Ⅳ
階段を一歩、また一歩と上がる度にピアノの音がより近くに聞こえてくる。
曲名は、第4曲『美女と野獣の対話』――魔法により野獣の姿に変えられてしまった屋敷の主が、商人の娘と恋に落ちる。だがある時、娘の父が床に臥した知らせを受け、娘は一時帰郷してしまう。姉たちの策略により、屋敷の主に会うことを邪魔され続けるも、娘は野獣が死にかかっている夢を見て、屋敷へ急いで戻った。
そして、2人は互いの愛を確かめ合い、野獣は王子の姿へと元に戻り、幸せに暮らしたという物語である。
「また、何かを暗示しているのか…?」
ニュイは少し警戒心を強めながらも、階段を上り切った。
――すると、視界は広がり貴族の夫人のような部屋へと来た。
部屋に来訪したニュイに気を止めることもなく、白いドレスを身に纏った女の人がピアノを弾いている。
その女性は、頭に月見草の花を象った髪飾りをしていた。
ニュイは入り口付近で立ち止まったまま、その演奏にしばし耳を傾けていた。
鍵盤をそっと撫でるように動く彼女の指は、繊細な音色を奏で、時には緊張の糸が張り詰めていくような激しい音と音とのぶつかり合いを奏でる。
物語における美女と野獣の恋の苦悩を、ピアノが語っているかのようであった。
――どのくらいの時間が経ったのだろう。
気がつけば曲は終わりを告げ、静寂が一瞬だけ訪れる。
そして月見草は一礼し、こちらへと歩み寄って来た。
「あなたが、のこぎり草のお客さんね?」
「はい、初めまして。ニュイ・アブリールと言います」
近くで見た月見草は絶世の美女であった。彼女の華奢な体を抱きしめれば、そのまま儚く散ってしまいそうな危うさを幻視してしまうほどだ。
月見草が夜に咲く花だからであろうか。月明かりに照らされた彼女は、穢れを知らない雪のように淡く白く光っている。
月見草は優しく微笑み、こう話しかけてくる。
「可愛いらしいお客さんが来たと聞いてね。会ってみたかったの」
「だから『マ・メール・ロワ』を弾かれたのですね。びっくりしました。あの曲がそのまま月見草さんと会うための手掛かりになっていたなんて」
「他にも、この部屋に辿り着く方法はあるのだけれど、私はこうやってピアノを弾くことでしか、ニュイ君に伝えることができないから」
「けれど、『マ・メール・ロワ』は連弾の組曲のはずなのに、どうやって御一人で弾かれていたのですか?」
「この子と、一緒にね」
月見草はそう言って、傍にあるグランドピアノを子供の頭を撫でるように、そっと手を置いた。
「ピアノ、ですか?」
「ええ。不思議に思うかもしれないけれど、この子は生きているのよ」
「ピアノが、生きている?」
ニュイは彼女の言葉が理解できずにいた。目をパチクリとさせて困惑しているニュイを余所に、月見草はこう告げる。
「あなたをここまで導いてくれたのも、この子のおかげなのよ」
「そう、ですか」
少しの沈黙の後、ニュイは月見草に色々と尋ねてみることにした。
「月見草さんは、どうしてこの館に?」
「ここに来る経緯とかは、よく覚えてなくて。ただ一つだけ、今でも覚えていることがあるの」
月見草はそう言って、月明かりの差し込む窓際の方まで歩み寄った。
「――昔ね、私には婚約者がいたの。でもその婚約者の彼が病気になっちゃってね。病弱で大変な彼に会いに行かなきゃいけないことは分かっていたのだけれど、お母さんの看病をしなければいけなくて。そしてある時、彼が死んでしまった夢を見てしまった。その次の日には、彼の訃報を聞いたわ。私がまだ人間だった時、彼に会いに行けずに、そのまま見殺しにしてしまったの」
月見草はそう言って、悲しげに表情を曇らせる。俯き、涙が流れるのを堪えるかのように少し肩を震わせていた。
「物語のお姫様は、愛する彼の元へ行けたけれど――私は、行けなかったから。それだけが、唯一の心残りで」
ニュイはこの時、彼女が『マ・メール・ロワ』の第4曲『美女と野獣の対話』を弾いていた理由をようやく理解した。彼女は自身の過去が、物語の恋の行く末のようになってくれればいい、と。今では叶わない願いを込めて弾いていたのだ、とそう理解した。
「でも、今の私はとっても幸せよ。この館で旦那様とずっと一緒に居られるから。あの人は、私にとっても優しくしてくれるのよ」
「そうですか。素敵な旦那さんに会えて、良かったですね」
