病芯を咬む
病芯を咬む (1)
雨宮零央はいじめられっ子だった。
中学生になる前。
十一歳まで通っていた小学校では、男子で一番背が小さかった。
多忙な仕事をしていた両親は雨宮の学校生活に無頓着で、けれど勉強にだけは人一倍厳しかった。アニメやゲームなんて娯楽はもってのほかで、同級生とスポーツで遊ぶことすら許してはくれなかった。
だから、クラスメイトと共通の話題で盛り上がることができず、いつも一人ぼっちだった。
そして雨宮自身も意地っ張りだった。
反発し、勉強だけはできることをしきりに威張り散らしていた。
「馬鹿っていってる奴が馬鹿なんだ」
それが口癖だった。いじめてきた奴らには誰彼構わず同じ暴言を吐いた。
これだけの要素が揃っていれば、いじめの対象となるには充分だった。
幼い頃のいじめは、恐怖でしかない。
檻の中の小さな地獄は、真綿のように雨宮を締め付ける。たった一人でクラスメイト数十人の意志に抗うなんて無謀もいいところ。皆から省かれ、のけ者にされる苦痛は雨宮の心に大きな負担となってのし掛かった。
無関心を貫く親はあてにならず、教師も教師でクラスにいじめはないと信じたい、自分が一番可愛くて大切で仕方がない――そういう未熟さから抜け出せていない人だった。
そんな世界で、身体が小さいという見るも明らかなデメリットを抱えたまま、一体どうして
雨宮は、あまりにも無謀な一人きりの戦争をしていた。
けれど、それが小学校の頃の雨宮のすべてではなかった。ただの反抗心だけだったら、年齢が二桁になる前に、とっくのとうに折れていた。
クラスメイトからひどいいじめに遭いながらも長い間学校に通えていたのは、
頭が良いことだけが取り柄だった雨宮は、それさえ一等賞を維持し続ければ、いずれは振り向いてくれるものと信じていた。
なのに、期待通りにはならなかった。
クラスメイトのいじめはエスカレートし、蔵敷までもは雨宮をからかうようになった。
はじめは雨宮を庇うようにしていじめの仲裁に立ってくれていたのに、いつの間にか。
きっかけは、雨宮がムードも読まない下手くそな告白をしてしまったせいだったかもしれないし、周囲の圧力に耐えきれなくなったからかもしれない。雨宮にはその理由を推して測ることはできなかったけれど、いじめに加担するようになったことだけは明白な事実だった。
蔵敷からの罵倒を受ける。
無視をされる。
邪険にされる。
そういう小さな悪意の積み重ねは雨宮の心を大きく磨り減らせた。
好きな人からいじめを受けることほど、この世に辛いことはなかった。幼いながらに深く傷ついた。両親に隠れて毎日のように布団の中で泣いた。トイレに
だから。
無理が祟って、学校で意識を失うのは当然のことだった。
医者から叱責を受けた雨宮の両親は血相を変えた。まさか自分たちの子供が病院に運ばれてしまうほど学校で酷いいじめを受けているとは想像だにしなかったのだろう。
「学校が辛いなら、転校してもいいのよ? どうせ、私立に受験するのだし」
母親のその言葉だけが唯一の救いだった。環境さえ変わればどうにかなると信じて縋るしかなかった。
折良く夏休みだった。子供のために転校を決断できる程度には、両親は蓄えがあった。
雨宮はそうして、あっけないほど簡単に、小さな地獄から抜け出した。
地獄から抜け出しても、心を蝕んだ過去は雨宮を苦しめた。
学校へ行こうとすれば身体が拒絶反応を示す。
家の玄関から足を踏み出せても、学校まで行けなくなる。
徐々に回復の兆しはみられたものの、精神的な理由から、私立への高校受験は諦めざるを得なかった。
さらに追い打ちを掛けたのは塾で開催された全国模試だった。
散々な結果で、見たこともないような順位だった。
上から数えた方が早い程度。
でも、それだけ。
唯一の誇りだった勉強すら、たかが地元で一等賞なだけ。
自分よりもできる人間が無数にいることを思い知った。
そうして、誇りも失った。
そして、失敗した。
小さな世界で、どこまでも奈落に転がり落ちてしまった。
地元の公立中学校に上がっても、成績は良かったけれど、人付き合いは克服できなかった。
加減のない悪意を邪推してしまう。
どろどろとした建前と本音を意識してしまう。
だから、人間関係というものを構築できない。
他者との確執を避けようとすればするほどに、痛みを避けようとすればするほどに、友達も親友も知り合いも作れない。完全に負のスパイラルに陥ったまま、抜け出せない。
痛みに強い他人に憧れた。うまくやれている子に嫉妬した。
過去の自分を恨んだ。
自分をいじめてきた奴ら全員を恨んだ。
好きだったはずの蔵敷には憎悪すら抱いた。不幸を願った。
何年も経った頃、雨宮はようやく、いじめっ子たちに自分の輝かしい未来をぶち壊されたことを思い知った。
性格がねじ曲がった原因も、理解した。
そして悟った。
善意なんてものは存在しないし、期待されることを望みもしない。
他人への気持ちを諦めれば、自分が傷つくこともない。
興味を抱くくらいなら、無関心でいたほうがずっと疲れない。
期待しなければ、裏切られることもない。
地元の公立中学校に進学して一年が経った頃、雨宮はそんな信条を確立させた。
そしてやさぐれた。
少ない小遣いでゲーセンに通い始めてから格闘対戦ゲームに明け暮れるようになった。勝ち続ければ無限に遊んでいられる快感にどっぷり嵌まった。いつしか地元では負け知らずになった。有名になりすぎて教師の耳に入り叱られもしたが、もはや矯正するほど価値のある学生の枠にはいなかったせいか、過度なお咎めはなかった。
そういう、普通の学生とは違うことをしている自分は、特別なように感じたのだ。
だから、学校生活が楽しいとか、そういう経験がない。
思い出がない。
そもそも同級生なんて、まるで価値観が合わない。
未熟で陰湿なだけの存在だ。
そんな低俗な輩とつるむことが娯楽だなんて、あり得ない。
まして恋とか愛とか、そんなふうにして他人を信用するような真似、するだけ無駄だ。
裏切られれば全てが泡となって消えるのだから、だったら最初から他人に期待なんてしないほうがいい。
そう、信じていた。
なのに。
あれだけ諦めていたのに、傷つくと分かっていたのに、期待してしまった。
信じてみようと、魔が差した。
それが最初の誤りだった。
過去の気持ちにさっさとケリをつけるべきだったのに、先延ばしにしてしまった。
それが最大の誤りだった。
過去と青春は、取り返しがつかない。
痛いほど分かっているつもりだったのに。
人は誰しも同じ過ちを繰り返してしまう。
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