STORIA 41

「子供は知らなくていいのよ」

看護婦は僕の疑問を躱すと、老婆の姿をその視界から外す事なく心配そうに見守っていた。

どうして皆、他人の事でそんなに懸命になれるのだろう。

同室のお姉さんにしたってそうだ。

今の右京さんの様に全てにおいて弱っている者を目にすれば、誰だって優しくしたくなる物なのだろうか。

だけど僕にとってみれば案外それはどうでもいい事で、可哀想だとか同情を抱いても所詮この人も人間だからね。

元気な頃は他人を平気で傷付けてしまえる様な人だったかも知れないじゃない。

そんな現実を背に、誰かの幸福を想い願う心なんて僕には生まれて来やしないんだ。




「御家族の方、本当に心配してらっしゃるのよ。右京さんの事……」

看護婦が今度は僕に同意を求める様な口調で言う。

「そう……」

まるで他人事みたいに右京さんの姿に関心を持たない僕に、彼女は少々呆れ気味だった。

「そんな風にそばに居ても意味ないんじゃない? 看護婦さんの声は右京さんには届かないよ」

僕は自分のベッドの柵に凭れ、何処か冷め切った吐息を翻した。

「意味のない事なんかじゃないわ。佐倉君にだって守りたい物の一つ位あるでしょう? 私達の気持ちも同じで彼女の為に全力を尽したいのよ」

僕は蘭の姿を想い出していた。

守りたい物というのは本当に大切だから言える言葉で。

そんな簡単に他人に抱く感情なんかじゃない。

心許した相手にだけ持てるものだ。

だけど口では幾ら綺麗事を並べていても本当は気付いている筈なんだ。

看護婦も、お姉さんもね。

右京さんの体は長く持たないという事に。




僕は知らぬ間に右京さんの体に自分の心を重ね見ていた。

彼女の絶え間なく繰り返される苦しみもがく姿は、正しく僕の心の声その物で想いが叶う筈がないと分かっていながら、限り限りのところで縋り付き生き長らえている。

世間や身内が僕を嫌い何一つ受け入れられる事がなくても、それでも何かを信じていたくて、僕は最後の網を確りと掴んだまま離せずにいる。

人はきっと強く願えば願う程その想いは叶わない。

弱い者程きっと幸福の鍵を得る事は難しい。

右京さんがその手に全ての叫びを託しても、僕が強く生きたいと想う心も己の愚考や環境が希望を呑み込み、それらを許してはくれない。

大きな渦に僕達は勝てない。

刻々と時を刻む針の音が悪い予感を誘い出して来る。

右京さんはきっと直に逝く。

僕も幸福の扉を見付けられない。

「もう寝なさい。いつまでも起きていると体に良くないわ」

そう言って、看護婦は母親の様な手付きで僕の髪を撫でた。




瞬間、ぐらりと心が揺らぐ。

切なさに夜の閑けさの相乗効果も手伝ってか母の影が甦った。

看護婦が右京さんを想う生きた感情の中に、ずっと幼い頃この心に貰った母の温かさを。

自分の中で動く気持ちに戸惑いを隠せない。

人はどうしてこうなのだろう。

こんな場面に出逢うと心は知らず知らずに純粋な音を起てて、僕の許へと戻って来る。







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