第2章:マンドラゴラの潜む森で
Ⅰ
「……いっつも暗いよな、ここ」
「ああ。フルールもこっちに向かったはずなんだが」
2人は言葉少なに腐葉土の地面を歩いていく。ニュイは手持ちの懐中時計を見遣る。2人が森に足を踏み入れてから30分ほどの時間が経っていた。だが、森の中では時間がゆったりと流れているようで何時間もの間、彷徨い歩いているかのように思えてしまう。
天候は徐々に曇り空になってきた。森の中は徐々に霧がかかったかのように見える。自分は今、妖精に誑かされているのではないだろうか、とニュイは不思議な心地のまま歩いていた。
聞こえてくる虫や鳥の鳴き声。風は木々を妖しく揺らしている。ニュイは、四方に囲まれた木々の隙間から、こちらを伺う獣の視線を感じた気がした。
ニュイは少し不安になって、隣を歩くモールを見遣る。だが、モールはと言えば、緊張感の欠けらもない拍子抜けした表情で、両手を頭に組んでいた。
「嬢ちゃんも完全に見失ったし。何もなければそろそろ戻るか?日が暮れたら困るしな。面白いことは何もなかったけどよ」
恐怖の色一つすら見せない友人を前に、ニュイは驚きを隠せずにいた。
「…?どうした、ニュイ」
「ああ、そろそろ帰ろう。さすがに怖くなってきたぞ。モールはまだまだ平気そうだけど、すごいな」
「ん?ああ。だってマンドラゴラなんて実際にいるかどうかもよく分からないからな。ビビる必要もないと思うぜ?」
「え、でも村の人たちはみんなこの森はマンドラゴラが出るから危険だって言っていたじゃないか」
「まぁな。俺が聞いた話だと、過去に一度だけ、村の男たちが森の奥深くに入った時に遭遇したらしくてさ。どうやらマンドラゴラの叫び声を聞いて、死んでしまったらしい」
「全員が?」
「いや、1人だけ命からがら生き延びた奴がいたみたいでな。そこからこの森が〝叫びの森〟として恐れられ始めたんだよ」
モールは辺りを見渡しながら、軽快な口調で答える。
「ずっと昔から不気味な森としての印象が強かったからさ。挙げ句の果てに長老が『昔からマンドラゴラが住み着いていた』のだと吹聴したもんだから、村のみんなが信じ込んでしまって、そのまま伝説みたいになっちまったわけよ」
「そうだったのか…」
「その後も噂が噂を呼んで、尾ひれが付きまくってさ。何が本当なのか、よく分からなくなっちまったってわけよ……って、お?何だこりゃ?」
モールは地面に光る何かを見つけて手を伸ばした。
「これ、女の髪留めか?何でこんなとこに落ちてるんだか」
「それ、ちょっと貸してもらっていいか?」
ニュイはモールから手渡された髪留めを宙に翳し、じっと見つめる。薄青色の花びらは、透き通って輝きを放っている。ニュイはそのまま目を見開き、上ずった声をあげた。
「こ、これ!?フルールの髪留めじゃないか!」
「どうやら当たりだったみたいだぜ、ニュイ。アレ、見てみろよ」
モールに促されるまま、ニュイは顔をそちらに向ける。木々に阻まれてよく見えなかったが、注視すれば森の奥に館らしきものが見えるではないか。
「こんな森の奥に家が?」
「例のお嬢ちゃんの家かな。にしてもこんな所に住んでいるなんて、益々怪しくなってきたな」
「モール、頼むから臆測で語るのはやめろ。まだそうと決まったわけじゃねぇだろ」
「本当にあの娘は魔女なんじゃ」
「モールッ‼」
ニュイにはこれ以上、彼女が中傷されるのが我慢ならなかった。怒りに身を任せ、悪友に掴みかかろうとした。
――だが、友の背後に潜むモノの存在に気づいた途端、ニュイの身体は恐怖に支配された。
「も、モール…う、後ろっ……!?」
恐怖で乾き切った喉からは、掠れた声しか出なかった。ニュイの忠告はモールに届くことなく、彼の背後に潜む〝死神〟に猶予を与えてしまった。
「ああ?ニュイ、あの娘のことでいちいち怒るのはやめ…」
モールがそう言い終える前に――
――何者か、いや、何かの強靭な顎が、モールの首筋を貫いていた。
「あ、が、がああぁぁぁぁあああ!?」
突如、何が起こったのか分からないまま、モールは懸命に怪物の呪縛から逃れようとする。だが、鎌のように鋭い爪が彼の体を掴んで離さない。
懸命に振りほどこうと暴れ捥がく友人を前にして、ニュイは一歩も動けずにいた。
「……もしかして、これが、マンドラゴラなのか!?」
その人型の怪物は赤黒い粘土のような皮膚に覆われている。その土のような皮膚全体を得体の知れない植物が絡み付いていた。
人間離れした歯牙を何度もモールの体に突き立て、その口元を血で濡らし、貪婪に食らうその姿はまさに〝獣〟そのものだった。
「ニュイ、ニュイ!何してんだよッ!?早く助けてくれよ!?早く!はや、痛ぁぁあぁがががが‼やめろォ、離せェッッ!?」
「――ッ‼」
金縛りにあったように動かなかった体を鞭打ち、生存本能のままニュイはその場から全力で離れた。
心臓が早鐘を打っているのが、耳が痛いくらいに聞こえる。
背中に蛇が這いずり回るような死の悪寒は止むことなく、ニュイはただ一心不乱に助けを求めに館へ走っていく。
途中、何度も足が縺れ、転倒しそうになるのを押さえ、ニュイは祈る様にして走り続けた。
――最後に、友の断末魔が背後から聞こえた気がした。
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