「――ッ!?フルール、下がれッ‼」

 そう言って、ニュイは地を蹴って走り出した。直後、アルラウネの腹部から伸びた右腕がニュイへ向けて振り下ろされる。その悪魔のような怪物の手によって、地面を抉り、削るほどの爪痕が残された。

 その地に付けられた爪痕の破壊力を見て、ニュイはゾッと身震いした。

 そして、ニュイはフルールに被害が及ばないように距離を取ったことを確認し、再び、目の前の怪物へと向き直る。

 アルラウネは大蛇のような巨体にも関わらず、身をくねらせ一気にニュイへと距離を詰めてきた。腹部から生えた両腕に一度でも掴まれたら、為す術もなく、八つ裂きにされることは明白であった。

 その上、人型の上半身を覆う大輪の花びらには獣の牙のようなものがびっしりと、埋め尽くされている。おそらく、両腕で捕まえた獲物を、あの花びらで嚙み砕き、捕食するのかと容易に想像できた。

「……一体、どうやって倒せば」

 目の前の怪物を倒す突破口をニュイは何度も考えていた。だが、決定打は思い浮かばない。死神が背後に立っているかのようなプレッシャーを感じながら、ニュイは息を切れ切れに刃物のノコギリを握っていた。

 

 ――刹那、アルラウネの連撃がニュイへと襲いかかる。


 巨体をくねらせて繰り出される猛攻。ニュイは躱すので精一杯だった。相手は追撃の手を緩めない。次の一手を出そうにも、成す術がなかった。

 その様子をまるで見世物のように観戦していたユヌは、愉しげに野次を投げる。

「どうした?ニュイ、さっきまでの威勢は?一度でも捕まれば、そこで終わりだぞ?」

 一頻り高笑いした折、ユヌの元へフルールが駆け寄った。

「お父さん、もうこんなことは止めさせてッ‼ニュイが、ニュイが死んじゃう!?」

 ユヌの白衣を引っ張り、フルールは涙目になって嘆願した。

 だが、ユヌはそんな娘の願いを聞き入れず、厳しい眼差しをフルールに向けた。

「私は、この実験を続けなければならない。秘密を知った以上、ニュイを生きて返すわけにはいかないんだ」

「……そんな、どうして」

 すると、アルラウネが一際、大きな奇声を発したかと思えば、更に攻撃性を増して、ニュイへと襲いかかる。

「――ッ!?ダメだ、躱せな――」 

 足が縺れ、バランスを崩したニュイの背中にアルラウネの爪の一閃が通ってしまった。その途端、尋常ない痛みが電流のように全身を駆け巡った。

「あ、がああ、――っっがアアアアアア!?」

 ニュイは地面に叩きつけられるようにして倒れこみ、あまりの激痛にのた打ち回っていた。幸い、出血は浅く、致命傷は免れたものの、すぐには起き上がれなかった。

 呻き横たわるニュイに対し、再びアルラウネは右腕を頭上へ掲げた。

 ニュイは、死を覚悟し、恐怖心から目を瞑った。

 途端、走馬灯のように色々な記憶が彼の脳内を駆け巡った。今まで出会ってきた人たちの顔が立て続けにフラッシュバックする中、最後にフルールの姿が浮かび上がる。

「……フルール!?」

 意識が現実へと戻り、横目でフルールの姿を追いかける。命に変えても守る決めた大切な人。彼女が悲しむ姿を絶対に見せはしないと心に誓ったはずのなのに――


 ――フルールは泣きながらニュイが殺される直前の姿を見ていた。


 愛しき人と、もう会えなくなると思うと、ニュイの瞳から大粒の涙が流れた。

「……ごめん、フルール。俺じゃ、君を守れなかった」

 アルラウネの爪がニュイへと突き刺さるのも、秒読みとなった。

 全ての景色がゆっくりと流れる最中――

 フルールは、ただ、泣きながら声が掠れるほどに大声で叫んだ。


「――お願いだから、もうヤメてぇぇえッッッ!?」


 彼女の悲鳴は辺りの空気を震撼とさせた。

 ニュイは、そっと目を瞑り、心の中でフルールへ別れを告げた。

 すると、――ザンッ、と土を削る鈍い音が耳元で聞こえた。

 生を奪われ、死を迎える瞬間は、痛みも何も感じないほどのものなのかと、ニュイは脱力して身を委ねる。

 だが、自分の心臓の鼓動は未だ、耳に痛いほどに鳴り響いていた。

(……俺は、死んだはずじゃ?)

