病芯を咬む (2)
※※※
『ケンスケと別れた。無理矢理セックスしようとしてきて、最悪だった』
High Twilightのライブが終わった翌日。
受信したメッセージは、晴天の霹靂で。
『アタシ、軽い女って、そう見られていたのかな』
快哉を叫ぶその心は、
※※※
ゲーセンで知り合って間もないうちに、雨宮はエリナの招待を受けた。
格闘ゲームの筐体で遊ぶたびに、雨宮はHigh TwilightのアルバムやCDを細々と貸していたのだが、面倒だからいっぺんに借りてすぐに返したい、というエリナの依頼を無碍にすることができなかったのだ。
女子友達の家に招かれることなんて数年ぶりだった。柄にもなく緊張して、別にやましいことをするわけではないのに、興奮して、満足に眠れなかった。
あの、四月の第二週の土曜日。
一週間後にはHigh Twilightのライブを控えて少しだけ気分が上がっていた雨宮は、いつものようにゲーセンでエリナと合流する。
午前は苦手だからと正午に待ち合わせ、近くにあるマクドナルドで適当に腹拵えをして、エリナの家へと向かう。
「アタシ、白澄の近くに住んでるんだよね」
そう語る通り、エリナの家は雨宮が住む場所からそう遠くない、駅にして二駅も離れていない閑静な住宅街のなかにあった。歩けば十分ほどで白澄高校が見えてくる、高級住宅街にあるアパート。
一軒家が九割以上を占めるので、三階建ての建造物は珍しいからよく目立つ。
迷路のように入り組んだ路地を右に左に進んでいくと、アパートのエントランスが見えてきた。それなりに入居者がいるのだろう、エントランス横の駐車場は土曜日だというのに結構な数の車が止まっている。
「アタシの家、一〇一号室なの」
「ふぅん」
「数年前にここに引っ越してきてさ」
「学校、近いんだな。なのに、通ってないんだ」
「まぁ、ね。ほら、面白くないし。進学はしたけど、勉強はついていけちゃうから」
真田の表札の真下には、電気とガス会社シールが貼られている。
公共放送のシールがないのを見るに、どうやらテレビはないらしい。
「さぁ、どうぞ」
鍵を開けたエリナに促され、「お邪魔します」の声とともに雨宮はエリナの家に入る。
質素な部屋だった。必要最低限の家電や家具が部屋の隅に置かれ、生活感がまるでない。
モデルルームのように、整理されすぎている。
散らかった服も、チラシや新聞の類いも、なにもない。
まるで、引っ越してきたばかりのような。
「お母さんは当分帰ってこないよ。仕事だから」
さらりととんでもないことを言いながら、エリナが廊下をつっきり、リビングの奥にあるドアを開けた。
「アタシの部屋はここ。入っていいよ」
「…………あ、ああ」
近頃の女子高生はこんな風に軽々しく、異性を部屋に連れ込むのか。異性と遊んだ経験もほとんどない雨宮は怖じ気づきながら、恐る恐るエリナの部屋へと踏み入る。
不意に襲ってくる濃厚な檸檬の香り。そこに混ざる、女子特有の甘さ。濃密すぎる匂いに、抗いきれない酩酊感を覚え、足元をふらつかせる。くずおれそうになる膝をなんとか押さえ、そして呻いた。
「う、おぉ…………」
リビングや廊下の質素とは正反対の、ごちゃごちゃとした六畳間に広がる強烈なギャップ。
漫画、アニメのDVD、ブルーレイディスク。お気に入りのバンドやシンがソングライターのアルバムやCD、雑誌。小説や画集、さらには魔術や神話の資料集のようなものまでが、部屋の壁一杯を埋め尽くす棚にびっちりと収まっている。
「引かないで欲しいんだけどさ」
「ごめん。無理。もう若干引いてる。というか、なんかこの部屋、息苦しいな。物が多いからか? 高く積み上がってるからか?」
「女友達の部屋を見て、第一声がそれって酷くない!?」
エリナが頬を膨らませる。
けれど仕方がないじゃないか。
これでもかと好みと趣味が詰め込まれた小さな世界。
すぐに受け入れろと言われても無理な話だ。
なにより、あまりにも奇抜な原色がそこかしこに散らばっているせいで、目がチカチカしてくる。
未だに抜けない酩酊感に身体を酔わせながら、雨宮は何度も瞬き、部屋を埋め尽くす数々のコレクションを一瞥する。
「これ、全部エリナのか」
「アタシさ、趣味多いんだよね」
「にしたって、これは多すぎるだろ。こんな金、どっから湧いて出てくるんだ」
