時刻は夕刻頃に差し掛かり、宵闇が辺り一帯に影を落としていく。

 ニュイは噴水の石段をベンチ代わりに腰を下ろして、残骸と化したタンポポの茎を手持ち無沙汰に弄んでいた。

「本当に、この庭にはもうタンポポは咲いてないんだな」

 のこぎり草さんの言う通りだったと、ニュイは嘆息する。肝心の黄薔薇姫といえば、館へと戻ってしまったらしい。

 早くタンポポの花を渡さなければ、この森で野宿を強いられることは分かっていたものの、今のニュイはどこか上の空であった。

 それもそのはずで、先ほどのマンドラゴラに襲われた友の死が、脳裏に焼きついて離れなかった。

 苦痛に顔を歪め、助けを求めていたモール。

 何もできずに、その場から逃げるしかなかったニュイ。

 あの時、モールを助ける方法は他にもあったのではないか、とニュイは答えのない問いを繰り返していた。

「モール……」

 亡き友の死を悼んでいると、気づけばニュイはふらついた足取りで門前にまで歩み寄っていた。

 元来た道は一寸先が濃い闇で覆われており、とてもじゃないが一人で村まで歩いていける自信はなかった。

 ――ニュイはふと、風に揺れる小さな花を無意識に注視する。

「あ、あれは?」

 タンポポだと、頭が理解する前にニュイは門の外へ飛び出していた。

 夕闇に咲くタンポポはニュイを誘うようにして、微笑んでいるかのようであった。

「よかった、まだこの近くに咲いていたのか」

 胸を撫で下ろし、タンポポを摘み終えた直後のことだった。


 ――突如、辺り一帯が水面のような静けさに満たされる。


 風の音も、虫の声も、この世界から消えてしまって、まるで自分だけが取り残されてしまったかのような錯覚に襲われ、ニュイはその場で立ち竦んでしまう。

 ニュイは辺りをゆっくりと見渡す。だが、彼の吐く息は乱れ、うまく呼吸ができなくなっていった。

 何故か先ほどの、モールの死に様が何度も彼の脳内でフラッシュバックした途端、ニュイは身体を奮い立たせて、走り出した。


 ――その時、森の茂みからニュイ目掛けて、マンドラゴラが躍り出てきた。

 

 間一髪のところで、マンドラゴラの腕はニュイの背中を掠めただけで済む。ニュイは振り返ることなく館へと一直線に逃げていく。あのまま立ち止まっていれば命はなかった。

 怪物の抱擁から免れたのも束の間、マンドラゴラは常軌を逸した動きで、地を踏み、そのままニュイ目掛けて追撃を試みる。

 ニュイが門に手をかけ、勢いよく閉めたのと同時に、マンドラゴラは上半身を滑り込ませてきた。

「――っ!このっ!?」

 何とかして締め出そうとするも、マンドラゴラは怯むどころか押し返してきた。門扉に挟まれているため、力を出しにくい体勢にも関わらず、マンドラゴラは力ずくで門を抉じ開けようとしてくる。

