Ⅲ
診療所の前に辿り着くと、ニュイは一呼吸置いてからそっと扉に手をかけた。
扉の向こうには棚の薬品を整理する、男の姿があった。
「やぁ、ニュイ。また例の薬かい?」
そう声をかけてくれた男性の名はユヌである。3年ほど前から掛り付けの医者としてこの村に駐在するようになったらしく、村の皆からはユヌさんと呼ばれている。ニュイもよく診療所を訪れていたため、ユヌとはようやく気さくに話し合える仲となった。
「はい、母さんがまた頭が痛いって言ってて…」
「そうか、ちょっと待ってくれよ。確かまだこの辺に残って…」
ユヌが棚の上の方をゴソゴソと探していると、奥の部屋から一人の少女が姿を見せる。
――赤いスカートと刺繍の入った黒いエプロンの少女。
ニュイは驚いた表情のままで、少女の方を見遣った。
「あ」
彼女だ。ニュイの心臓が一際大きく跳ねた。
少女はじっと見つめられるのが恥ずかしかったのか、壁からちょこんと顔だけを覗かせて挨拶をした。
「……こ、こんにちは」
彼女の頭につけた大きなリボン型の飾りが小さく揺れた。
どこか儚げで、放っておけない少女。その容姿もかつて、都会にいた時の初恋の女の子に似ていた。
「あ、ああ。また会ったな、フルール」
ニュイが照れ隠しに何でもない風を装うと、フルールはこちらへと近づいてきた。
2人の間に沈黙が流れる前に、ユヌが薬の場所をフルールに尋ねる。
「ああ、フルールちゃん。また例の頭痛薬なんだけど、在庫あったかな?」
「ありますよ、ユヌさん。今日持ってきた分があったはずです」
「ああ、そうか。これだこれだ。ほら、ニュイ。お母さんに渡してあげてくれ」
「ありがとうございます、ユヌさん」
「お大事にね。私は、これから村の人たちに薬を配りに回ってくるよ」
「訪問診療へ行かれるのですか?珍しいですね」
「定期的に患者さんの顔を見て、お話を聞くのも医者として大事な仕事なのだよ、ニュイ。では、行ってくるよ」
ユヌはそう言って、訪問診療へと出かけたのだった。
ニュイはフルールと話をする絶好の機会だと思った。フルールが喜んでくれそうな話を頭の中で引っ張り出していた。
彼女が笑顔を浮かべるのは決まって、引っ越す前にいた町での話や、悪友のモールと悪戯が成功した話をした時だ。
――それに何より、今日はフルールのためにお店で買ってきた可愛いアクセサリーを準備してきた。ポケットにある感触を指で確かめながら、ニュイは自分を勇気づける。
「フルー………」
そう声をかけようとした時だった。彼女は、何やら忙しなく視線をあちこちに向けて落ち着きがないようだった。
「どうした?何か探しているのか?」
「あ、あのえっと」
不意に声をかけられ戸惑っているのか、困り顔でフルールはこう答える。
「実は、髪留めをどこかに落としちゃったみたいで…」
「髪留め?どんなの?」
「小さな花の髪留めなのだけど、よく覚えてなくて…。多分、今日この村に来た直後はあったと思うのだけれど」
ニュイは〝小さな花の髪留め〟と聞いて先ほどの子供達との会話を思い出した。
「……そういえば、もしかして」
「?」
「いや、事情は分かった。協力するよ」
「いいの?」
「大事なものなんだろ?仕方ねぇから、探してやるよ」
「ありがとう。じゃあ、お願いするね」
フルールに少し笑顔が戻ったのを確認してから、ニュイは診療所を後にした。
「あの子たち、確か〝落ちていたものを拾った〟と言っていたよな」
まだ遠くには遊びに行っていないことを信じて、ニュイは駆け足で村の広場へと引き返す。その道すがら、彼は手を顔に当てて、思わず首を横に振っていた。
「俺としたことが、フルールがいつも身につけている髪留めのことをすぐに気づかないなんて」
広場近くまで差し掛かった時、ピィー、ピィーという草笛の音が近くに聞こえて来る。音のする方を向けば、先ほどの子供達がまだ広場で遊んでいた。そのまま彼は、子供達の元へ駆け寄ると、息も切れ切れにこう伝える。