 そっと目を開けると、アルラウネはニュイから少し離れたところで奇声を上げて、必死に辺りを見渡していた。

 音を立てずに、ゆっくりと上体を起こすと、先ほどアルラウネが地に付けた傷跡がニュイが倒れていた1メートルほどの所に残っていた。

 ニュイは死を覚悟していたが、どうやらアルラウネは完全に的外れなところを狙ってしまっていたようである。

(……もしかして、目が見えてないのか?)

 そう思いニュイは足元に落ちていた小石を拾い、門の方へと投げた。

 ガン、と言う音がした途端、アルラウネは奇声を上げて、門扉の方へと向かっていった。

 ニュイはこの時理解した。この食人花の怪物は目が見えないこと、そして音に敏感なため、先ほどのフルールの叫び声のせいで目測を誤り、攻撃を外したのだと。

(それなら何か、勝機があるはず)

 ニュイは改めて、眼前で暴れる怪物の様子を冷静に観察した。あの巨体相手に持久戦はもってのほかで、一撃で仕留める必要性を理解していた。

 目が見えず、音に敏感なら一瞬の隙を作りさえすれば、勝機はあるはず。

 ニュイはその時、怪物の腹部辺りに心臓らしきものが脈打っているのを見逃さなかった。あの巨体を支えるための心臓部は、体全体へ血液を運ぶためか一度の拍動で脈打っているのが、外から見ても分かるほどであった。

(あとは何か、大きな音を立てて、注意を引くものさえあれば――)

 そう思い、自分のブレザーのポケットを弄った時、硝子のような物の手触りがしてすぐに取り出す。

 ――それは、トリカブトの毒を採取した硝子の小瓶だった。

「……一か八か、賭けるしかないか」

 ニュイは、覚悟を決めて小瓶を開けて、トリカブトの毒を刃物のノコギリへと塗りたくる。

 そして、アルラウネとの距離を詰めるため一気に地を蹴って駆け出した。

 ニュイの気配に気づいたアルラウネは臨戦態勢を整え、再び襲いかかろうとする。

 ――だが、ニュイはアルラウネがこちらに気づいたのと同時に、硝子の小瓶を思いっきり門扉の近くの塀に投げつけた。

 ガシャーン、という鋭い音と共に小瓶は粉々に砕け散った。

 アルラウネは何が起こったのか分からず、混乱したまま動きを完全に止めた。

(――これで、決める‼)