「……ぐぐっ、クソッ!クソッ!う、うわあああああ!?」

 そして、力負けしたニュイはそのまま反動で後ろへと転び、マンドラゴラの侵入を許してしまった。

 地べたを這いつくばり、館の誰かに助けを求めようとするも、恐怖で乾いた喉からは声にならない息が漏れただけだった。

 死にたくないと、そうニュイは抗うも既に遅かった。

 そしてマンドラゴラは、ニュイにゆっくりと覆い被さると、牙を剥き、捕食体勢に入った。

 そして、そのまま、ニュイを――

「…………」

 死を覚悟し、ニュイは目を固く閉じた。だが何も起きないことに違和感を覚えて、そっと目を開ける。

 すると、頭上からポタポタ、と赤い液体が滴り落ちてきていた。それが〝血〟だと理解した時には、マンドラゴラの顔全体を伝って血が流れているのが見えた。

 ――よく見れば、マンドラゴラの頭を破るようにして、ノコギリ状の刃物が突き刺さっているではないか。

「間一髪だったな、アンタ」

 聞き覚えのある声に振り向くと、のこぎり草が頭上で悪戯っぽく微笑む。そしてマンドラゴラを乱雑に蹴り飛ばす。

 脳天をやられ、即死したマンドラゴラはそのまま仰向けに地へ倒れた。自分は助かったのだと、ようやく頭が理解し始めた時に、のこぎり草は話を続けた。

「おいおい、この時間帯に迂闊に門の外に出たらさすがに危ないぜ?ヤツらは日中、ずっと土の中で眠っていて外からの光を遮断して過ごしているんだ。何故だか、わかるか?」

「………」

 恐怖で竦んでしまってニュイは答えることができなかった。

のこぎり草は話を続ける。

「光を浴びると、ヤツらは聞くものを死に至らしめる叫び声をあげるんだ。でもどうやら、奴らにとってもそれは不本意みたいでな。だから日中は土の中でほとんど過ごしているんだ。だが、夜になると話は違う。元々、凶暴な性格だから、迂闊に出歩いたりすれば、すぐに襲ってくるぞ。それに、目が見えない分、音にすごく敏感だって聞くしな」

 のこぎり草は心配そうにこちらを見遣る。

「たまたま、様子を見に出てきたから良かったものの。本来なら、あの世行きだったんだぜ?」

「すいません、門の外にこれが咲いていたもので、つい…」

 差し出されたタンポポの花を見て、のこぎり草は目の色を変えて歓喜する。

「でかしたぞ、アンタ!黄薔薇のお嬢はもうカンカンでよぉ。とにかく急いで、渡しに行こうぜ!」

 のこぎり草は、ニュイの腕を掴むと館内へと案内する。

「黄薔薇のお嬢!ただいま戻りましたぜ!」

 その玄関付近のソファーにて、黄薔薇姫が機嫌悪そうに座っていた。のこぎり草の姿を見るや否や、黄薔薇姫は鋭い眼差しを向けた。

「……のこぎり?どこほっつき歩いていたの?こんな時間になるまで待たされるとは思ってもいなかったわよ」

「いやぁ、夕飯の準備で忙しくてですね。代わりに、俺の友人に探すのを手伝ってもらっていたんですよ。何とか見つかったみたいでしてね、ほら」

「ふーん。あっ、そう」

 興味なさげに返事すると、黄薔薇姫はニュイからタンポポの花を受け取った。

「それよりも、アンタ。私にこれを渡したってことは覚悟はできているのよね?」

 黄薔薇姫は、ニュイの方を一瞥すると不敵な笑みを浮かべた。

「今日はね、私、すっごく機嫌が悪いの。もしも、また〝嫌い〟で終わるようなことがあれば、アナタを館外のマンドラゴラの餌として放り出すから、覚悟してね?」

 ニュイに答える暇を与えることなく、彼女はタンポポの花びらに手をかけた。

 そして、花びらを1枚、また1枚と、その繊細な指で千切っていく。

「好き、嫌い、好き、嫌い……………好き、嫌い、好き、嫌い」

 先ほどの会話で見せた野蛮さは失せ、花占いをしている黄薔薇姫のその姿は乙女そのものだった。想い人を頭の中で描きながら、花びらを千切る声にも情が滲み出ている。

「黙っていれば美人なんだけどな」

 と、のこぎり草が小声で耳打ちしてくるも、黄薔薇姫は花びらを千切るのに夢中で聞こえていないみたいだった。

「好き、嫌い、―――」

 残り僅かとなってきた。徐々に彼女の花びらを千切るスピードも上がっていく。ニュイは死刑宣告を待つ囚人の気持ちのように、生きた心地がしなかった。

 もしも〝嫌い〟で終わることがあれば、自分の命はない。次にマンドラゴラに襲われることがあれば、絶対に助かることはない。

 死に対する恐怖心からか、立っていられないほどの眩暈に襲われるも、ニュイは心の中で必死に祈り続ける他なかった。

 

 ―――好き、嫌い、好き、嫌い、好き―――


 そして、黄薔薇姫は最後の一枚を千切り終えた。


「好き」


 ひらひらと舞い落ちる最後の花びら。

 その場にいた全員が目を丸くして、立ち止まっていた。

 そして、黄薔薇姫は目を爛々と輝かせて、歓喜の声を上げた。

「ほらね、やっぱりね!私とトリカブト様は相思相愛だったのよ!さっきまでのは何だったのかしら?きっと間違いよね、ね?」

 彼女はそのまま鼻歌交じりに軽やかな足取りで館の奥へと姿を消していった。緊張の糸が切れたのか。ニュイは、その場でへたり込んでしまった。

「ヒューッ!!旦那!さっすがじゃねぇか!おかげで助かったぜ!ありがとうな!」

 のこぎり草は、よくやったと言わんばかりにニュイの背中を豪快に叩いている。ニュイはなす術もなく、その称賛を受け容れる他なかった。

「ど、どうも。ありがとうございます。のこぎり草さん…」

「そんな気を遣って敬語なんて使わなくていいよ。俺たちは友達だって館のみんなには言ってるんだから、な?あんまり他人行儀だと、疑われちまうから、固いことはナシで行こうぜ」