「親がさ、離婚してね」
「は?」
「離婚の慰謝料、っていうのかな。養育費みたいなのが毎月それなりに振り込まれてくるんだよね」
唐突に重たい話がエリナの口から零れ出た。
「で、まぁ、使い放題ってわけじゃないけど、そこそこ浪費もできるってわけ。母親は働いてるけど、仕事の関係上、家には滅多に帰ってこないの」
「そう、なのか」
矢継ぎ早に出てくる情報に、雨宮の気持ちが追いつかない。
どんな反応をすれば戸惑っているうちに、エリナが話を続けてしまう。
「まぁ、そういうわけだよ。お母さん、たまに男を連れ込んでくるからそこがちょっと困っちゃうところだけどさ。そのときはホテルで泊まったりしてるんだよね。ほら、なんか情事があったりすると、居づらいし」
ほんの少し聞くだけでも、想像を絶するような家庭環境だった。
「来週、お母さんの男が来るらしくてさ。それで、ライブのあと、どうしようかなって考え中なんんだよね。アタシいないし、夜はやることやっちゃってるだろうし、そこに帰ってくると気まずいし。どうしようね?」
部屋の隅に置かれたキャスター付きの椅子の上で胡座をかきながらエリナが聞いてくる。
「ホテルでいいんじゃないの」
「レオも一緒に泊まる?」
「なんでそうなるんだよっ!?」
「んー、雰囲気」
ノリでそんな誘いするやつがあるかよ……。
「別にやましいことしないんだし、いいんじゃない? 許可さえ取れれば。女子なんて十六歳で結婚できるんだから、ホテルで異性と泊まるくらい不思議なことじゃないと思わない?」
「なんで俺が巻き込まれないといけないんだ……」
「いいじゃん。初体験じゃないの? こういうこと、もう経験できないかもしれないよ?」
そう唆されると、好奇心が疼いてしまう。
高校生なのだし、これくらいは経験しておくべきじゃないか。
そんな思いを駆け巡らせてしまう。
そして、散々迷った挙げ句、雨宮はぎりぎりの妥協点を口から滑らせた。
「それじゃあ、親の許可が取れたら付き合ってやるよ」
「帰ったらちゃんと話つけておいてね。ホテルはアタシがチョイスするから!」
「お、おう……」
はしゃぐエリナ。そんなに嬉しいことなのだろうか。
「渋谷のホテルかぁ……、どこに泊まろうかなぁ……、お金結構貯まってるし、ちょっとお洒落で高い部屋に泊まりたいっ! 夜景を一望できる場所で炭酸飲みたい!」
ただ都会のホテルに泊まるだけで、ここまでぎゃあぎゃあとわめく心が分からない。
「落ち着けよ。うるさいから」
「一人で渋谷のホテル泊まるの怖かったんだよ。こういうとき泊めてくれる友達いないし」
「学校行って作ればいいんじゃんか、友達」
「えー、面倒くさい」
そんな言葉がすらりと出てくるのだから羨ましい限りだ。
作ろうと思えばいつでもすぐに作れると言っているようなものなのだから。
「そんなことよりさ。CD、あるだけ持ってきたから」
「サンキュー。助かったよ。High Twilightってどういうわけかストリーミング配信とか対応してないからさぁ、無料で音源入手するのなかなか難しくて」
「音源買って少しは売り上げに貢献したらどうだ」
「最近のバンドとかはCDの売り上げよりもライブとかの物販メインで稼いでるらしいよ?」
「それはそれ、これはこれ、だろ。音源だけ無料で聞くとか、ないわー」
「別にいいもん。それってレオがそういう信条なだけでしょ? アタシは物販で貢ぐって決めてるから。トータルで考えればアタシのほうがお金出してるはずだし」
「お金だけが愛の形じゃないだろ」
「お金は大事だよ。愛だけで人は生きていけない」
エリナが言うと重さが違う。
「とりあえずCD貸すから、さっさとコピーして。結構枚数あるから時間かかるし」
「うんっ。それじゃあ、ありがたく借りるね」
エリナは慣れた所作でPCを操作しながら音源を取り込んでいく。
その間、雨宮は暇だったので部屋一面を埋め尽くす山々を眺めてはぼうっと過ごすことにした。
「なんか、興味あったら適当に見ていいよ。アルバム借りたお礼に」
「とは言ってもなぁ……」
雨宮自身、アニメや漫画には疎いほうで、追いかけているシリーズなんてものだってない。クラスメイトが楽しそうに話しているのを何度も耳にしているが、どうしても食指が伸びなかった。
