の握り返してくる温もりさえも、感じられなくなっていく中、最後の死力を振り絞り、ニュイはフルールにこう告げた。


「――フルール、あり、がと…う……おれは、きみを、愛してる――」


 そうして、ニュイは静かに息を引き取った。

 彼が伸ばした腕から力が消えたのを合図に、ニュイは死んでしまったのだとフルールは察した。冷たくなった彼の胸の中で、ただ泣き崩れた。


 少女の泣き声は、いつまでも止むことなく、辺り一帯は悲しみに包まれた。


 それは、春のある日の一夜のことであった。

 少女は、彼を失ってもなお、最愛の人としていつまでも忘れずにいるのだろう。

 ワスレナグサの花言葉に秘められた、少女と騎士の悲恋伝説のように――

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