Ⅷ
「……一体、何が起こっているんだ?」
東館の礼拝堂にて、白薔薇姫への日課の祈りを終えて、部屋に戻ろうとしたトリカブトは天井を仰ぎ見る。
普段の館では決して聞くことはない、物が壊れるような音、窓ガラスの割れる音、そして女性の悲鳴らしき声が遠くから聞こえてきた。
今はもう既に音も止み、いつも通りの静寂が礼拝堂を支配している。
館の一大事かと思い、トリカブトは事件現場へと足を運ぼうとする。
だが、その直後、礼拝堂の扉の前で息を切らして佇むニュイの姿を見た。
「ニュイ、君じゃないか?一体、こんな時間までどうしたんだい?」
只ならぬ様子でいるニュイが心配で、トリカブトはニュイの元へ駆け寄る。すると、ニュイは何かの鍵を掲げて、トリカブトへ渡した。
「トリカブト、さん。この鍵、白薔薇姫さんの棺の鍵かもしれません」
「えっ?」
突然の事に、トリカブトはしばし声を失っていたが、『白薔薇姫の棺の鍵』、と聞いて居ても立ってもいられず、すぐに踵を返し、白薔薇姫の棺の前まで駆け寄った。
確かに鍵先を鍵穴へ当てがうと、入り口で痞えることもなく、スムーズに奥まで挿入できた。トリカブトはただ祈る気持ちで、ゆっくりと挿した鍵を横に捻る。
――すると、カチャリと音を立てて、ガラスの棺の蓋のロックが外れた。
「…まさか、本当に、…そんな」
奇跡のような出来事に、トリカブトの手は震えるも、ガラスの棺の蓋を音を立てない様に取り外した。
日の光を忘れたかの様な白い肌――
少女の無垢さと可憐さが調和した美しい顔立ち――
花に囲まれた棺のベッドで、7年前と変わらぬ姿で眠り続けている白薔薇姫の姿がそこにあった。
「……もうこうして、触れ合うことはできないと思っていたのに」
トリカブトは感極まって、膝から崩れ落ち、そのまま彼女の手を取って両手で握りしめた。白薔薇姫は、魔術により永遠の眠りに就く呪いをかけられているだけで、死んではおらず、彼女の手からは温もりが感じられた。
ニュイは、心配になってトリカブトに声をかける。
「彼女は、もう目を覚まさないのですか?」
「いや、睡蓮が言うには一つだけ、方法があるらしい」
そう言って、トリカブトは身を乗り出し、白薔薇姫の寝顔を愛おしげに見つめ始める。今までずっと、届きそうで届かなかった距離――それがようやく今、想いを果たせることができるようになって、トリカブトはゆっくりと顔を近づけた。
――そして、トリカブトは彼女の唇に優しく口づけをした。
秒針が止まったかのような感覚。
物語の王子様がお姫様を呪いから解放するかのように、今の礼拝堂は2人のためにある空間となっている。
僅か数秒の時が、とても長く感じられた。
そして、トリカブトはゆっくりと唇から離れて、白薔薇姫を見守る。
――すると、彼女の瞼が光を求めて、ゆっくりと開いていった。
自分を覗き込むようにして見守るトリカブトの姿が視界に映り、白薔薇姫は思わず、彼の名前を呼んだ。
「……トリ、カブト…様?」
「あ、ああ…‼白薔薇姫!僕だよ、分かるのかい!?」
「ええ、トリカブト様。こんなに近くに居てくれるなんて、まだ夢をみているようですわ」
彼女の瞳から大粒の涙が溢れ、頬を濡らす。その可愛らしい小鳥のような澄んだ声も、再会を果たせて喜ぶ笑顔も7年前と変わらないままであった。
トリカブトは、嬉しさで感情が抑えきれずに、白薔薇姫の上体を抱き起こし、そのまま力強く抱きしめた。
「よかった。本当に、よかった…‼」
トリカブトは感動で涙を流し、嗚咽を漏らす。白薔薇姫は、悲しい思いをさせてしまったと思い、彼の頭を優しく撫でて慰めていた。
そうして、2人が悲願の再会を果たして、数分の時が過ぎた。トリカブトはニュイの方を振り向いて、心の底から感謝の言葉を伝えた。
「ありがとう、ニュイ君。君には何とお礼を言ったらいいのか」
「いえ、俺もお二人の力になれて、良かったです」
「白薔薇姫、彼が、君を助けてくれた恩人だよ」
白薔薇姫はニュイの方を見ると、小さくお辞儀をした。
「貴方が、私を助けてくれたのですね。本当に感謝してもしきれません。何かお返しがしたいのですが、何なりと仰って頂けませんでしょうか?」
「……では不躾なお願いで恐縮ですが、そのフルールの記憶の花びらを頂けませんか?」
白薔薇姫は、意外なお願いに少し戸惑っていたが、すぐに納得した表情を見せる。
「そう。睡蓮の言っていた『これを必要とする人』って言うのは、貴方のことでしたか」
