STORIA 88
彼は女性の肩に手を掛けた。
「絲岐さん……」
そして、閑かに僕の腕を彼女達から解き放す。
「違う子? え……、でも……」
「この子は物取りなんかじゃない。よく見てみなよ。窃盗を起こした人物の方は赤い革靴を履いていただろう? 俺も現場に居たから確りと覚えてる」
「そう言えば……」
「彼は窃盗犯とこの角で衝突して、罪を押し付けられる様に鞄を譲り渡されただけなんだ」
騒々しく沸き立っていた僕を取り囲む人声が、一気に消沈していく。
口を揃え、僕を責め落とそうとする言葉に乱れが生じ始めていた。
背を向け足取りを本来の場所へと戻して行く者、未だ何処か訝し気に首を傾げている者。
だけど説得力のある絲岐さんの言葉に、堂々と異見を寄せて来る者はもう現れなかった。
「納得して貰えましたか? それじゃ、彼は俺が預かって行きますから」
絲岐さんは余裕の笑顔を彼女達に送り、僕を別の場所へと導く。
「……絲岐さん」
「また逢えたね」
「あの……」
「うん?」
「どうして……」
「ああ、心配しなくてもいいよ。この間みたいに君を探しに来た訳でも、後を付けていた訳でもないからさ。偶然、俺もブックストアに居てね。彼女達より男の俺の方が足が速いだろ? 先に窃盗犯の後を追っていたって訳。大変だったな、物取りと間違えられて。擦り傷、大丈夫か?」
「はい……。ありがとうございます」
「だけど佐倉君、君もあれじゃ駄目だぞ。違うならはっきりとそう言わなきゃ」
「いいんです。僕なんか職場の中や学生だった頃もいつもあんな感じで、なかなか心中にある意思を伝える事が出来なくて自分でも嫌になる程なんです」
「そんなに悲観的になる事ないよ。寧ろ、それって長所じゃないか? 御人好しというね」
「そんな……」
余り優しさだけを露骨に形にされては困る、と心が奥底で彼の想いを拒んでいた。
あなたは蘭の兄なのだから。
「あのさ、佐倉君」
彼が一言そう零し、一度固く口元を結ぶ。
「はい……?」
「こんな事言うの、とても恐縮に想うんだけれど。君に一つだけ頼みたい事があるんだ」
切り出された言葉の調子は優しい物だったけれど、彼は再び蘭との仲を忠告しようとしているのだと微かに僕は怯え始めていた。
「君に一枚、絵を描いて貰いたいんだ」
絲岐さんは立ち止まり、僕の目を見る。
「え……」
「君の絵が欲しい。俺の為に一筆取ってくれないか? 君の絵を初めて目にした時からその表現方法に惹かれてた。風景画でも人物でも何でも構わないんだ。勿論、御礼もするよ。無理かな?」
彼は閑かに僕の返答を待ち侘びていた。
「すみません、御断りさせて下さい」
「どうして……?」
「絲岐さん、あなたは僕の描く物を、本当に純粋な心で"綺麗" な物として受け止めてくれているのですね。だけど僕の絵画に一色、一色含まれている想いはあなたが想う様な物じゃないんです。僕は自分の中に纏わり付く哀しみだとか不平不満を吐き捨てる為に描き現しているだけ。一部を除いた略、全ての作品が自分でさえも目を向ける度に心苦しくなる様な物ばかりなんですよ。僕を囲む環境は負の感情ばかりで。そんな苦境の中で生まれた作品なんて物は、あなたにもきっと哀しみを誘い込ませてしまうだけ。だから……」
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