STORIA 46

こんなに心地の良い音は懐かしさの中に抱く初めての物だ。

「ね、佐倉君て下の名前、何て言うの?」

「何? 突然。……冬悟だけど」

「"とうご" ? 珍しい名前ね。どんな漢字を書くの」

「四季の"冬" に悟りの"悟" だよ」

「そうなの。じゃ、冬君って呼んでもいい?」

「別に何でもいいけど……」

「ほんと? じゃ、これからは冬君ね」

そう呼ぶ声が僕の心に愛しい人を引き戻す。

彼女は何処か蘭に似ている。

僕を穏やかな気持ちに戻してくれる漆黒の瞳と、安らぎを与える言葉に隠された純真な心。

蘭が僕の名を呼ぶ様に、彼女もまた同じ様に僕の名を呼ぶ。

似ていると意識する程に心は錯覚を起こしてしまいそうになる。

だけど彼女は別人で。

僕が心を許せる相手は蘭、一人だけだと想って来たけれど素直になれる相手が二人、三人と増える事は本当はどんなにか嬉しい事なのだと想う。




「それより、さっきのメロディーがずっと気になっててさ。想い出そうとすればする程、苦しむんだ。耳には確かな記憶として残っているのに……」

「うん、分かる。そういう時ってあるわよね。記憶が不確かなのに、その物の一部を覚えている事って。大切な物は体が確りと覚えている物なのね」

「うん……。でも何だろ。こういう気持ちを言葉にするなら何て言えばいいんだろう。分かんないや」

「"懐かしい" ?」

「ううん、違うんだ。もっと何か……」

閑かな闇の下で僕は心を少年に戻し、言葉を探す。

「分かった」

そう言って彼女の理解を得ようと声にした。





「"切ない" だ」

僕が耳にした音は正に切ない旋律だった。

だけど懐かしささえ感じられ、愛しむ想いも生まれて来る。

お姉さんの言う通りこの音の正体が母との想い出に関係があるのかな。

ずっと途切れていた、母との間に生じた優しい想いだけが。

彼女は僕の心に嫌悪だけを植え付ける以外の何者でもないって。

母の優しい記憶を鮮明に想い出したら、現実のあの人との姿が交錯して、僕はまた何を信じていいのか分からなくなってしまうから。

だから美しい過去の映像だけが切り取られ、想い出す事はなかったんだ。

雫れ落ちた記憶は子守唄の物なのか、それとも母が日常口遊んでいたものなのか。

だけど何方でも僕にとって、どうやら悪い記憶ではなさそうだ。

お姉さんはそんな僕の心に応えるかの様に眠りに就くまでの間、心に響くメロディーを歌い続けてくれていた。

母を嫌う僕が彼女の持ち歌であるかも知れない曲に癒やされる夜を過ごすなんて、何だか歯痒い気もするけれどね。

だけど、いいかな。

夜が訪れるその時だけは素直になれる。

心に現れる映像と向き合える。

そんな時間もいい。

そして魂が懐かしい場所に返るこんな日も……。




「喉渇いたな。僕、一階の自販機でジュースでも買って来るよ」

昼食まで一時間を切ったという頃、僕は非道く喉を渇かせていた。

「あ、私も行く……」

「いいよ、僕が買って来てあげるよ。お姉さん明日、手術日なんでしょ。何がいい?」







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