STORIA 80

僕は首を横に振り、席を離れる。

手洗い場の冷水を両手で掬い、がむしゃらに自身の顔に浴びせた。

凍結を起こしそうな感覚が、忘れたいはずの残像をくっきりと呼び覚ましていく。

心苦しい断片を掻き消してしまいたいと、僕は頑に願った。




「レイ……」

寝衣姿の銀花が片目を擦りながら、リビングに降りて来ていた。

救急車のサイレンや、二階の普段と異なる様子が彼女を目覚めさせてしまったのだろうか。

「銀花、起こした? ごめん」

「ううん、平気。何か、あったの」

僕の正面の椅子に腰掛けた銀花が、この眼を熟視する。

彼女の問いに全てを話すべきか僅かな迷いが生じたけれど、差し支えのない範囲で伝えようと意を固めた。

少女とは言え、知る権利はあるのだから。

「銀花、よく聞いて欲しいことがあるんだ。八尋さん……、お爺さんがしばらく病院に入院することになったんだ。体調があまり、良くなくてね」

「入院って、病院にお泊まりするの? お爺さんの病気はもう治らないの?」

「心配することはないよ。病院にはお医者さんや看護師さんがいるし、安心して休める場所だから。きっと、すぐに良くなって戻ってくるはずだよ」

僕は都の伯母から受けた苦言を想い出していた。

居候の身でこのまま、居続けていてもいいのだろうかと。

誰に言われるまでもなく、故郷である東京での日常が最も大切だと考えていたのは、自分自身のはずだったのに。




「レイ。私、喉渇いちゃった。何か飲みたい」

卓子を飾る真鍮の燭台に腕を伸ばした銀花が、所在なげに指先を翳している。

「そうだね……。温かい飲み物でも作ろうか」

銀花を起こしてしまったことを申し訳ないと想いつつも、僕は束の間ながら愁眉を開く。

一人では背負いきれないほどの憂いに押し潰されそうになっていたからだ。

誰かが傍にいることの有難みを改めて実感している。

キャビネットから二人分のカップを取り出し、机上に並べる。

銀花には睡眠を促す効果のある、ホットミルクを作ることにした。

「私もレイと同じのがいい」

僕が自分用に珈琲を淹れていると、芳ばしい馨りに誘われてか、銀花が物欲しげな表情でカップを覗き込む。

「銀花がもう少し、大人になったらね」

僕は彼女を優しく諭す。

彼女は少し拗ねた様な面持ちを露にしたが、手元のミルクを口に運ぶとすぐに満足気に微笑んだ。

どうやら、お気に召したようだ。




「レイ。その羽根、綺麗。拾ったの?」

少女の純朴な瞳が卓子の隅へと向けられる。

白く際立つ一枚の羽根、都と丹頂の塒を訪れた時のものだ。

あの時、弾みで地に落ちた美しい白羽根を、僕は無自覚の中でこの手に掬い上げていた。








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