STORIA 79

このまま大切な物を見付ける事の出来る場所まで、迷う事なく辿り着けたなら。

だけど、瞳を伏せると僕の想いを塞ぐ者が目前には控えている。

それは母の姿と、未だ逢いもしない知らぬ職場の顔だ。

その威圧感は、僕の意思なんて簡単に噛み砕いてしまう程の膨大な物だろう。

僕にはやっぱり無理なのかな。

まるで運命の様に与えられた、自分宛ての哀しいシナリオを書き換えるだなんて。

心が哀しみを運び戻して来る時には"疲れた……" と、そう眼が嘆いていた。

そんな時は感情を無にする事によって払い除け僕は只管、筆を握り生まれて来る色を愛し続けていたんだ。





夕陽が空一面を紅く染め始める頃、用紙には優しく微笑む、この世で一番愛しい女性の姿が確かな輪郭を得て容となっていた。

僕は完成した絵画と画材一式を抱え込み、自宅へと向かう。

その途中、同じ様に帰路を辿る母の姿に出逢った。

家までは僅か一、二分という距離の処だ。

想いも因らぬ偶然に僕は激しく動揺していた。

玄関扉までの普段は意識もしない短い距離に、息の詰まる様な感覚を抱く。

何を話さなければいけないという事は全くなかったけれど、僕の存在理由を認め様ともしない彼女が造り出した距離にただ平然と自分を見失わず装っていれば良かった物の、彼女に怯える僕自身の小さな器に本当に嫌気が差し切っている。

母の心中を窺う様な目付きで、狼狽える足取りを自宅へと進めていた。

彼女は一言も零す事はなく、何か別の事を考えている様な仕草で向かう先だけを見つめている。

僕は緊迫した状況の中にも、平静を保つ弱い糸の様な物が今にも千切れてしまいそうで酷く恐れていた。

言葉を交わす事がなくても、また以前の様に彼女からの刺立つ感情によって僕自身が傷付く事がなければいいとそれだけを想っていたから。

母の背に次いで家へと入り、静かに扉を閉める。

彼女がリビングのコーナーに置かれたテレビの電源に触れるまでの極僅かな無白の時間、居室は不気味な閑けさに覆い尽されていた。

彼女がこれ程までに僕に何も言わなくなった事、以前は玄関先であんな風に背中を合わすだけで煩わしく想われていたのに、今は不思議で仕方がない。

彼女は特別に優しくなった訳じゃない。

だけど、そんな母を変えた者。

彼女に少しばかりの影響を与えた男性とはどんな人物なのだろうか。

微かに覗いてみたくも想う。

彼女が父親以外の人に夢中になるなんて、僕的には有り得ない事実だったんだ。

彼女達が離別する、遥か遠い現実に幼い僕が見ていた光景には、彼女は確かに父を愛していた様に想う。

彼女が愛に溺れる訳……憶測で言うなら、あの人の事だからきっと離れて行った夫に対する当て付けか、若しくは見せ付けの為に愛人を作るという行動を起こしているのだろう。

そんな風にしか僕には想えないけれど。







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