「すまない。いきなりで悪いんだけど、まだあの髪飾りを持っているか?」
「うん!持っているよー!」
髪留めを差し出す子供達を前に、ニュイは何とかして宥めようとする。
「その髪飾り、もしかしたらフルールのものかもしれないんだ。だから一度、彼女に確認してほしくてさ」
「フルールって、あのお姉ちゃんじゃね?」
「……森から来る、あのお姉ちゃん?」
子供達の様子が一変する。笑顔は消え、怯えたように顔を曇らせた。
「ニュイのお兄ちゃん。うちのお母さんがあのお姉ちゃんには関わるな、って言っていたよ」
一人が口を開くと、みんな一様に頷く。
「う、うん。お母さんもあの人には近づくなって言ってた」
「あの魔女の、おねえちゃん?」
思惑とは裏腹に、子供達はフルールの名前を聞くや否や、余計に警戒心を強め始めた。ニュイはそれでも言い聞かせる。
「フルールは魔女じゃないよ。だから返してあげてくれ」
「………」
子供達は首を縦に振ろうとしないで、不審そうな眼差しでニュイを見ていた。聞き入れてくれない子供達をどう説得するか、ニュイは考えていた。
すると、ポケットにあったアクセサリーの感触にハッとする。元はフルールへのプレゼントの予定であったが、やむを得ない。今、取り返さなければ、子供達の気まぐれでどこかに捨てられる可能性もあるのだと、自分に言い聞かせる。
「じゃあ、わかった。これをあげるから、交換してくれ」
「わぁー!可愛い!これ貰っていいの?」
「ああ、魔女の物より、こっちの方が綺麗だろ?大事にしてくれよな」
「ありがとう!ニュイのお兄ちゃん!」
そして子供達はまたどこかへ遊びに行った。子供達の背を見送りながら、取り返した髪飾りを手の中で弄ぶ。何とか交換は成立して良かったと、ニュイは内心ホッと胸を撫で下ろす。
「よし、フルールの所へ早く行ってやるか」
そして、ニュイは診療所へと戻ることにした。
***
診療所へと辿り着くと、フルールが扉の前で懸命に髪留めを探していた。こちらに気づいたのか、顔を上げて期待の眼差しで問いかけてくる。
「もしかして見つけてくれたの?」
「ああ、心当たりがあったんだ。村の子供たちが見つけてくれていたよ」
「良かった、本当に良かった…」
満面の笑顔で、フルールは髪留めを優しく握りしめる。その安心感がこちらにも伝わってきた。
「そんなに大事な物なら落とすんじゃねぇよ。ったく、やっぱり放っておけないな、お前は」
フルールはお礼を言いたそうにニュイの方へ向き直る。
「ありがとう。ええっと……」
「ニュイだよ。俺の名前はニュイ・アブリール」
「ごめんなさい。アナタとは何度も会っているはずなのに、覚えられなくて」
フルールは申し訳なさそうに俯いてしまった。それもそのはず、ニュイとフルールの2人は出会ってから既に2年の時が経つ。
それでもフルールが未だニュイの名前を覚えられないのは理由があった。――彼女はどうやら〝記憶障害〟の持ち主だった。ニュイも最初は彼女に嫌われているのかと思っていた。だがユヌから話を聞くと、どうやら彼女は健忘症の類を患っているらしい。
ニュイはそれでもフルールのことが気になって…出会ったその日から、フルールのことで頭がいっぱいで仕方なかった。彼女の笑顔が見たくて、色んな話をしたが、フルールはおそらくそのほとんどを覚えていないのだろう。
何より、名前を覚えてもらえないのは寂しかった。それでも、ニュイはフルールに恋をしていた。都会にいた時の初恋の女の子も、フルールと同じで放っておけない感じが似ていた。
意外とおせっかいな自分の性格に苦笑しつつ、フルールには何でもない風を装う。
「気にすんな。次こそは、ちゃんと俺のこと覚えていてくれよ?」
