Lemon (6)
視界の先。飛び込んでくる人影。エリナの奥に、茶髪の男が立っていた。少し声が高くて、背も高くて、塩顔で、どうしようもなくばっちり決まった髪型に、質素だけれどクールで洗練された服装。纏う空気が違う。オーラが別格で、その佇まいから盛れる気品の良さを比較しようとすることすらおこがましいほどの、面構え整ったの男子。
雨宮はようやく、いっそ完膚なきまでに理解させられる。
「あ、ようやく来た。遅いじゃん、ケンスケ」
自分とエリナは釣り合いなど取れていないのだと。
エリナを満足させられるのは、幸せにするのは、自分ではないのだと。
ああいう男が、エリナの側にいてやれるのだと。
エリナに選ばれるのは――、
「先輩がシフト終わるぎりぎりまで来なくってさ、早上がりできなかったんだ。すまん」
ケンスケと呼ばれた男が、雨宮に目を配らせ、そのまま視線をスライドさせる。秋葉を一瞥するも、なんの興味もないかのように――どころか、まるでその場にいない存在のように気にも留めず、雨宮へと視線を向けた。
「で、そっちの男は?」
「ああ、彼がこの前紹介した、ゲーセンの友達」
「ふぅん。そっか。どうも、
知らない男からするすると名前が出てくることに強烈な違和感を覚える。エリナがしきりに話をしていたのだろう。どこか敵対心のようなものすら感じて、流石に、背筋に怖気が走る。
挨拶のつもりなのだろう、澤野がスッと手を差し出してきた。綺麗で細くて長い指。少しだけ伸びている爪。見栄っ張りなのか、敵意が滲んだ声とは裏腹に握手を求めてくるだなんてどうかしてる。
けれど、いまの雨宮に、その手を取らない選択肢などありはせず。
「ど……う、も……」
しどろもどろになりながら、声を絞り出す。弱々しく差し出した右手を、どうにか差し出された右手に重ね、軽く握ってみせた。がっしりと掴み返してくる澤野に、外見からは想像もできない握力を感じ、雨宮の肩がびくりと跳ねる。
「うん。よろしく。しかし、エリナもなかなかどうしてイケメンと知り合いなんだね。やっぱりエリナが綺麗だからなんだろうけど」
できた世辞だ。用意すらしていたかのように、すらすらと、思ってもいないだろうことを、よくもそう易々と。
「ちょっと、こんな場所で変なこと言わないでよ」
「すまんすまん。で、とりあえずお腹減ったし、飯食おうぜ」
「あ、うん。そういえばレオさ」
「……あ?」
「ブーツ、履くのやめたんだね」
「…………まぁ、な」
「いいんじゃないかな。見栄を張らなくなったの」
「…………っ」
「それじゃあね、二人とも」
恋人つなぎをして去って行く二人をただただ呆然と見届ける。そして見てしまう。雨宮が知らない、エリナの微笑。横顔に映える、彼氏にしか見せないような、恥ずかしそうに照れる、蕩けた表情。
二人の姿が視界の端へ消えた途端、雨宮は猛烈に込み上げてくる嘔気を必死に喉元で押しとどめる。限界が近い。
席を立とうとして、
「……やばい。びびった。つうかマジ? あたし、発狂するところだったんだけど……ねぇ、エリナの彼氏が健介って、本当なの!? なんで教えてくれなかったわけ!?」
先程まで存在感を完全に消失していた秋葉が息を吹き返す。
「お、俺だって、彼氏を、面と向かって紹介されたのは、これが初めてなんだよ……」
「いや……、ほんと…………、ああもう最悪だ……、なんで、よりによって……」
「待てよ……、なんで秋葉がそんなに頭を抱えることがあるんだよ」
「アイツ、元カレだもん」
「…………はぁ?」
雨宮は耳を疑った。
いま、なんと言った?
「だから、元カレだって言ってんの。外見はいいけど内面はクソでアレも下手くそな奴に引っ掛かるなんて……。エリナはあたしと同じで男を見る目がないのかも。ああもうほんとどうしよう。あいつが元カレだってのばれたくないし、だけどあいつには気をつけたほうがいいとか変にアドバイスしようとしたらバレるの覚悟しなきゃだし……つうかこのまま黙ってるのは良くないはずだし……ううぅ」
「あいつが、秋葉の、元カレ……? ――うっ、ぐ」
「ちょ……ちょっと、雨宮っ!?」
「秋葉……ごめん、ちょっと、トイレ……」
「あんたマジでそれ大丈夫なの!? もうすぐライブだよ!?」
「すぐに戻る……からっ――うっ、ぐ」
「スマホだけは持って行きなさい!」
朦朧とする意識のなか、雨宮はテーブルの上に置いてあったスマホをなんとか手に取る。
様式トイレに駆け込んで屈むと同時、吐いた。
嘔気が無限に込み上げてくる。
――いくら外見がよくても内面とセックスが駄目じゃあさ。
エリナとあいつがヤったことを想像して、吐く。
――エリナもなかなかどうしてイケメンと知り合いなんだね。
作ったような声。気持ち悪い。怖気が迫り上がってくる。
握手した右手。
エリナを弄った、右手。
汚らわしい指先の感触。
「うっ、うああぁ……」
焼き付いてしまった。二度と、忘れられない。
雨宮がたったの一度だって見たことのない、エリナが浮かべた女の顔。
カップルなんていなくなればいいだの、羨ましいだの、そんな感情は湧き出てこない。
喉元に込み上げてくる気持ち悪さと怖気。背筋は未だに震える。
あんな風に笑いやがって。
あんなにも待ち遠しそうに切ない顔を浮かべやがって。
あんな男と、しやがって……っ。
「う、ぐっ……」
歪む視界の端に映る鞄。
エリナの家に行ったとき、彼女からもらったストラップが目に入る。
「こんな……、もの……っ!」
鞄から強引に引き剥がす。
繊維の破ける雑音。金具が弾ける音。耳障りな商業施設のBGM。
全てが不快だった。
トイレの中へかなぐり捨てようと、ストラップを振りかぶる。
「っ――」
鼻を掠める檸檬の匂い。
エリナが好んで使っている、香水の名残。
思い出す、彼女の優しい笑顔。
「く、そっ! ちくしょう……っ」
――意気地なし。
ああ、そうだ。認めるしかない。
自分が思う以上に、エリナのことを思っていた。
友達としての感情なんてものより遙かに大きな感情を抱いていた。
なのに、踏み出せなかった。
だって、仕方がない。
自分はそうやって生きてきた人間なのだから。
そうしないと生きながらえることができなかった、弱い人間なのだから。
これが夢だったら、どれほどよかっただろう。
取り返せない。
永遠に修復できない。
もう二度と元には戻らない。
あれほど側にいたのに、まるで嘘みたいだ。
認めてしまうと、心の中が晴れるようだった。
まるで雲一つない青空が広がるように、大事なものが空っぽになってしまった。
清々しかった。
いつしか吐き気は止んでいた。
ただ、その代わりに、
「う、うううぅ……ぐ、うっ……っ」
押し寄せる激情が、目からこぼれ落ちて床へと流れていく。
我慢なんて、これっぽっちだってできなかった。
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