STORIA 90

僕は心を決め、蘭の自宅のある方へと視線を流した。

航空機の後追う風が、広野の地を何者かが息衝く音と共に僕の背を撫でる。

生まれた気配に躰を戻し返すと、殺風景な映像の片隅に人影が見え隠れしていた。

まるで逢いたい、と待ち望んでいた僕の想いを叶える様に、そこには絲岐さんの姿があるじゃないか。

僕の描く物を純粋な心で受け止めてくれている、あなただけが。

だけど、彼は蘭の兄だ。

僕と一番愛しい人を切り裂く。

それなのに、僕の本心はこんなにも彼に逢いたいと願っていたんだ。

あの真っ直ぐな瞳を僕の世界に描く事が出来るのなら……。




あなたの掛けてくれる言葉と存在感には、何かを見付ける事が出来そうで、僕という人間を僅かに変えてくれる事も可能になる気がしてしまう。

それだけ、何処か特別な出逢いの様な気がしていた。

だから再び心をけがれない物に戻して、彼の目に真実として僕がどの様に映っているのか深く、絲岐さんの優しさに素直に感情を委ねてみたいんだ。

僕は彼の様子を窺いながら、その視野範囲へと近付いて行く。




「佐倉君」

彼は閑かなこの気配に気付いた。

「あの……」

そう言って見上げた彼の瞳の奥には依然、変わらぬ優しい目元でありながらも、僕に対する哀しい表情が浮彫りになっている。

「どうしたの。今日はここで創作?」

「はい。人物画を描きたいと想って」

「そう」

「あの……、良かったらモデルになって貰えませんか」

「俺が?」

「あなたを描いてみたいんです。それと前回のお話、引き受けさせて下さい」

僕は腕の中で画材を確りと抱えたまま、意思を崩す事なく、彼から瞳一つ逸らさずに返答を待っていた。

「どういう風の吹き回し? 俺はてっきり、君に無理な頼み事をした為に嫌われた物だとばかり想い込んでいたのに」

「あの時は……、すみません。自分でも勝手な事を言っていると承知していますが、でも今は……」

僕は自分の吐く言葉に自信を失いそうになってしまった。

自分から彼を遠避けて置いて、こんな要望は厚かましいのだろうか。

僕の意向が彼に少しでも優しく届けばいいと、時に願いを掛ける。




「穏やかな風は、創作には理想的な環境だな」

漸く僕に笑顔を見せてくれた絲岐さんが、鞄を足下に降ろす。

どうやら絵画制作の対象となる事を試みてくれた様だ。

「あ、ありがとうございます」

「場所はここで好いの?」

「はい」

早速、彼をモデルに筆を染め始める。

「でも光栄だな。君に描いて貰えるなんて」

「そんな、僕はただの素人ですから……」

謙遜しながらも描きたい対象に出逢えた事、その心中に完璧な物を描くのだと、僕の指先には力が漲っていたんだ。

自分が願う物を描ける、そんな嬉しい事はない。

出来るだけ納得の行く作品に仕上げたかった。

だけど五分も経たない内に絵筆を握っているこの手は、想いも因らぬ壁にぶつかってしまう。

何かが僕の指を想う様に動かせてくれない。

本当はこうなる事を何処かで予測していた。

「君はいつから絵を描いているの?」







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