「うん、私も。アナタのことは忘れたくないってずっと思ってるから…」
「え、それって?」
フルールは無意識に呟いたその言葉の意味を反芻すると、頬を紅潮させた。
「ご、ごめんなさい。自分でもよく分からなくって。でも、ニュイ君はいつも私に声かけてくれるし、お話ししてくれるから、私も嬉しくって、それで…」
どぎまぎしながら、フルールはその場をごまかすようにして立ち去っていく。
「じゃ、じゃあね!また来るからね!」
振り向き笑顔を最後に見せて、彼女は森の奥へと去っていった。
ニュイは呆としてその彼女の後ろ姿を眺めていた。
先ほどの彼女の言葉を思い返すと、途端に自分も恥ずかしくなってきた。
「俺のことを忘れたくない、か」
「――ようやく攻め時となったんじゃないですかい?ニュイさんよぉ」
突如、背後から聞き慣れた悪友の声がして、思わず振り向く。すると、モールがニヤニヤと愉しげな笑みを口元に浮かべていた。
「も、モール……見ていたのか?」
「まぁ、毎度のことながらこうやって隠れて応援していたわけだが、あまりのヘタレっぷりに我慢できずにとうとう顔を出したわけさ」
「――っ、こっの」
「冗談、冗談だよ。そう怒るなって。でも確実に彼女と仲良くなってきてるんじゃないか?あの子、お前に気があると思うぜ」
「んなの分かるかよ。すぐに俺のこと忘れやがるのに。それにアイツはあのままじゃ危なかっしいだけだから、気にかけてやっているだけだ」
「水を差すようで悪いんだけどよ、ニュイ。あの子のことは諦めた方がいいと思うぜ?」
「モール……それはどういう意味だよ?」
黙したまま、森の方をじっと真剣に見つめる悪友の姿にニュイは固唾を呑む。
そして、モールは友人にこう告げた。
「なぁ、ニュイ。――あの女、毎回、森を抜けて村にやって来るよな?」
モールの意図することが理解できたのか、2人の間の空気は蝕むように凍りついていく。モールにも、先ほどの子供達が見せたような敵意をニュイは感じ取った。
「村のみんなもさ、さすがに怪しいんじゃないかって噂してるぜ?あの女の事」
「フルールのことをか?」
「ああ。マンドラゴラの潜むあの森からやって来るんだろう?しかも女一人で、だ」
「何が言いたい?」
「良いこと教えておいてやろうか?あの女、魔女の手先かなんかの類じゃないかって、みんなそう思い始めているみたいだぜ?」
「………」
ニュイは内側からふつふつと湧き上がる怒りに、思わず強い口調で返す。
「そんなわけ、ないだろ」
「そう怖い顔すんなよ。まぁ、それで俺の提案を是非聞いてもらいたいのだが」
モールは打って変わって、いつもの悪戯を考える子供のような表情で、ニュイの肩に腕を回してきた。
「俺たちで確かめに行かないか?」
「マンドラゴラの声を聞いたら、一発で死ぬってお前も知っているだろ?」
「耳栓、持ってんだろ?」
「持ってはいるけどさ」
「じゃあ、大丈夫だろ。マンドラゴラなんて、叫び声さえ聞かなければ、どうってことないんだから。それに気になるだろ?あの娘のこと」
「モールが興味本位で付いて行ってみたいだけじゃないのか?」
「なぁなぁ、そう言わずにさ。頼むよ。俺たちがさ、あの子は魔女の手先なんかじゃないことを証明してやれるじゃないか、そうだろ?」
悪友の弁舌に、普段は理性をもって制するニュイだったが、意中の女の子のこととなったせいか、まんまと彼の策に嵌ってしまい、了承してしまう。
「今日だけだからな」
「そうこなくっちゃ♪」
2人はそうして森の入口へと足を踏み入れる。
時刻はまだ昼過ぎといえど、森の中は昏い闇がどこまでも続いている。
――マンドラゴラがいると噂されている森の中を、2人は少女の跡を追って歩き始めたのだった。
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