月見草の部屋へと辿り着いたニュイを一目見て、月見草は期待の眼差しを向けて、近づいてくる。

「もしかして、楽譜の半分が見つかったの?」

「ええ、この通り」

 ニュイから小瓶を受け取った月見草は早速、小瓶から楽譜を取り出した。

「よかった。確かに『月の光』の楽譜だわ」

「喜んでもらえて、良かったです」

「それにしても、妖精さんたちはどこに、これを隠していたの?」

 ニュイは月見草のその質問を予想していたのか、あらかじめ用意しておいた答えでやり過ごそうとする。

「妖精たちにお願いしたら、持ってきてくれましたので。どこに隠されていたのかは、俺もよく分からなくて」

「そうなの?それにしては、この小瓶から少し変な匂いがすると思ってね。どこかゴミ置き場とかに捨てられたのかしら」

 月見草から小瓶を受け取って、鼻に近づけた瞬間、饐えた臭いが微かに鼻を突いた。ウツボカヅラの腹から取り出した小瓶は、彼の胃酸と体液に浸かり続けていたせいか、いくら水で洗い流したとはいえ、完全に臭いを取れていなかったようだ。

 ウツボカヅラが殺されたことは伏せた上で、ニュイは極力素知らぬ振りをした。

「そうですね……どこかのゴミ置き場に捨てられていたかもしれませんね」

「そう。あの子たちの悪戯にも困ったものね」

 月見草は『月の光』の楽譜をそのままピアノに立てかける。そして手招きして、ニュイに近くに座るように促す。

「それよりも、楽譜を見つけてくれたお礼をしたいの。ささやかではあるけれど、私の演奏を聴いていただけないかしら」


 ――そう言って、月見草はドビュッシー作曲の『月の光』を弾き始めた。


 静かな出だしで、ゆったりと奏でられる夜想曲。

 月見草の鍵盤を触る指のタッチは柔らかく、それでいて深みのある響きを奏でる。

 窓から差し込む月の淡い光に照らされて演奏する彼女は、一枚絵の絵画のようだ。

 ニュイはドビュッシーのこの曲を母親に聴かせてもらった頃を思い出す。

 詩的で、どこか表現のしにくい抽象的で美しい曲であった印象は、子供の頃から変わらないままで。むしろ、弾き手によって感情の乗せ方がこれだけ違うと、別の曲に聴こえるのだな、と感心していた。

 月見草が奏でると、やはり彼女の人生、特に恋愛観が伝わってくる気がした。

 植物人間になる前、彼女が愛した男性に――その想いを果たせないまま、彼の死を近くで看取れなかったことへの後悔が、悲恋の物語として奏でられているかのようであった。


 ――そして、月見草は演奏を終え、そっと鍵盤から指を離した。


 席を立ち、一礼をする月見草。ニュイは安らいだ気持ちで、自然と心からの拍手を送った。

「素晴らしい演奏を、ありがとうございました」

「どういたしまして」

 ニュイは彼女の演奏で安らいだ気持ちを切り替えて、再び、自身に緊張の糸を張り詰めていく。花宝石を分けてもらうために、月見草への対話を試みる。

「できれば、このままずっと、月見草さんの演奏を聴いていたいぐらい、幸せな一時を過ごせました」

「そんな、大袈裟ね。また、聴きたくなったらいつでも聴きに来てくれたらいいのよ?」

「ありがとうございます。ですが、明日にはこの館を出なければいけなくて」

「二度と会えないわけじゃないわ。またあなたの為に弾いてあげる。『月の光』の楽譜を見つけてくれた恩は決して忘れないから、ね」 

 月見草はそう言って、優しく微笑む。

 彼女の裏のない笑顔に対し、ニュイは思惑がバレないように作り笑顔を返す。

 どうすれば、この流れで花宝石を分けてもらえるような会話に自然と持っていけるのか。

必死で考えを巡らせるも答えは見つからず、ニュイの焦燥は募っていくばかりであった。

 そして、多少強引であることは自覚しつつも、ニュイは強行手段へと出ることとした。

「俺の方こそ、またお会いできる日を楽しみにしています。最後に、お別れする前に月見草さんにお願いしたいことがありまして」

「私に?何かしら?」

 ニュイは一呼吸置いた後、覚悟を決めてこう告げた。

「……花宝石を、見せて頂けないでしょうか?」

 

 ――ニュイのその一言を聞いて、月見草の表情から微笑みが消えてしまった。


 先ほどのまでの温かさのある雰囲気は部屋から消えて、代わりに、冷え切った空気が漂い始める。ニュイは、花宝石という言葉が月見草にとってこれ程までに地雷だったとは思いもせず、発言を撤回することも忘れて混乱の渦中に陥っていた。

