第6章:ワスレナグサの花言葉
Ⅰ
辺り一帯は鳥のさえずりさえも聞こえないほどに、しん、と静まり返っている。
医者のユヌは昏い瞳をこちらに向けたまま、微動だにしなかった。普段、村の生活の中で見せる優しい雰囲気など一切なく、静かに獲物を狙い、確実に息の根を止める獣のような殺気だけを振り撒いていた。
ニュイは、改めて目の前の男を注視する。
どうやら、ユヌは白衣を身に纏っているだけだった。武器も何も持っていない状態で、マンドラゴラの潜む夜の森を抜けて帰ってきたようである。彼が魔術師だからだろうか。常人であれば、マンドラゴラに襲われて命を落とす危険しかないはずなのに、ユヌは無傷で館へと戻ってきた。
心は既に臨戦態勢に入っており、血の巡りの熱さを体中で感じている最中、ユヌはいつもの会話の時のような声で、話しかけてくる。
「ニュイ、村で大騒ぎになっていたぞ?友達のモールと一緒に村から姿を消したものだから、村中大捜索だったよ。君のご両親も心配されていた。早く帰って安心させてあげなさい」
ユヌの自分を心配する言葉を聞いて、ニュイは逆にふつふつと怒りが込み上がってくるのが分かった。何と、白々しいことかと。ユヌの企み、その全てを知った今となっては上辺の言葉だけで済ませようとしてくることが、許せなかった。
目線さえ合わさず、何も答えないニュイに、ユヌは再び話しかける。
「どうしたんだ、ニュイ。早く、村へ戻って――」
「……俺の村は、もう、なくなったんだろ?」
抑え切れない怒りを露わにし、ニュイは叫んだ。
「――ユヌさん、アンタの自分勝手な実験のせいで、村の人たちみんなをマンドラゴラに変えてしまったんだろ!?」
「なんだ、知っていたのか」
ユヌは悪びれる素振りもなく、感情の起伏のない声でそう答えた。
ニュイたちはその返答に呆気にとられていたが、それに構うことなく、ユヌは嬉々として今回の実験成果について語り始めた。
「今回は大収穫だよ。新たに7人もの植物人間が生まれた。私の構築した理論も、次第に精度が上がりつつある。これほど嬉しいことはないよ」
ユヌの人間性が理解できない中、遅れてようやく彼の言葉の意味を咀嚼し始める。それと同時に、背中に氷を入れられたかのように厭な予感が全身を巡った。
「……ちょっと待て。じゃあ、それ以外の村の人たちは、まさか」
「ああ、醜いマンドラゴラへと変わってしまったよ。ニュイ、残念ながら君のご両親も確認したが、理性の消し飛んだマンドラゴラへと変わり果てていた」
「……うそ、だ……そんな、わけ……?」
ニュイは呆然としたまま、膝から崩れ落ちた。
頭が理解するのを拒み続けるも、認めざるをえなかった。
母親も、父親も――
ユヌの身勝手な実験のせいで、マンドラゴラに変えられてしまったことを。
「殺してやるッ…‼」
ニュイは背中に背負っていたノコギリの柄を手に取り、剣のように抜き取る。怒りで震える手に力を込めて、そのまま切っ先をユヌに向けた。
「……オマエは絶対に許サナイ。どうして、こんな残酷なことができるんだッ!?」
「君には決して分からないだろう。魔術と人体を組み合わせ融合体(キメラ)を創造する、その崇高な目的を」
互いに己の信念を一歩も譲り合うことのない、激しい睨み合いが続く。
そして、ユヌはこう語り始めた。
「――そもそも、この実験は国の直属機関である魔術協会で行われていた極秘実験の1つだった。
今から、15年前――私はその時の実験チームにて妻と出会った。互いに学術的な志向の高さや、知識を知恵へと発展させる発想の凄さを認め合い、私たちは次第に惹かれていった。そして、異性としても好いていると気づくことにそう時間は掛からなかった。私たちは出会って、3年ほどで結婚し、娘のフルールも生まれ、幸せな家庭を築けると思っていた。
そして、ある時、私と妻で力を合わせて完成した理論を発表した。これが認められれば魔術学会の歴史に名を残すほどの名誉を、授かるに違いなかった」
徐々に、ユヌは怒りで体を震わせながら、話を続ける。
「だが、内部でその成果を気にくわない人間がいたのか。嫉妬に近い恨みや反感を買い、挙句の果てには、その理論を実際に、実証する時にわざと過程を間違えられ、成果は得られなかったと糾弾された――あの、学会の無能どもがッ!私と妻の夢を、努力を全て踏みにじったんだッ!?」
ユヌは声を荒げて、喉が掠れるほどに叫ぶ。当時において味わった屈辱は未だ、ユヌの中で新鮮な怒りとして残り続けており、その復讐心が彼の生きる原動力そのものであった。
ユヌはニュイを睨み据えたまま、こう告げた。
「そして、妻は自らの体を以ってして理論が正しいことを証明しようとした。だが、学会の奴らの悪意ある邪魔や妨害が入ったせいで、結果――こうなってしまった」
そして、ユヌは指先を宙に翳し、そのままパチンと軽快に鳴らす。
すると、森の奥から地を這いずるような大きな音と共に、異形の怪物が現れた。
大蛇を彷彿とさせる体躯。木の根や枝が体のあちこちから蜘蛛の脚のように生えている。全体的に毒々しい色合いをしており、獣の牙を携えた大きな花から人型の上半身が露出している。
