STORIA 89
「佐倉君……」
「だから、あなたの申し出を受ける事は出来ません」
僕は彼に軽く頭を下げ、最後に詫びの言葉を添えた。
「じゃあ、僕はこれで失礼します」
誰かの心、躊躇いもなく受け入れるには微かな勇気が必要だった。
"もう少し時間を下さい" と……、既に見えぬ彼の背に心の片隅で呟いている。
未だ僕には時間が必要で、そんな風に自分自身に言い訳をさせながら、絲岐さんの僕の作品に寄せる好意も一時的な物なのだろうって、彼にまで醜い感情を覆い被せてしまっていた。
それに、僕は自信がないんだ。
描いた物を堂々と差し出してしまえる程、自信家でもなかったし。
あなたは今、ただ珍しく想っているだけ。
僕の描いた作品がその手の物にならないから、物欲しさに願う心を強く極めているだけなんだよ、絲岐さん。
確実に僕の絵画を間近で見れる位置を手にした時、あなたはきっと予想と違う、僕が作り上げた完成品に期待を裏切られたと、力なく首を縦に落とすのだろう。
僕の描く物はあなたが望む様な物なんかじゃない、きっと。
"綺麗" だ抔と零す、あなたの想いこそが僕の表現する物を表からしか捉えていない単なる綺麗事だ。
あの日、その眼に映った絵画は、朝の滴が用紙を弾いた光が導く夢事だったんだよ。
あなたはそれを理想の物として瞳の奥に深く植え付けた、忘れない様に堅く。
純粋にも注ぎ込まれる視線が僕には怖くて、優しくされる事にも慣れず、自分を卑下しながら相手を遠避ける事で感情の秤に釣り合いを持たせ様としていた。
だけど本当は嬉しかったんだ。
あんな風に素直な心で価値一つない僕の絵画を求めてくれる人になんて、そうそう出逢えやしないのだろうな、この先きっと。
幾日かが過ぎ去り、気が付くと僕は蘭の家の近くまで足を運ばせていた。
彼女はもうここには居ないのに。
僕はどうしてこの場所を求めて来たのだろう。
だけど無意識の中で……。
本当は君の兄に逢いたかったのかも知れない、蘭。
名残惜しそうに見つめる瞳だけを残し、彼女の家のそばを通り過ぎる。
僕の体は軈て飛行場へと辿り着く。
雲海を泳ぐ様に横切る航空機の存在さえ、今はもう懐かしい。
遥か遠くに位置する目的地を追う鉄の塊の様に、僕も全てから逃げる事なく、何かを追い求めていられたなら。
僕は閑かに瞼を伏せ、彼女と過ごしたあの頃にそっと想いを馳せていた。
夕陽が大地や植物に溶け込み沈んでいく、その様子はまるで、朝焼けに染まる深海に潜む宮殿にでも誘われたかの様な感覚を起こさせる。
朱が放つ光景にはそれだけの魅力と幻想的な趣があった。
僕の心に再び素直さが顔を露にし始める。
もう一度、絲岐さんの心に深く入り込んでみたい。
彼の優しさと正直に向き合ってみたい。
あの人は今でも変わらぬ想いを抱いているだろうか。
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