 月見草は、ニュイの申し出を毅然として断った。

「ダメよ。絶対にダメ」

 彼女の口から非難染みた声で、拒絶の意思が告げられる。

「あなたのこと、すごく信頼しているの。だけど、花宝石のことを話に出されると、信頼できなくなってしまう。お願いだから、その話はやめて」

 ニュイは、何故ここまで拒まれるのか理解できず、つい感情的になって要求を押し通そうとしてしまった。

 ここで花宝石を分けてもらえなければ、フルールを助けられない――

 そんな脅迫観念が、ニュイに理性を以て解決する手段を奪ってしまった。

「それでも、お願いします!花宝石を分けていただかないと――」

「出て行って」

 何を言われたのか、理解できずニュイはその場で固まってしまう。

 月見草は、ニュイに向き直って喉が掠れるほどに大声でこう叫んだ。


「――出て行って、って言ってるでしょう!?」


 彼女には決して似合わない激昂を目の当たりにして、ニュイは言葉を失った。

 ニュイは為す術もなく、ただ呆然としたまま月見草の部屋を後にした。

 ――扉を締め、ニュイは脱力する体に身を任せながら、壁に凭れかかった。

「……何が、いけなかったんだ?」

 反省点を思い起こすも、これまでの自身の言動に落ち度があったとは思えなかった。ただ一つの敗因は、月見草の花宝石への異様な執着心を汲み取って、刺激しないように接しなければならなかったことだった。

 配慮が足りずに、軽率な行動に出てしまったことが全てであった。

 だが、いくら悔いても、花宝石を分けてもらえなかった事実は覆らない。睡蓮に花宝石を渡さなければ、今後の行動に支障を来すこととなる。

 ――どうやって、白薔薇姫が封印された棺を開ける?

 ――フルールに纏わる謎はこのまま解明されないまま終わってしまうのか?

「このままじゃ、フルールを助けることができない」

 

 もしも、花宝石を分けてもらえないのなら

 最悪の場合、月見草を殺してでも――


「…っつ、何を考えているんだ、俺は」

 ポケットに仕舞っていた影狼の召喚護符を握り絞めて、ニュイは何度も頭を振った。――この影狼を使って、月見草を殺して花宝石を奪えと。睡蓮の言葉が悪魔のように囁き続ける。


 ――その時、聞き覚えのある子供のような声がニュイを呼んだ。

「ヤァ、お兄さん。そんなところで蹲ってどうしたの?」

「元気ないね、お兄ちゃん。どうしたのかな?」

 無邪気を装う妖精たちだが、明らかに声のトーンが普段と違っていた。

 仲間を殺されたことへの怒りに満ちた目は、如何にしてニュイに対し復讐を遂げようかと企てているものだった。

 だがニュイと言えば、花宝石を分けてもらえなかったことが余程ショックだったのか、妖精たちの悪意を感じ取れずにいた。

 何より、彼らの仲間を殺してしまったことを一時的に忘れてしまっていた。

「……どうしたら、月見草さんから花宝石を分けてもらえるか、と悩んでいてな。途方に暮れていたところだよ」

「花宝石を分けてもらいたい?」

 妖精たちが顔を合わせて、その意図を図りかねていた。ニュイは藁にもすがる思いで、妖精たちに助けを求める。

「あ、ああ!何としてでも分けてもらいたいんだ!何か方法はないのか!?」

「ねぇねぇ、花宝石ってさ」

 妖精たちは急に何やらニュイに聞こえるようにヒソヒソ声で話し始めた。

「あー、アレね。主人が、再婚の証に月見草に渡したけど、当の本人は不服なんでしょ?」

「そうそう。だって、月見草が好きな人はトリカブトだもんねー」

「人間だった時に、会いに行けずに死んでしまった元彼にそっくりなんでしょ?月見草も未練タラタラよね〜」

「……お前たち、今の話は本当なのか?」

「あれ?何のことかな?お兄ちゃん?」

 妖精たちはクスクスと小さく笑うと、わざと惚けたフリをして話を濁す。

「僕たちもよく知らないけどね。あの宝石は止めておいた方がいいよ?生きているからサ。所有者の元を離れたら何をしでかすか分からないよ?」

 ニュイは妖精たちの警告を聞き留めず、苛立つ感情に任せてこう叫んだ。

「それでも!月見草さんから花宝石を分けてもらわないと、いけないんだ‼」

  妖精たちは、ニュイが感情を露わにしている姿を見て、罠に掛かった獲物を見るかのような笑みを見せる。そして、愉しげにこう告げた。

 

「そんなに欲しいならさぁ」

「一つだけ方法があるじゃん」


 不気味に微笑む妖精たちを前に、ニュイは厭な予感がして、そのまま逃げようとするも、動かなかった。いや、正確に言うと、妖精たちの瞳に魅入られてしまったせいで体が強張って思うように動けなくなってしまっていた。

 妖精の1匹が顔を覗き込むようにして、話しかけてくる。


「――ねぇ、アンタってサァ、『美女と野獣』って童話知ってるよね?」

「美女と、野獣…?」

 何故、今その話が出てくるのか、とニュイの思考は白紙と化しそうになる。

 妖精たちはニュイの周りをくるくると廻りながらこう問いかける。

「物語のお姫様は無事に、王子様に会いに行けたけど」

「会いに行けずに、見殺しにしたお姫様はどうなったか、知ってる?」

 妖精のその問いに、ニュイはハッとして気づく。

 ――王子様に会いに行けずに、見殺しにしたお姫様?

