STORIA 78
僕の作り出した物が価値のない一枚の紙切れでも。
淋しさを、心を埋め尽している苦を四角い枠の中に吐き続けて行くだけ。
そして同時に1%の願いを用紙に託す。
こんな広い世の中で何が起きるか分からない現実だからこそ、また一つ信じる物に出逢えた時、変わらぬ強い想いで描き続けていられる様にと。
今より強く明日を生きたいと願う心が生まれた時には、優しい目で自分を取り戻していられる様に。
だけど、それは僅かな願いの欠片。
人間が心で想う事と、それらを取り巻く現状って本当に上手く行かない物だ。
生きたいと願った翌朝には、自分が望まなくても突然死が訪れるかも知れないのだから。
そんな時に限り、想いも因らぬ状況が待ち構えている物なのだろう。
迎える先の闇に考え始めると、立ち止まっている時間さえも無駄な物に想えて来てしまう。
ここに残る僕の躰は先立った右京さん、あなたから生きている間にしか出来ない事の大切さを教えて貰った気がしていた。
眠りから覚めた時、昨夜と同じ願いを抱いていられる事は、本当はどんなにか幸福な事なのだろうと想いもする。
優しい気持ちになれた時、僕は初めて一瞬、一秒が何だかとても愛しく想える瞬間があって、この躰に息衝く体温を深く実感する。
小さな事を幸福だと感じてしまうのは、余りに冷たい人間の枠の中で温かささえ見落としてしまったからだ。
だからもし微かな優しさに出逢えたなら、僕は溢れて来る涙を抑える事は出来ないだろう。
陽の様に暖かくて優しい色が、重く深い闇の色を押し退けて、用紙に表れる様になっていた。
足下に頼りなげに咲く、薄紅に色付く可憐な華の姿に蘭の面影を想う。
彼女は今頃どうしているだろうか……。
きっと僕が余計な心配を抱くまでもなく、相変わらず元気で頑張っているんだろうな。
僕はイーゼルにパネルを載せ、絵の具を取り出した。
パレットに淡い桜に似た色を生み出す。
今日描くのは風景じゃない。
僕が一番大切と想えるもの。
君の絵だ。蘭……。
僕の中で君の姿がいつまでも消えぬ様に、君にとって特別である筈の僕の存在が、変わる事なく大切にされていればと願いを込めて用紙を色で埋め尽していく。
君から連絡が来なくなって、僕は逢いたい想いが募るばかりで。
職にも就かず、描く事だけを追い求めてばかりいる、僕のこんな姿を見られるのは非道く惨めな事だって分かってはいるけれど。
何もかも全て放り出して、今は描く事に夢中でいたいんだ。
そして蘭、君に一刻も早く逢いたい……。
君に聞いて貰いたい想いが沢山あるよ。
伝えたい言葉もある。
僕は未だ子供の様に自分の事を想うばかりで、その心に余裕さえ残らない時もあるけれど。
ねえ、僕は少しでも良い方へと変わりつつあるのだろうか?
社会の渦に戻る事をいつまでも拒んでいても、満たされない感情や何かに怯える気持ちに捕われている訳でもなくて、蘭の姿をとても落ち着いた心持ちで瞼の奥に描き出していられること。
明け方の冷たい風の吐息に厭な感情が生まれ出ていた現実が、時を重ねる毎に次第に打ち消されていくのを感じ受けている事も、移り行く僅かな想いの変化が僕の躰には確かに存在しているのに。
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