だが、その上半身はかろうじて原型を止めているに過ぎず、会話が通用する相手ではないことは明白であった。
ニュイは突然の怪物の出現に後ずさりながらも、見覚えがあったのか、声を震わせた。
「こ、コイツ…あの時、物置にいたバケモノ!?」
「化け物とは随分と失礼だな、ニュイ」
ユヌは、獣を手懐けるように怪物の体に手を置き、こう言った。
「――その結果、私の妻は、こんな姿になってしまったのだ」
その場にいた誰もが、時が止まったかのような錯覚に陥った。
フルールは、異形の怪物と、ユヌを交互に見つめながら、もう一度問いかける。
「え……??今、何て言ったの?」
「聞こえなかったかい?フルール。目の前にいる怪物こそが、お前の母親なのだよ」
呆然としたまま、ユヌの言葉を受け容れられないフルール。ユヌは、怪物の体にそっと優しく手を置いたまま、話を続ける。
「今の私が果たさなければならない使命は2つ――
1つは、こうなってしまった妻を元の人間に戻す方法を探すこと。だが、施術を行うたびに、より凶悪な姿となって一向に人間に戻る気配がない。なぜか、私にだけは従順な獣と化してしまった。いつまでも、こんな醜悪な姿を晒して欲しくはないが……」
ユヌは顔を伏せ、その続きの言葉を発することはできなかった。そして、悲しみの翳る表情から一転して、先ほどの怒りを露わにし始める。
「そして、もう1つは、学会の無能どもへの復讐だ。私と妻の構築した理論が正しかったのだと、ようやく認めさせるだけの結果が出てきたのだ。奴らを全て、学会から引きずり下ろして、私が乗っ取ってやる」
ニュイは、真相を知っても尚、収まらない怒りをユヌに告げた。
「……オマエは、そんな目的のために、俺の村だけじゃなく、幾つもの村の人たちを犠牲にしてきたのか?」
「ああ。その通りだよ、ニュイ。実験体の確保が一番難しい所だからね」
愚問と言わんばかりに、ユヌは淡々として答えた。
「こんな非人道的なことが許されるわけがない。なんで、オマエみたいな奴がいつまでも捕まらずに、こんな危険な実験を続けていられるんだ!?」
「この森自体が私の魔術工房みたいなものだ。居場所を突き止めるのも、そして辿り着くことさえ、難しいだろう。妖精たちに幻術を使わせ、マンドラゴラたちを使って襲わせれば、まず辿り着けはしないからな。
だが、君みたいな魔力の薄い人間だと稀に辿り着くこともあるみたいだね。今後はより厳重に、ネズミ1匹さえ通しはしない作りにするよ」
「そうかよ。ちなみに、こんなバカげた実験をやめるつもりはないのか?」
「愚問だな。私の命尽きるまで、終わることは決してないだろう」
ニュイは、これ以上の会話は無駄だと判断した。
「……もういい。最後に一つだけ聞かせろ。どうして娘のフルールにまで、こんな実験を施したんだ?」
「妻が怪物と化したショックのあまり、当時の私は錯乱状態にあった。そして、そのまま娘のフルールにまで実験を施してしまったのだよ。運良く、ワスレナグサの花を発現してくれたが、万が一、マンドラゴラになってしまったと思うと、今も気が気でない」
ユヌは、フルールへと視線を向ける。悲しみに押し潰されそうな表情で、話を続けた。
「私のせいで、この子は、実験の過程で心に深い傷を負ってしまった。植物人間と化してからずっと、心的外傷(トラウマ)に苛まれ続け、精神的に発狂してしまう寸前だった。だから、花びらを千切り、わざと記憶を失わせた」
フルールは初めて知る真実を前に、言葉を発することができなかった。無意識のうちに、目の前にいる父親が恐ろしく思えて、一歩下がってしまった。
「私が父親だということも忘れられるのは寂しかったが、元は言えば、私のせいでこうなったわけだし、当然の罰だ。けれど、私はこの子の命が無事ならそれだけでありがたかった。フルールは私の唯一、血の繋がった家族だからね」
ユヌはニュイの方へと向き直り、いつもの朗らかな笑みを見せる。
「ニュイ、だから君には感謝をしているのだよ。私は、フルールの記憶を戻してしまえば、そのまま精神が壊れてしまうんじゃないかとずっと恐れていた。だが、君のおかげでフルールは記憶を取り戻したまま、無事何事もなく生きている。私としてもこれほど嬉しいことはないよ」
「アンタに感謝されても嬉しくないのだけれどな」
ユヌは、一瞬だけ見せた柔らかい表情を変えて、すぐに冷然とした眼差しをニュイに向ける。
「――さて、ニュイ。私に聞きたいことはもうないのかね?」
「ああ、もうないよ」
「じゃあ、次は私からの質問だ。ニュイ、フルールを連れてどこへ行くつもりだ?」
「……」
黙したまま、刃物のノコギリを眼前に掲げ、ニュイは戦闘の意思を示す。ユヌは一つ大きな溜息を吐くと、その瞳に殺意を滾らせた。
「だんまりか。まぁ、安心したまえ。いずれにせよ、この館にきて秘密を知った以上、生きて返すつもりはなかったからな」
ニュイの方へと指を差し、ユヌはこう告げた。
「蠢く細い蔦、飢えた大蛇の暴れ――喰らえ、アルラウネよ――」
その一言を合図に、その異形の怪物は奇声を上げ、ニュイへ襲いかかってきたのだった。
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