 それって、月見草の過去のことじゃないか!とそう気づいた時には、ニュイは既に妖精たちの手中に落ちていた。

 妖精たちは煽り続けるように、ニュイの周りを飛び続ける。


「その不運なお姫様は」

「気がつけば」

「森深く」

「彷徨い歩き」


 囁くような妖精の笑い声は、水音のようにニュイの脳内に反響し続ける。

 赤く明滅する、その妖精らの光を目で追えば追うほど、ニュイの視界は赤く染まり

 思考はノイズがかかったかのように、狂いそうになる。


「空腹に苛立った野犬たちに」

「逃げ場もなく囲まれて」

「そのまま」

「為す術もなく」

「鋭い牙で噛まれ」

「貪るように」

「喰われて」


「「――――コロサレタ、コロサレタ!!アハハハハははははははははっ‼」」

「ああ、あ、あああぁぁぁぁああああ!?」

 

 抑えきれない殺人衝動。

 妖精たちの魔性の声は、人間の感情を揺さぶり、表に出してはならない狂気を引き摺り出す。

 ニュイは、懐に仕舞ってあった影狼の召喚護符を放り投げて、声が掠れるほどに、「殺セ!殺シテシマエ!」と何度も叫んだ。

 

 月見草の部屋の中で、無数の影狼が、大きな音を立てて暴れている。

 窓ガラスが割れ、物が倒れ、悲鳴が止まない悪夢のような時間。

 影狼たちは月見草を襲い、引き裂き、喰らい、咀嚼し、血を流させた。

 雪のように白い彼女のドレスは赤く染まり

 月夜に輝く白い花は散り、ただの肉塊に変わってしまった。


 そんな悪夢が終わりを告げ、静寂が訪れた頃には

 ニュイは息を切らして、我に返っていた。


 そして、扉をゆっくりと開ける。

 飛び込んできた凄惨な光景を目の前にして、何てことをしてしまったのかと、ニュイはただ悔いる他なかった。

 だが、その後悔と同時に、奇妙な安堵感が湧き上がってきたのも事実であった。

 ニュイは乾いた笑いを漏らして、ふらついた足取りで歩き始める。

「……でも、これでフルールを助けることができるんだ」

 花宝石を睡蓮に渡せば、フルールを忘却の呪いから助けるための糸口が生まれるはず。その思いだけを頼りに、ニュイはドレッサーの前までゆっくりと歩み寄った。

 花宝石の入った宝箱を手にし、ポケットにあったハンカチで一つずつ丁寧に、花宝石を取り出し始める。確かに、花宝石は美しい宝石細工であり、仮に市場に出回ることがあればとんでもない値打ちが付くものに違いなかった。

 その折、花宝石以外にも、何か意匠の施された綺麗な鍵が一緒に出てきた。

「花宝石以外に、何でこんなところに鍵が?」

 通常の部屋の鍵よりも、一回り大きな鍵が宝箱の底に入っていた。

『鍵』と言うワードに対して思わず、白薔薇姫の封印された棺の鍵ではないか、とニュイは思い始める。

「まさか、月見草さんがこの鍵をずっと隠し続けて――」

 その時、そのニュイの背後から幽れた声が聞こえて来た。

「……そ、のカギ…、は、ぜった、いに…トリ、カブトさま、に渡しちゃ、ダメ…」

 愛おしそうに鍵を見つめて手を伸ばす月見草に、ニュイは思わずヒィッと声を漏らした。

 月見草は死力を振り絞り、何度もトリカブトの名前を口にしていた。

 そして彼女は血だまりの海で横たわり、そのまま動かなくなってしまった。

 

 突如、ガン、ガン、ガン――と地獄の底から奏でられるかのような重音が鳴り響く。


 ピアノは怒りに震えていた。

 誰が弾いているわけでもないのに、その低音域の鍵盤を叩きつけるようにハンマーが弦を打っていた。

 ピアノは、月見草の死を、本気で憎んでいるかのようであった。

 ニュイは急に恐くなって、花宝石の入った宝箱を持ち出し、そのまま月見草の部屋から逃げるように去っていった。

 だが、月見草の部屋から離れて、逃げ続けても――

 月見草を死に追いやったことを責めるかのように、未だ、ニュイの耳の奥にはそのピアノの重音が脳内に鳴り響いていたのであった。

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