 ニュイは間合いを一気に詰めて、アルラウネの腹部目がけて飛び込んだ。

 そして頭上に、心臓部があることを一瞬確認した後、全身全霊を込めて刃物のノコギリを突き立てた。

「うおおおおおぉぉぉぉぉおおおおッ!?」

 アルラウネの体皮を突き破り、頭上から夥しい血が噴き荒れる中、ニュイは更に致命傷を与えようと、臆せずにアルラウネの体内の臓器を切り裂こうとした。

 一際大きな奇声を放ち、あまりの激痛に暴れ回るアルラウネの力に抗えず、ニュイはそのまま力任せに放り出され、体のあちこちを地面に叩き付けられながら、後ずさった。


 ――そして、アルラウネと再び対峙する。


 決死の一撃であった。これで倒れてくれなければ、ニュイは自分の命はないと腹を括った。

 刃物のノコギリはアルラウネが暴れた拍子に、半壊してしまっており武器としての活用はもうできなくなってしまっていた。ニュイにはもう抵抗手段が残されていなかった。

 すると、アルラウネに付けられた傷から大量の血が流れていたものの、物の数十秒で傷がみるみる塞がっていくのを目の当たりにした。

「……そんな、傷が治るなんて」

「アルラウネの自然治癒力を舐めてもらっては困る。こいつを本気で殺したければ一瞬で灰塵と化すほどの炎で炙り殺すかでもしてもらわないとな」

 だが、その直後――ユヌは、我が目を疑った。

「まさか、そんな――どうして」

 ユヌのその一言と同時にアルラウネは力尽きて倒れた。トリカブトの毒が全身を巡ったのだろうか。しばらくの間、呻きながらもがき苦しんでいたが、そのまま動かなくなった。

「や、やったのか……?」

 ニュイは体中を縛る緊張が解けて、脱力したまま地に膝を突いた。

 そんな中、ユヌもふらふらと、覚束ない足取りでアルラウネの前へと歩み寄る。そして両膝を地についてこう告げた。

「こんな、姿になって尚、お前は私に尽くしてくれたのか」

 ユヌは、アルラウネの体にそっと手を置く。そして溢れる涙にも構わず、妻の死を悼んだ。

「……どうか安らかに眠ってくれ。私は君と出会えて、本当に幸せだったよ」

 ユヌは、しばらくの間、アルラウネに寄り添う形で妻の魂の安寧を願っていた。そして、涙を手で拭い、ニュイにこう告げた。

「ニュイ。この館で見たことを口外しないと誓えるなら、君を逃がしてもいい。むしろ君が望むならこの館に住んでもらっても構わない」

「どういう風の吹き回しだ」

 ニュイはユヌの甘言を信用できずに、敵意を向け続けている。

 ユヌは、当時の苦悩を思い出すかのように、嗚咽交じりにこう答える。

「こうなってしまった妻を、私は何度自分の手で楽にしてやろうか、と考えたことか。けれど、愛する妻を殺すなんて私には到底できなかった。それに人間に戻そうとしても、より凶悪な姿になっていく妻に、私も心が限界だったんだ。君は、そんな私の妻に安息をもたらしてくれた」

 ユヌは、フルールの方に目を向けて、話を続ける。

「それにフルールの記憶を戻してくれた一件もある。君には、感謝しても感謝し切れないよ。フルールも君のことを好いているみたいだし、君をここで殺したくはない」

 遠い目をしながら、ユヌは心から自身の思いを吐露した。

「私はね。この復讐劇が全て終わった暁には、自害しようと思っている。今まで犠牲となった人々のことを考えれば、私は死後、地獄に堕ちて当然の人間だから。その後で、フルールを君に任せたいと思っている。どうだろうか?この提案を受け入れてくれないだろうか?」

 一歩、また一歩とニュイの方へと歩み寄るユヌ。ニュイは無意識の内に、それに合わせて一歩、また一歩と下がっていった。

「君のご両親を奪った事実は変わらない以上、館の者たちを家族同然に接してもらっても構わない。そうだな。特に母親役は、月見草が適任だろう。母性溢れる優しい女性だから、ニュイもきっと気に入ってくれると思うよ」

「――ご主人、何を言っているの?」

 ユヌの周りを2つの光が交差する。よく見れば、2匹の妖精がユヌの周りを飛びながら、憎らしい笑みを浮かべていた。ユヌはその妖精の態度が気に入らないのか、苛立ちを露わにする。

