STORIA 40

不愉快を誘う物と言えば体に負った傷と、蘭に逢う事の出来ない状況や、絵画に触れる事に不可能な環境にもどかしさを抱く自分に対して位で。

看護婦も病室の人間も極端に僕の心に忌まわしい気持ちを与える者は居ない。

そんな環境に包まれて時を過ごしていると、僕も気付かぬ内に自分の言いたい事を素直に言葉にしている事に気付く。

特にお姉さんの存在には何処か人を包容する力があるみたいで、冗談やふざけていても不思議と彼女の言葉に落ち着いて耳を傾けていられるんだ。

彼女に敬語も使わずに話せてしまうのは、僕自身も知らずに心を開く事が出来ていたのかも知れない。




麻痺していた左足の感覚が目に見えて日毎に快復していく。

点滴から普通食への切り替えも割と速かった。

久し振りに満足な食事を済ませた僕は昼時だと言うのに深い眠りへと落ちる。

御蔭で辺りが寝静まる頃には目が冴えて仕方がなかった。

ベッドから体を起こすとヒューヒューと唸る様に息をする老婆、右京さんの姿が僕の脳に更に刺激を与える。

お姉さんはぐっすりと寝入っていた。

昼間、お姉さんと話している事が多い僕は余り右京さんの存在を意識する事はないのだけれど。

閑かな闇の下で聞く彼女の生命の音は怖い位だ。

右京さんは自分の呼吸さえ満足にコントロール出来ないまま、途切れ途切れな心で必死に何かを訴え掛け様としている。

彼女は掛け布団の中から力なく右腕を伸ばし、掌を胸の上に掲げ何度も上げ下げしていた。

声を失った喉の音と共に。

でも僕には彼女が何を言いたいのかは分からない。

右京さんの心の叫びは僕には届かない。

彼女の苦しみはまるで僕の叫びを表しているかの様だった。




僕は病室をそっと離れる。

何だか外の空気を吸いたい気分だったんだ。

とは言ってもこの時間、建物の外に出る訳にもいかないし。

だけど、ただ病室以外の場所を求めた。

途中、通り掛かった洗面所にふらりと立ち寄ってみる。

鏡にガーゼだらけの自分の顔が映る。

暫く向き合っている内に妙にガーゼの下の傷が気になり始めていた。

「少しだけ……」

僕は右手をガーゼの縁に掛けた。

「今は未だ見ない方がいいわよ」

看護婦の言葉が不意に僕の手を止める。

「お、驚かさないで下さいよ」

「今、見たらきっとびっくりするわよ。後一週間は待った方がいいわね」

「多少の傷跡には動じませんよ。僕の人生なんかもう終わったも同然ですからね」

「若い男子が何言ってるの。これからでしょ、長い人生は。そんな馬鹿な事考えてる暇があるなら同室の右京さんでも励ましてあげなさい。ほらっ」

看護婦は口を尖らせ、僕を病室へ戻す様に元気よく背中を押した。

本気なのにな……、心の中で静かに呟く。

僕は子供だけど、独りじゃ抱え切れない程の悩みだってあるのに。

そんな事を想いながら看護婦と一緒に病室へと戻る。

「ほんと……、右京さん、早く良くなるといいわね……」

彼女は右京さんの白髪にそっと触れ独り言の様に囁いた。

「右京さんって脳外科に入るべき人なんでしょ? お姉さんからそれとなく聞いたけど。彼女の正式病名って何なの」








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