追いかけているバンドもHigh Twilightだけで、他の音楽や歌手にはほとんど興味を持てないでいる。新しいスターが出てきたら話は別なのかもしれないが、雨宮の感性に刺さるような
風景画集や魔術辞典なんてものは、まるで興味を抱けない。中身を覗く勇気もない。無趣味に近い自分のような人間が手に取っていいような代物ではないような気さえしてくる。
その本の面白さをきっと理解できないだろうし、その価値をきちんと評価できない。そういうものは手に余るから、触ることすら
そうして選択肢を減らしていくと、これは必然的に、彼女自身に関するものしかなくなってくる。
中学校や小学校で撮られたであろう写真や、アルバム。
そこに走る背表紙に、雨宮の目がとまった。
「あ、そうだ。アタシってばお茶の一つも用意してなかった。ちょっと煎れてくるから、待っててくれる?」
「あ、ああ……」
エリナが部屋から出て行く。
その隙を見計らうようにして、雨宮は卒業アルバムを手に取った。
少しだけ背徳感があったが、なんでもと言われた以上、すでに許可は得ているものだと言い聞かせながら、アルバムを開く。綺麗に枠取られたクラス一同が揃ったページに、ピースサインをして映っているエリナ。目をみはり、彼女の名前を弱々しく指でなぞる。この頃からすでに美貌の片鱗を窺わせるかのようで、他の女子よりも飛び抜けて綺麗だった。
両親が離婚したと言っていたから、そうだろうとは思っていた。
「……………………あ、あぁ」
小学校のときは、名字が真田ではなかったらしい。
雨宮がエリナの家庭の事情を深掘りする権利はない。
だから想像することしかできないけれど、夜まで働き詰め、週末になれば男を連れ込む母親との二人暮らしという日々は、どれほど苦痛で、退屈で、ストレスの溜まるものだろう。
表向きはあまりにも質素なリビングと、壁一枚を隔てて隠されたように存在するエリナの部屋。あまりにも乖離した二面性のある共有空間と六畳の世界は、そのまま母子の関係性を示しているかのようでもあった。
「…………っ」
扉を一枚隔てたリビングから物音が聞こえてくる。そろそろ戻ってくるのだろう。何事もなかったかのように、雨宮はアルバムをもとの位置に戻す。
アルバムを戻して手を引っ込めると同時、扉が開いて、エリナが戻ってきた。
片手にはお盆と、氷の入ったコップにペットボトルのお茶。
「ごめんごめん、お待たせ。なんか興味をそそられるもの、あった?」
「……いや、特に。俺ってオタクじゃないからさ」
「アタシもオタクって自覚はないけどなぁ」
「これはどう考えてもそういう部屋じゃねぇのか? 俺の部屋、こんなに物ねぇぞ?」
「レオの部屋が質素すぎるんじゃないの」
「それはない。断じて違う」
「今度、行ってみたいかも」
「機会があったらな。にしても……これだけ物があって、マジで窮屈にならないわけ?」
「気にしたことないなぁ……。というか、レオってHigh Twilight以外に趣味なさげな感じなの、もしかして」
「まぁ……そうかもな」
「えー。アルバム借りたそれじゃあ恩返しとかできないじゃん。んー……、あ、そうだ!」
エリナが乱雑に積み上げられたグッズの山から、紐のようなものを強引に引っ張り出してくる。やがて全貌が見えると、それは黄色と白のストラップだった。
「これ、あげるよ」
「…………これって、High Twilightがライブ会場限定で売り出してるストラップか。確か、地域限定だったよな」
「うん。それは愛知限定のやつ。三月に行ってきたんだよね」
「……いいのか、これ」
「心配しないで。複数買ってるから、それなりにストックあるし。レオなら喜ぶかなと思ったんだけど、……どうかな?」
「嬉しいよ。ありがとう。これ、大事に使わせてもらう」
「……うん。そうしてくれると、アタシも嬉しい」
受け取ったストラップを、雨宮は鞄に付けてみる。
無味乾燥で洒落っ気のない無地のバッグに、絶妙なアクセント。
良い感じだ。格好いい。
「いいね、それ」
エリナが愛おしそうに呟き、微笑む。
彼女の優しさが詰まったその表情を、雨宮はきっと忘れない。
忘れることなんてきっと未来永劫できないのだろうと、そう思わずにはいられなかった。
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