「あ、ああ。分かったよ。こっちこそさっきはありがとな。助かったよ」

「これ、旦那の部屋の鍵だ。て言っても俺の部屋の鍵だけどな。2階の一番奥が俺の部屋だ。そこを自由に使ってくれ」

 のこぎり草は、懐から取り出した部屋の鍵をニュイに渡した。

「旦那のこと、館内の他の奴らには俺から伝えておくよ。大事な客人だってな。安心して泊まって行ってくれ―――」

 そう言い終えた折、館内の静寂を破るようにして、男の怒声が響き渡った。


「――ノコギリぃぃ!?どこ行きやがった!!オレの飯はまだかァ!?」


「…ッチ、あのデブ…また俺のこと呼んでやがる」

 耳を劈くような怒声に面食らっていたニュイを余所に、のこぎり草は駆け足気味にその場から離れようとする。

「すまんな、旦那。俺はこの館の門番と料理人を兼ねていてな。呼ばれちまったんで、行ってくる。旦那は俺の部屋でゆっくりくつろいでいてくれ。あとで、ちゃんとメシも持っていくからよ」

 ニュイは、のこぎり草の背中を見送る。そして今自分の置かれている状況を再び認識し始める。どうやら、マンドラゴラの潜む森で野宿する羽目にならずに済んだ、とニュイは安堵した。

「…少し、疲れてしまったな」

 色々と考察すべきことはあったものの、体の疲弊には抗えず、ニュイは部屋を目指して一歩、また一歩と目の前の大階段を上っていく。

 床を歩くたびに、ギシッ、と張りのある音が足元から聴こえてきた。そして、のこぎり草の指示された通りに、2階の一番奥の部屋へと歩みを進めていく。

 ――すると、目的地手前の部屋のドアが半開きになっているのが見えた。

 部屋からは僅かに光が漏れていて、廊下を薄っすらと照らしている。

 住人がいるのかと、半開きとなったドアから様子を伺う。そこに佇む少女の姿を見て、ニュイは思わず声を漏らしてしまった。

「……もしかして、フルールなのか!?」

 その声に気付き、驚いた少女と視線が合う。

「…あなた、は!?どうして、ここに…?」

 2人はしばらくの間、見つめ合って動けずにいた。秒針の刻む音だけが、その静けさの中、鳴り響いているようだった。

 そして、小走りで駆け寄ってくるフルールを前に、ニュイは目線を泳がせながら、必死に言い訳を考えていた。


「ええっと、どこから話せばいいのか、俺もよく分からないんだけど…

 ――――って、え?」


 そう言い終える前に、フルールはニュイの胸に飛び込んできた。

 これほど間近に接したことがなかったため、ニュイは夢心地で一瞬我を忘れていた。だが、彼女のいい匂いが鼻腔を擽るにつれ、ようやく頭が現実なのだと理解し始める。

「ふ、フルール!?ど、ど、どうしたんだよっ、一体!?」

 意中の彼女が自分の胸の中に飛び込んできたことに、ニュイは狼狽えていた。だが、フルールの様子がおかしいことに気づく。

 彼女は小さく肩を震わせ、その小さな手で懸命にニュイの胸元をぎゅっと握っている。そして、消え入りそうな声でこう呟いた。

「ここにいたら…危ない、よ……だから、早く…にげ、て―――」

 そこまで言い終えると、フルールは糸が切れた人形のように、ニュイに凭れかかるようにして倒れてしまった。体勢を崩さないように抱き止めた直後、フルールはニュイの腕の中で可愛らしい寝息を立てていた。

「…眠ってしまったのか?」

 うまく状況が飲みこめないまま、ニュイは彼女を抱え呆然とする。そして、無防備に身を預ける彼女に理性が思わず揺らぎそうになるも、ニュイはその華奢な体を抱え、彼女をベッドにまで運んでいく。結局、フルールが伝えたかったことが分からないまま、ニュイは彼女の部屋を後にする他なかった。

 大きな音を立てないように、彼女の部屋のドアをそっと閉める。

「ここにいたら、危ない…だって?」

 フルールは、何を伝えようとしていたのか。徐々に冷静になって、彼女の言葉の意味を理解しようとする。

 だが、判断材料が足らずに、ニュイはすぐに頭を振って、のこぎり草の部屋へと向かっていった。

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