第5章:滅亡

「……俺は、一体どうすればいいんだ」

 のこぎり草の部屋で、ニュイは頭を抱えて蹲ってしまっていた。

 時計の秒針の音だけが、彼の耳に痛いくらい鳴り響いている。

 もうニュイは、体力的にも精神的にも限界だった。頭痛と眩暈と吐き気が一気に襲いかかってくるような感覚が、彼の自我を黒く塗り潰してゆく。

 黄薔薇姫の命令は、『妹の白薔薇姫の暗殺』――

 期限は0:00までとされた。つまり日付が変わる前に、何とかして白薔薇姫を殺さなければ、フルールの記憶の花びらは焼失する。

 黄薔薇姫は、ニュイに考える暇を与えないことで、極限状態に追い詰めることを狙っていた。

 時刻は現在23:10――残り、僅か50分しかない。

 ニュイは、覚悟を決めて立ち上がり、殺意に満ちた瞳でこう呟いた。

「白薔薇さんを、殺すしかない」

 大きく息を吸って呼吸を整える。先ほどから恐怖と不安で震えていた手は、徐々に収まっていくも、まだ言葉だけの決意では殺人を行うことを躊躇っていた。

 ――あの穢れを知らない真っ白な彼女の肢体に、何の道具を使って、どのような傷を付ければ致命傷を負わせることができるのか。白薔薇姫を殺すイメージを繰り返し始める。

 けれど、なんどイメージしても、白薔薇姫を傍で守る騎士によって阻まれていた。

「そうだ、トリカブトさんを何とかしないと」

 あの騎士が白薔薇姫の側にいる以上、仮に白薔薇姫を殺すことに成功したとしても、トリカブトとの抗争は免れない。

「……とりあえず、睡蓮さんに相談しに行くしかないか」

 花宝石と引き換えなら、効率的な暗殺方法を睡蓮から教えてもらえるかもしれないと、そう思って部屋から出ようとする。

 ――その時、控えめに部屋のドアをノックしてくる音がした。

 そしてドアから顔を覗かせた少女はこう言った。

「……まだ起きてる?こんな時間にごめんね」

「フルール!?ど、どうしてここに?」

 ニュイは驚きと、嬉しさが混じりあって狼狽えていた。そんなニュイを余所に、フルールはなぜか嬉々とした表情で、語り始める。

「あ、うん。ええっとね…さっき目が覚めたら、急に色んなことを思い出して。ほら、君がよく村で聞かせてくれた面白い話とか、都会でのお話とかね。嬉しくなっちゃって、部屋まで来ちゃったの」

「……え?」 

 記憶を取り戻したと言ったフルールが信じられなくて、ニュイは恐る恐る尋ねる。

「そ、それじゃあ……モールがヤギの放牧中にドジ踏んで、ヤギ達に襲われた話とかも覚えているか…?」

「あーー‼思い出した!確か、その後ヤギたちに服をボロボロにされたんでしょう?ホント、ドジなんだから」

 当時のモールの間抜けな様子を思い描いているのか、フルールは今まで見せたことのないくらいの笑顔を見せていた。笑いすぎて涙が出てしまっていた。

 この話をフルールに最初に聞かせた時も、笑ってはくれたものの、ここまで感情豊かに反応してくれたことは今までなかった。

 ――記憶の回復とともに感情も取り戻しているのかと、ニュイはそう思った。少し前までは、話しかけても彼女はいつも上の空で、笑顔もぎこちなくて、どんなに彼女のことを理解しようと頑張っても、彼女の姿が霧の中へ消えていってしまうかのような不安しか残らなかったのに。

 こんなに人間らしく、年相応の少女らしく、瞳を輝かせてくれているフルールはもっと魅力的に見えて――ニュイは、目頭が熱くなっていくのを感じた。

 フルールは、また何かを思い出したのか、上機嫌で話を続ける。

「あ、あとは君が村に引っ越してくる前の都会での生活についてのお話も思い出して。私、その話を聞いたその日の夜は全然眠れなくて、いつか君に都会を案内して欲しいな、ってずっと思っていたんだから」   

「そうか、フルールは村からあまり出たことがなかったのか。俺が子供の頃は、よく展覧会が開催されれば美術館へ行ったし、劇場に行ってオーケストラの演奏を聞きに行ったな」

「えぇー!?何それ何それ!」

 顔が近いことにお互い気がつくと、急に意識し始めたのか、2人とも申し訳なさげに顔を逸らし、照れ臭そうにしていた。

 2人の間に少し沈黙が流れる。フルールは、ニュイの方を向いて呼びかけようとするも、彼の名前が出てこずに気まずそうに目線を逸らした。

「……あの、ええっと」

「気にするな。俺の名前はニュイ、だよ。ニュイ・アブリール」

「ごめんなさい。これだけ色々なことを思い出したのに、まだあなたの名前が出てこなくて。でも、もう忘れないからね!」

 未だ自分の名前を覚えていてくれていないことに、ニュイは少し寂しく思った。

「でも、前に俺が話したことも、思い出してくれたなんて」

「自分でもよく分からないのだけれど。忘れたくない、大切で、楽しかった思い出とかが急に蘇ってきて。心が温かくなるような、ポカポカして不思議な気持ちになっているの」

 フルールはそう言って大事なものを愛でるような優しい微笑みを見せた。

 ニュイは、この時に確信を抱いた。髪飾りの花びらを2つ集めたことで、フルールは記憶障害から治りつつあることを。

 まだこうして、お喋りを続けたかったが、ニュイにはまだやるべきことがあった。

「そろそろ、遅い時間だし、お互い寝ようか。本当は、もっとお喋りしたかったけれど」

「そうね。ニュイも疲れているでしょうし、今日はこのくらいにしておきましょうか。また、明日以降楽しみにしているわ」

「また、俺の住んでいた街を案内するよ。言葉では伝えきれない面白いことがいっぱいあるからさ。その時を楽しみにしておいてよ」

「ええ、その時を心待ちにしているわ。じゃあまたね、おやすみなさい」

 フルールが自分の部屋に戻った後、ニュイは右ポケットから彼女の髪飾りを取り出す。

「……あと、1つさえ集めれば、フルールはもう俺のことは忘れなくなるはず」

 これから彼女と過ごす思い出も、大切な時間も。

 その全てを、彼女が覚えていてくれるというなら。

「フルールのためなら、何だってやってやる」

 ニュイの決意が、固まってしまった。

 宝石箱を手にとって、ニュイは睡蓮の元へと急いだのだった。

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