ニュイはそう言って相槌を打つも、内心は会話のペースを掴みにくい人だな、と思っていた。しかし、睡蓮が言うには、この人が館内でも中々会うことができない花宝石の所持者であることは確かであった。
月見草はニュイの方へと振り向き直ると、何かに気づいたような表情をした。
「あら、その髪飾りは?」
月見草は、ニュイのブレザーの右ポケットを注視していた。
「もしかして、俺がフルールの髪飾りを持っていることが分かるのですか?」
「ええ。同じ植物人間同士、何故だか分かってしまうの」
月見草は徐に首にぶら下げていたネックレスをとると、ペンダントから青い宝石のようなものを取り出す。ニュイはその宝石に見覚えがあったのか、驚きで表情が強張っていた。
「フルールの、記憶の花びら!?どうしてそれを持っているのですか?」
「睡蓮に言われていてね。それを必要とする人が現れるまで持っていてくれ、って」
「睡蓮さんが?」
「やっぱり、このフルールの花びらが必要なのね」
月見草はそう言って、ニュイの手の平にフルールの記憶の花びらをそっと置くと、問いかけるような視線でニュイをじっと見つめる。
「――ニュイ君はフルールのこと、どう思っているの?」
「……え?」
ニュイは唐突な質問に面食らうも、彼女の真剣な眼差しを見て、自分は試されているのだと、瞬時に理解する。
そして、一呼吸置いてから月見草にこう答えた。
「俺は、フルールのことが好きです。心から愛しています。
でも、フルールはワスレナグサの呪いのせいで、俺との思い出どころか、いずれ俺の名前すら覚えられなくなってしまうそうです。
そんなのは、嫌です。彼女にこれ以上、俺のことを忘れて欲しくないから。どんな危険な目に遭おうとも、全ての花びらを集めてみせます」
「そう。君になら任せても大丈夫そうね」
月見草は握っていたニュイの手を離し、フルールの記憶の花びらを託した。ニュイはすぐに右ポケットから髪飾りを取り出し、欠けた花びらの一つを充てた。
「改めてありがとうございました。なんと、お礼を言ったらいいか」
「お礼なんていいわよ。残り2つも大変かもしれないけれど、頑張ってね」
「いえ、せめて何かお返しがしたいな、と。何か困りごととかありませんか?」
「それじゃあ、1つだけお願いを聞いてくださらないかしら?」
月見草はそう言って、楽譜の入った本棚へと歩み寄ると、その中の一冊を取り出して、困った表情を浮かべた。
「妖精さんにドビュッシー作曲の『月の光』の楽譜を何処かに隠されちゃってね。ほら、楽譜の半分が無くなっちゃっているでしょう?」
「なるほど。その残りの半分の楽譜を探して欲しい、と」
「お願い出来るかしら?ちなみに、ニュイ君は今、妖精さんと一緒じゃないの?」
「妖精、と?」
何故、妖精の話が出てきたのか。予想外の質問に、ニュイは一瞬だけ狼狽えた。
「……西館の物置に来るまでは一緒だったのですが、途中で逸れちゃいまして」
「そうなの。ニュイ君に会うついでに、隠した楽譜の場所を教えてもらおうと思って、『親指小僧』を弾いたのだけれど。仕方ないわね」
溜息を吐きつつ、月見草は部屋の入り口の方を指差す。
「この部屋に来る時はまた、人形のネジを巻いて、音楽を奏でさせればいいわ。そうすれば、同じように階段が出てくるはずだから」
「分かりました。それでは、探してきます」
部屋のドアをそっと閉めて、颯爽と歩き始める。
――そして、月見草の部屋の様相を思い出しながら、ニュイは確信を抱いた。
「……あれが多分、花宝石の入った箱だ」
ニュイは、月見草の部屋にあったドレッサーに置いてある宝箱を見つけていた。開いたままの蓋から、如何にも高価そうな宝石の類が箱から溢れていたのを思い出す。
「まだ、月見草さんと会う機会はある」
ほとんど軟禁状態にされている彼女の事だ。客人を2度も部屋へと招き入れる理由がないと、同じ方法でこの部屋まで来れる保証なんてどこにもなかった。
だからニュイは、彼女との接触を続けるために依頼事を任せてもらった。全ては、花宝石を分けてもらうために――
そして、ニュイはかくれんぼ途中の妖精2匹を探しに、西館から玄関の方へと向かった。
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