STORIA 79
「喉が乾くのか? 秀蔵ちゃん。少し、飲めるか」
都は膳の上に置かれた湯呑みを八尋さんの口元へと運んだ。
その顔色は先ほどと比べて、明らかに気色が勝れない。
異変を感じたのは、その時だった。
八尋さんが胸の辺りを強く摑んでいる。
唇は右手で覆われ、指の隙間からは暗血色の液体が滴り始めていた。
「秀蔵ちゃん! 」
都の手にしていた湯呑みが床へと滑り落ちる。
水は微かに宙を舞い、儚くも砕け散った。
彼の吐血を目の当たりにした今、僕の脳裏に眠っていた記憶が掘り起こされるのを感じていた。
八尋さんが僕達の視線から逃れる様に奥の手洗い場に身を潜めていたこと、仄かに血腥さの漂う違和感を覚えていたことを。
恐らく、あの頃から彼は想像に耐え難い苦しみと闘い続けていたのに違いない。
もっと早くに気付いていればと、僕は自分を強く責めていた。
「もう、救急車を呼んだ方がいい。黎、電話してくれないか。頼む」
焦眉の急を告げる事態に、僕はすぐさま自分の携帯から緊急通報へと発信する。
都は八尋さんの背中を撫りながら、彼が全てを吐き切ったことを確認して、アイスバッグで胃の辺りを冷やし始めている。
都の伯母が横で応急処置を促しているからだ。
「溶血を防ぐために、食塩水で嗽もさせた方がいいわね」
「秀蔵ちゃん、大丈夫か。確りしろよ。救急車が来るまでは横になっていた方がいい。黎も一緒に……いや、黎はここに残っていてくれ。面倒みなけりゃいけない奴が一人いるだろ。俺、今夜は秀蔵ちゃんの入院する病院に泊まり込むことになると想う」
都は、銀花の存在を気に掛けている。
まだ幼い少女を一人置き去りにして、大人達が揃って姿を消すのは無防備だと判断したのだろう。
ほどなくして、救急車が到着した。
疲憊しきった初老の男性を急送する為に、迅速な処置が取られる。
「じゃあ、行って来る。黎、家のことはお前に任せた。とりあえず、向こうへ着いたら電話を入れるから」
「分かった。気をつけて」
為す術もなく僕はただ、都達を乗せた救急車の行方を見送ることしか出来ずにいた。
夜気が身体に差し響く外界で、サイレンだけが一際大きく鳴り響き、軈てそれは遥か彼方に薄れていく。
悴む右手で扉の握りに触れると、室内へと足を運んだ。
もし、誰かがその瞳に僕の姿を捉えていたなら、孤影悄然として映っただろう。
リビングでただ独り椅子に腰を降ろし、寂寥感の漂う食卓で物想いに耽る自分がいる。
一日という短い単位の中で複雑な出来事に見舞われている現状に、気付けば頭を抱え込んでいた。
全ては容易にはいかないことばかりだ。
然うして憑かれたように想い出す、都の本心と彼の伯母の言葉。
三十畳もある茫洋とした空間は、鬼胎を抱く心をさらに強く揺すった。
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