白薔薇姫は、首にぶら下げていたネックレスをとると、そのペンダントから青い宝石のようなものを取り出す。それは紛れもなく、フルールの記憶の花びらであった。
「フルールは今も尚、忘却の呪いで苦しんでいるのでしょう?でしたら、あの子を助けてあげてください。それが出来るのは、貴方だけだと思いますから」
「はい、ありがとうございます」
「僕らは、まだここにいるよ。白薔薇姫も目覚めたばかりで、十分に体が動かないみたいだからね。もう少し、彼女の体の自由が効くようになってから、僕らも自分たちの部屋に戻るよ」
「わかりました。では、俺は先に部屋に戻っていますね」
「ああ、君も大変かもしれないけれど、陰ながら応援しているよ。いつでも、僕らのことを頼ってくれ」
「ええ。お二人とも、末永くお幸せに――」
そう言い残して、ニュイは礼拝堂を後にした。
ニュイは髪飾りにまた1つ、欠けた花びらを取り付ける。これでようやく、残すフルールの記憶の花びらは1つとなったわけだが、その手がかりすら掴んでいない状況であった。
「……もしかしたら、トリカブトさんたちは知っているのかも」
ニュイが踵を返して礼拝堂に戻ろうとした、その時だった。
扉の前で腕を組んで佇む、その人影が急に声を掛けてきた。
「――アンタ、何てことをしてくれたんだか?」
声のした方を振り向くと、黄薔薇姫が険しい表情でニュイを睨みつけていた。
その威圧的で不機嫌な彼女の態度に、ニュイは思わずたじろいでしまう。
「黄薔薇さん、どうしてここに?」
「トリカブト様、中々お休みになられないからお体に障ると思って、心配でついさっき、ここまで来たのだけれど。まさか、このタイミングで、妹の白薔薇が目覚めるなんて思いもしなかったわ」
怒気を抑えられない彼女の声が、間髪を入れずにニュイに浴びせられる。
「どころか、アンタが棺の鍵を見つけたんだって?見つけても、そのまま焼却炉にでも投げ込めばよかったものを、余計なことをしやがって」
「……」
肉親に対する発言とは思えず、ニュイは恐れと同時に怒りが湧いてきたのか、反抗的な目つきで黄薔薇姫を見ていた。
――緊迫した睨み合いの中、黄薔薇姫は感情の起伏のない声でこう告げた。
「今すぐ、妹の白薔薇を殺しなさい」
有無を言わせない威圧的で、躊躇いのない彼女の発言に、ニュイは終始面食らっていた。どうしてそんな恐ろしいことを平気で言えるのかと、ニュイも声を荒げて反抗の意を示す。
「そんなこと、できるわけないだろ!?それにあなたも、肉親の妹を簡単に殺せだなんて、そんなの、絶対おかしいだろ!?」
「アンタにだけは言われたくないわね。この殺人鬼めが」
「さつ、じ…ん、き…だって?」
黄薔薇姫は、狼狽えるニュイの姿を見て、更に煽り続ける。
「妖精から聞いたわよ。アンタ、フルールの記憶の花びらを集めてるんだってね?その為に、のこぎり草にウツボカヅラを殺すように依頼したり、花宝石を奪う為に月見草を殺したそうじゃない。私から言わせれば、アンタも大概狂っているわよ?」
侮蔑と嘲笑の意を込めて、黄薔薇姫はこう告げた。
「想い人の為だったら、他人の命さえも奪う――その点では、私とアンタ、全くの同類だと思うけれど?」
「……俺だって、こんなこと、本当はしたくなかったんだッ!?」
殺人鬼と煽られることが不快だったのか、ニュイは声を荒げて、必死に否定しようとする。フルールを助けるためとは言え、殺人を正当化できないことは当然に分かっていた。けれど、それしか方法がなかったから。仕方がなかったんだ、と何度も自分に言い聞かせる。
ニュイは、疲れ切った声で黄薔薇姫の命令を断った。
「……もう、これ以上は他人の血を流すようなことはしたくはない。だから、白薔薇さんを殺すことなんて、もっての他だ。俺は、絶対にやらない」
「へぇ、そんなことを言ってもいいのかしら?」
黄薔薇姫は、ニュイの拒否の申し出にも関わらず、挑発的な笑みを向ける。
そして、懐からペンダントを取り出し掲げる。それに火の付いたライターを反対の手で近づけて、こう告げた。
「――言うことを聞かなければ、このフルールの花びらを燃やす」
彼女の手に掲げられていたのは、月見草や白薔薇姫が持っていたペンダントと同じものであり、中に嵌められた青い宝石は、まさにフルールの記憶の花びらであった。
ニュイは、自分の置かれた状況を理解し始めて顔面蒼白となっていった。
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