「……お前たち、何が可笑しい?それが館に戻ってきた主人に対する態度か」

「だってさぁ」

 2匹の妖精はお互いの顔を見合わせ、呼吸を合わせてこう叫んだ。

「「――月見草ならもう既に死んじゃったよ‼」」

 妖精の言っている意味が分からず、ユヌは驚愕の表情を浮かべていた。

「お前たち、嘘を吐いてないだと…?」

「そうでしょー?主人も僕たちが嘘吐いていたら紫色の空気が見えるはずだもんね」

「主人に嘘なんて吐くわけないじゃん。ねー?」

「どういうことだ?…あの部屋は、私や月見草が許可しない限り、絶対に入れないはずなのに」

 妖精たちは笑いながら噴水の方を一斉に指差した。

「主人、気づくの遅すぎだよ?」

「あれ、見てみなよ?」

 噴水に浮かぶ、血まみれとなった睡蓮の死体を目の当たりにし、ユヌは血の気が引いていくのを感じた。

「そうか、睡蓮…!?花宝石を狙っていたとは聞いていたが、まさか実際に行動に起こすとは…!」

 ユヌは無意識に歯をギリッと鳴らして、ふつふつと湧き出る怒りに身を震わせる。

「花宝石は、私と月見草の愛の証そのものだ。宝石細工の職人に作らせたもので、所有者以外の人間の手に渡れば呪い殺す魔の宝石だと言うのに……あのバカは」

「睡蓮だけじゃないよ、死んじゃったのは」

「……何だって?今、何て言ったんだ?」

 唐突に知らされる事実を前に、ユヌは現状を理解しようとするのを拒否していた。

 そんな絶望に憔悴し切ったユヌを見て、妖精たちはケラケラと笑いながらこう告げた。

「「――黄薔薇も、白薔薇も、トリカブトも、ウツボカヅラも、みーんな、死んじゃったよッ!!」」

 妖精たちが嘘を吐いてないことに、ユヌの焦燥は益々募っていった。

「そ、そんなバカなことがあるか……長年かけてようやく実証した成果たちなんだぞ!?」

「ぜーんぶ、アイツのせいだよ」

 妖精の1匹は、そう言ってニュイの方を指差した。

 そして、妖精たちはユヌの周り飛びながら、ユヌの心に潜む狂気を煽っていった。

「のこぎり草に、ウツボカヅラを殺させて」

「睡蓮に『花宝石を奪え』と命令されたから、月見草を殺して」

「黄薔薇の、白薔薇を殺す手伝いを引き受けて呪い殺しちゃって」

「トリカブトは白薔薇を失ったショックで自殺しちゃったけど」

「睡蓮は、花宝石に呪い殺されちゃったけど」


「「――すべてのきっかけは、そこのアイツがこの館にやってきて、フルールの記憶を取り戻そうとしたからだよ?」」


 瞬間、ユヌは鬼気迫る形相で、何かの呪文を高速で唱えた。すると、ニュイの足元から急速に木の幹のようなものが伸び始めて、ニュイを雁字搦めにしてしまった。

「――きゅ、急に何だ!?これ、動けな」

 急速に生えてきた木の幹のようなものは、そのまま十字架の形となって、ニュイを磔刑にした。その束縛から逃れようと、ニュイは必死に手足を動かすが、ビクともしなかった。

 そして、ユヌはどこからともなく茨の鞭を出現させ、そのまま振り抜く。鞭の先はニュイの頭部に直撃し、被っていた帽子は吹き飛ばされた。

 ニュイはその瞳に反抗の意を宿すも、ユヌは殺意を滾らせてこう告げる。

「キサマは、ただじゃ死なせないぞ」

 そして、何度も茨の鞭をしならせて振り抜き、ニュイの胴体を痛ぶった。

「うぁ、――がッ、ああああ、ッがああああ!?」

 刺すような痛みが止まることなく、ニュイの体を襲う。加えて、鞭に施された茨の棘は傷口を抉るようにして搔き回した。

 フルールは、悍ましい光景を前にただ無力に泣く他なく、ニュイの悲鳴を聞きたくないと必死に目と耳を塞いでいた。

「……そろそろ、頃合いだな」

 鞭の猛攻を緩めて、ユヌは西の空を見つめる。

 太陽の光が徐々に森や館を照らし始めた。

「マンドラゴラは、太陽の光を浴びると頭の中で育った花が開花し、その尋常ではない痛みを以って、死の叫び声をあげる。ニュイ、キサマにくれてやろう。地獄にも劣らぬほどの極限の痛みをなッ‼」

 磔刑にされ、鞭に打たれて半分意識を失っていたニュイであったが、朝日が登り始めた途端、急激な頭痛に襲われ、無理やり意識は覚醒していった。

「イッ…ツッッッツ!?痛、痛ッあ、がアアァァアアッッ!?」

 苦痛に表情を歪め、狂ったように頭を振り乱すニュイを、ユヌは愉しげに見ていた。

「……そんな痛みは、今の私の悲しみには全く及ばない」

 研究成果である植物人間を殺された恨みは計り知れず、ユヌはありったけの怨嗟を込めて、ニュイにこう告げた。

「一瞬たりともお前を許した私が愚かだった。何もできないまま、そこで無様に死に晒せッ‼」

 そしてユヌは、パチンと指を軽快に鳴らす。すると、どこから現れたのか、のこぎり草が主人であるユヌの指示を待っていた。

「のこぎり草、私とフルールに耳栓を持ってこい。もうじき、こいつは死の叫び声をあげるからな」

 のこぎり草は何も言わずに、フルールに耳栓を渡し、装着するように伝える。フルールが耳栓を付けて安全を確認した後に、ユヌの元へと歩いていく。

 ユヌが未だ、ニュイの様子を愉しげに見ているのを確認し、のこぎり草は静かに忍ばせていた殺意を一気に、解放した。

 間合いを詰めて、隠し持っていた小型の調理ナイフをその手に握りしめる。

 ユヌがその殺意に気づき、振り向いた時には既に遅く――

 ――のこぎり草はそのナイフで、ユヌの心臓辺りを刺突していた。

 逆流する血の生暖かい感触を口の中で感じながら、ユヌはそのまま血反吐を吐く他なかった。

「の、ノコギリィィィッッ!?ぎ、ギサマッァァァァァ!?」

 ユヌはそのまま手を翳すと、のこぎり草の足元から無数の鋭利な木の枝が伸び、そのままのこぎり草の背中を串刺しにした。

「――ッ!?」

 気絶しそうなほどの痛みに襲われるが、のこぎり草は歯を食いしばり、そのままユヌの背後に回り、動きを封じた。

「キサマ、このまま死ぬつもりかッ!?」

 のこぎり草の意図を察した時には既に遅く、ニュイはもうすぐ死の叫び声を上げようとしていた。体中から血を流し、満身創痍になりながらも、のこぎり草は上手くいったと笑みを見せた。

 全ての光景がゆっくりと流れる最中――

 

 ――ニュイは、死の叫び声をあげた。聞く者を死へと誘う悍ましい声を。


 その叫びが終わった後、しばらくの間、森は静寂に包まれたのだった。

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